Kの思索(付録と補遺)

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映画「PERFECT DAYS」感想〜完璧な日々とは〜

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【あらすじと概要: Wikipediaより引用】

『PERFECT DAYS』(パーフェクト・デイズ、原題:Perfect Days)は、2023年に日本・ドイツ合作で制作されたドラマ映画。キャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。

ヴィム・ヴェンダース監督が役所広司を主役に迎え、東京を舞台に清掃作業員の男が送る日々を描く。

第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所が日本人俳優としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶり2人目となる男優賞を受賞した。本作は同映画祭でエキュメニカル審査員賞も受賞している。

 

【感想】

平山のように生きて死ぬおっさんは今後増え続けるだろう。それは果たしてほんとうに完璧な日々なのか。「こんなふうに生きていけたなら」、本当にそうであろうか。

 

役所広司演じる主人公の平山は、几帳面で真面目で無口な性格の男だ。その生活スタイルは極めて生産的、効率的なものに整えられており、完璧なルーチンが構築されている。

まずは以下、少し長くなるが、感想のためには必須であるので、その完璧な生活ルーチンを以下に示す。これが平山にとっての「パーフェクトデイズ」である。

 

隣人が掃くほうきの音で朝目覚めると、しっかりと布団をたたみ、歯を磨いて髭を整え、顔を洗い、そのあと花に水を遣る。

仕事着に着替え、玄関から車の鍵と朝コーヒーのための小銭を握りしめ、玄関をでた先にある自動販売機でいつもと同じBOSSの缶コーヒーを買って飲む。落ち着く。1日の始まりだ。まだ日は完全には昇っていないが、良い気分である。

お気に入りのカセットテープを車でかけながら、ようやく昇ってきた朝日を浴びつつ、仕事場に向かう。

トイレの清掃員といっても、芸術的なトイレばかりであり、「荒れ果てた公園のボットン便所」みたいな場所は自らの担当にはない。

ここは東京。スカイツリーが建っている。疲れ果てたサラリーマンやOLがそこかしこにいる。今にも死にそうな人もいる。命がけ、ギリギリで生きていて大変そうだ。

自分の仕事は自分1人で完結するし、誰から叱られるわけもなく、淡々とやれば終わる。いつもと同じルーチンでいつもと同じようにやればいいのだ。ただし手は抜かないことだ。まぁ、だらしのない後輩がいたりするが、そいつも悪いやつじゃあない。

仕事の昼休みはお気に入りの神社でサンドイッチを食べる。見上げると、いつもと変わらない木があり、木漏れ日が気持ちいい。記念にフィルムカメラで撮っておこう。

完璧に仕事をこなしたあとは、銭湯に入って身体をさっぱりとさせ、場末の居酒屋に入ってプレーンのチューハイ。つまりタコサワーがルーチンだ。軽く引っ掛けたのち、家に帰ろう。

寝るまではお気に入りの本をしっぽりと読む時間だ。本が支えられなくなってくるほどに睡魔が耐えられなくなったら、諦めて寝る。これで朝までぐっすりである。

休日がきた。まずは日々のフィルムカメラを現像しにカメラ屋に行こう。溜まった洗濯物はコインランドリーに入れるだけ。

さて古本屋に寄って良さげな小説を買おう。古本屋の店主は流石に詳しい。何を買ってもその作品についてひとこと添えてくれる。

帰ったら写真の選別だ。これはイマイチと思ったものは破り捨て、良いものだけを残して押し入れに保管。言葉よりも写真が俺の日記なのだ。少し昼寝でもしようか。

そろそろスナックに行って、お気に入りのママに会おう。俺は結婚をしない主義だ。だがママに会うことで十分満たされている。

おや、顔馴染みの客がギターを弾きだしたぞ、これはママお得意の歌が聴けそうだ。でもまだちょっと早いんじゃないか…

まったく良い休日だった。そろそろ明日の仕事に備えて寝るとしようか。いつもと変わらない日々。木のように安定した人生。ストレスのない生活。これが俺の完璧な日々。パーフェクトデイズである。

 

未婚おっさんが自分に最適化されたルーチンの生活になることをよく表している。平山にとっては、そのルーチン化された生活こそが平穏の証であり、パーフェクトデイズだと思っている。

 

しかしどんなにルーチンだろうと、「完全な」ルーチンではあり得ない。

 

劇中における平山の完璧な生活ルーチンの中にも、どうしたって「ルーチンでは無い出来事の数々」が差し込まれていく。平山にとっては大事な「平穏」を壊すものかも知れないが、それらはルーチンよりも輝く思い出のように見えて仕方がない。

 

このことは、映画の幕引きに「木漏れ日」として定義される。

 

すなわち毎日同じように見える木も枝葉も、細部を見れば必ず違いがある。風がそよぐだけでも、その形を変える。その瞬間・瞬間にこそ、影があり、光がある。この大切さが「木漏れ日」である。いつも通う古本屋の店主は「毎回同じなのに、何故こんなにも違うのかしらね」と添えて、本を渡してくれた。そこが良いところだと。これも木漏れ日である。

 

ラストシーンで役所広司(平山)が凄まじい「泣き笑い」の演技をみせるが、当然ながら泣きと笑いにはそれぞれ意味がある。

 

劇中で平山が笑うのは、木のようになった(自分と同質の)人と接する時か、または木になれず苦しむ(平山が意図的に降りたであろう)資本社会の人間を見る時だ。

例えば、劇中で意味不明なポーズをしながら太陽に向かって手をかざすホームレスは木であり、公園で酔いから目覚めてフラフラで歩き出すサラリーマンは資本社会の人間である。

 

対して平山が泣くのは、彼が降りた資本主義社会との接点が戻りかける時、その生活が呼び覚まされる時である。いわゆる「普通の幸せな生活」であろう。

だが「普通の幸せな生活」には、平山の求める完璧なルーチンは無い。植物のような暮らしもない。彼も過去は「そちら側」の人間であったためか、その生活の輝き(と闇)を完全に払拭できていないのだ。

 

観客は、日々の光も影も、結局はルーチンにない「揺らぎ」の中に見え隠れしていることを見る。決して平山の夢想する「パーフェクトデイズ」には「木漏れ日」がないことを見る。

ゆえに彼の部屋は、輝きもせず完全な闇でもない、紫色の光が常に灯されている。植物を育てるための紫外線である。

 

古本屋の店員はさらに言う、「恐怖と不安は別のものだ」と。恐怖は「今」、不安は「今度」にある。この「今」と「今度」というキーワードは本記事サムネイルのシーンで繰り返し言われるが、本記事の中で最も重要なものである。

 

平山の生活に恐怖はないだろうが、しかし決定的な不安がある。なぜなら、「今」はパーフェクトデイズであるが、「いつか」(今度)は必ずやってくるからだ。

たとえ自分が変わらなくても、風景は無常に変わっていくのだ。なんだかんだ良くしていた後輩も急に仕事を辞めるし、あのビルも今はもうない。

 

サムネイルのシーンで姪っ子は「この河の向こうに海があるの?海を見に行こう」と平山を誘う。しかし平山は「今度」といって避ける。これはとりも直さず、平山が今を見る人間であり、今度を避ける人間であることを意味している。簡単に言えば将来を見据える不安を避け、今のパーフェクトデイズだけを見ているのだ。

 

そういった暗喩である海を見ることを一度は避けた平山であるが、ある出来事(これもルーチンではない)が起き、ヤケ酒タバコを喫するために海に行くことになる。酒はいつものプレーンではない。「色がついた」ハイボールである。タバコはピース、むろん意味は「平和」である。これは全くもってチグハグであることに気づくだろうか。ヤケになったはずなのに、そこはモノクロではない。

 

平山の撮る写真も(平山の見る夢も)、結局はモノクロの生活だ。色調というものがない。

写真というのは時間がなく「今」が切り取られるだけである。ゆえに写真には、作中で定義された「木漏れ日」はあり得ない。時間の流れがあってこそ木漏れ日があるからだ。

時間の流れが止まるほどにルーチン化された平穏。切り取られたモノクロの美しさ。それも良い写真以外はビリビリと破り捨てるように選別された生活。それが平山のパーフェクトデイズ。これが平山という人物なのである。

 

木々が生の暗喩なら、海は死の暗喩であろう。彼はそこで末期がんの人間に出会う。がん患者は、「影は重なっても濃くならない」というが、平山は頑固に反対する。そんなわけがないじゃないか、と。

 

影を避け続ける(捨て続ける)事でパーフェクトデイズを実現できると思っていた平山と、影を背負ってきたがん患者の対比が描かれるのだ。そこで行われるのは影踏みゲームである。むろん説明するまでもなく、踏まれようとする「影を避ける」ゲームである。

 

このがん患者との対話で、「今度」について考えることを避けてきた平山は、否応なく自らが死ぬ場面を想起しただろう。あのアパートで、モノクロの中に孤独死する場面を。

もはや疑いようもなく、平山の実現したかった「パーフェクトデイズ」の土台が崩れ始める。果たしてそもそも、そんなものはありえたのか、と。

あの姪っ子が泊まりにきた時間こそ、窮屈で快適ではなかったものの、輝きのあった日々ではなかったか。

 

人生の難しさはそういうところにあるだろう。何が正しいかというわけではなく、この映画は疑問を問いかけるだけだ。

そもそもそんな「正しい生活」「正しい人間」なんてあるのかと。本当にそれが「パーフェクトデイズ」なのかと。

逆の立場の目線も書いておくと、人生の難しさが際立ち、よりフェアな言及になるだろう。

すなわち、姪っ子は平山の仕事ぶりを「動画」で撮影していた。むろんモノクロではない。

これまでの話を理解してくれている読者であれば、このことが何を意味しているかおわかりだろう。

姪っ子にとっては、平山の生活ぶりこそ「木漏れ日」に見えているのである。

 

平山のようになる人間がこれから圧倒的に増えていくであろう世の中に、痛々しいメッセージを発した傑作である。それは平山のように言葉にならない人間に、言葉にならない人生と、どうしようもない泣き笑いが同居するということである。

2023年の我々の現在地と映画ベスト

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毎年この時期に更新する映画ベストブログ。

 

そしてこれも毎年の繰り返しになるが、2023年に「見た」映画の中でのベストであり、「2023年公開の映画からのベストではない」ことに注意してほしい。

 

とはいえ、今年は数える程度にしか観ていないため、映画中心の紹介とはせず、「2023年の我々の現在地」といったところを軸にして、トップ3本だけ紹介するに留めたいと思う。

 

2023年10月7日、パレスチナガザ地区を支配するハマスが、イスラエル領内に数千発のロケット弾を撃ち込み、イスラエル南部各地に戦闘員を侵入させて民間人多数を殺傷した。ここにパレスチナイスラエル戦争が新たに勃発したことは記憶に新しい。

 

そこから少しさかのぼり、ロシアがウクライナに侵攻したのは、2022年2月24日である。その戦争は2023年もついに終わることがなかった。

 

現在ロシアがある地域にはソ連があったが、ソ連崩壊を受け、ロシアとウクライナは国を分けることになった。

 

ソ連崩壊にともなって公開された機密文書によると、1950年6月25日、北朝鮮金日成は、ソ連スターリンおよび中国の毛沢東に対し、同意および支援を取り付けたうえで、事実上の国境線である38度線を越え、韓国に侵略戦争を仕掛けた。朝鮮戦争である。

 

ロシア・ウクライナ戦争に対して「ロシア側につく国」というのは、おおむね上記のまま(中国・北朝鮮)であるというのは、歴史の自然と言って良い。

 

戦争というのは、地理支配という点に対する、実行的または政略的なアプローチを主として為される。

要するに、武力と頭脳を駆使した騙し合い、化かしあいのオセロのようなものであり、挟撃された土地は白が黒に変わることになる。

 

簡単にいえば、領土が取られる。後述するが、ロシア(プーチン)を激怒させたウクライナの行動のきっかけも、似たようなものである。

 

ここで韓国に目を向けたい。韓国は、上記歴史の経緯からいって北朝鮮のオセロ色になることはあり得ず、日本(およびその巨大なバックであるアメリカ)についた。2023年7月15日には、韓国の尹大統領がウクライナの首都キーウを電撃訪問してゼレンスキー大統領と会談し、軍需物資や人道面の支援拡大、要するにウクライナ支援を表明した。

 

一方で2023年10月18日の北京においては、プーチンが中国の習近平国家主席に対し、経済・エネルギーでの連携強化をテーマとした会談を行った。これらのことは、先の冷戦と通じる歴史の結果に過ぎない。

 

1947年の米ソ冷戦は抽象度をあげれば資本主義国と共産主義国との「文明の衝突」である。

 

上記した内容からわかるとおり、2023年を通して、ロシア・ウクライナ戦争はすでに代理戦争的な側面を持ち始めており、実際にはほとんど世界冷戦である。現在の世界冷戦の二大巨頭としては中国vsアメリカである。

 

つまるところ共産主義と資本主義という、文明の衝突という構造は変わっていない。

 

1949年に「共産党」の毛沢東が、「国民党」の蒋介石をトップとした当時の中華民国(現在の台湾含む)を滅ぼす形で、中華人民共和国を創立した。

 

敗走する形となった蒋介石は台湾に逃げ込み、民主主義を訴え続けた。ここでアメリカは、蒋介石のその時から、台湾が共産党に支配されないように支援してきた。

 

一方で中国は、台湾を統一するという姿勢において一貫して変わりがない。先ほどのオセロの側面から言っても、台湾を中国軍が支配できれば、簡単に太平洋に出られるようになり、アメリカ側の脅威となることは容易に想像できるからだ。

 

この構造も、ロシアとウクライナの関係に非常に似ている。

 

ウクライナは「NATO」、すなわち、もともと東西冷戦時代にソ連に対抗するためにアメリカなどがつくった軍事同盟に加盟しようとした。

 

NATOはもともと「共産」主義圏だった国々に「民主主義」を拡大する、いわば政治的な役割も担うようになっていた。

 

一方でロシアはその歴史的にいっても、いつも西から攻め込まれている(もしくは寒さからくる不都合払拭の侵略のために自ら南下する)ために、東欧諸国と呼ばれる地帯については、「軍事上の緩衝地帯」として認識しており、NATOの東方拡大ですら脅威であり、そこへのウクライナNATO加盟の動きは、プーチンにとってそのまま軍事的挑発そのものだったのである。

 

このような事情から見ると、台湾にせよウクライナにせよ、ある国が分裂したとき、元の国から文明思想的に離れようとする国は、元の国の文明思想をもつ勢力国から侵略を受けるのであろう。

 

そして我々日本人は、このような世界冷戦の中で、ウクライナ側におり、台湾側にいる。なぜなら、アメリカ側にいるからである。

 

もっとも、アメリカはもしもの時(例えば台湾有事が起きた場合)、日本がアメリカに本当に協力するかということについて、政治・経済の両面から常に圧力をかけ続けてきている。

 

これは第二次世界大戦後から続く「パクスアメリカーナ」(超大国アメリカ合衆国の覇権が形成する「平和」)として知られるものが具現化している事態の一つであろう。

 

もし日本がパクスアメリカーナに協力しなければ、アメリカは日米安全保障条約を破棄すると言ってきている。アメリカの後ろ盾がなくなったとき、日本は先ほどのオセロの例えにおいて、どのような勢力に囲まれることになるかを考えてみる必要があるだろう。

 

むろん、戦うとは言えど、日本はもはやとても中国には勝てない。先の大戦における神風特攻の二の舞になるのは必至だ。だから戦争は避けなければならない。しかし、戦争を避けると明言すれば、アメリカは日米安全保障条約を破棄する。…では日本はどうしなければならないのか?


2023年度の映画ベストを以下に発表しよう。我々の現在の立ち位置を振り返り、「戦争というものは、絶対に避けなければならず、またその為に何をすべきかを、常日頃から考えておかなければならない」性質なのだということを、教訓として痛感するための3本である。


三位 ダンケルク


二位 ゴジラ-1.0


一位 西部戦線異状なし

 

 

 

 

 

 

Lyric by amazarashi - クリスマス

 

罪深い十二月の朝に
白い雪の粒が舞い落ちて
それに優しさが埋もれたなら
こんなに眩しいわけはないよ


どこか遠くミサイルが飛んで
流星と見間違えた少女
願いを三つ唱える前に
目を覚ましたら
パパのプレゼント

 

さあ祈ろうぜ世界の為に
救いようない僕らの為に
見てみろよ酷い世界だろ
 
今日は美しいクリスマス

2022年に観た映画ベストランキングトップ6(12/30、大幅加筆およびランキング変動)

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※この記事は12/30に見たある映画の影響により大幅加筆され、ランキングも変動しました。

 

長らく更新が止まってしまっていた。さらっと生存報告をすればまぁ2022年は色々旅行やライブに行きまくってました。函館、仙台、名古屋、東京どれも楽しかった。ヨルシカも素晴らしかったし凛として時雨も圧倒されたしBUMPのライブハウスツアーに参戦できたのは色んな意味で過去の総決算という感じだった(画像はBUMPライブの時のもの)。

 

さて映画ベストくらいはやっておかねばならないと思い久しぶりに筆を取った。あくまで2022年に観た映画から選ぶベストであって公開日はそれ以前ということもある。まず観た映画全てを以下に示しておく。

 

スパイダーマンノーウェイホーム

マグリナント

アルキメデスの大戦

るろうに剣心ザビギニング

バットマン

シンウルトラマン

トップガンマーベリック

アイの歌声を聴かせて

浅草キッド

オカルトの森へようこそ

ハイローザワーストクロ

さかなの子

二郎は鮨の夢を見る

花束みたいな恋をした

ヘルドックス

RRR

犯罪都市2

すずめの戸締り

12/30 鑑賞映画

 

全盛期に比べると随分観る数が減ったものだと思う。さて前置きが長くなった。それではさっそく6位から順に発表していくことにする。

 

六位 二郎は鮨の夢を見る

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あらすじ一言解説「80年寿司握り続けた結果wwwww」

すきやばし次郎」ーー寿司好きなら知らない者はいない銀座にかまえる超有名店に密着したドキュメンタリー。

予約は困難であり予約できたとしても一食6万円は覚悟しなければならない。そして30分くらいでサクッと食事を終わらなければならない。この価格クラスでこの回転速度というのは普通あり得ない。「寿司は出された瞬間が最も美味しい」というこだわりの文化ゆえだ。それでいてミシュラン三つ星を当たり前のように毎年取っており海外知名度も凄まじい。

だが何よりも驚嘆すべきは店主の小野二郎(現在97歳)が今なお現役でありカウンターで寿司を握り続けている事である。

人生ほぼ全てが寿司に貫徹された男から発せられる言葉は何もかもが哲学的で含蓄深く、鮨のことを語っているにもかかわらず人生全般に共通する名言の連続である。

畢竟、物事というのは極めれば全てに共通する何事かを見出すものらしい。

そして本質を浮き彫りにするとはそれ以外の全てを削ぎ落としてシンプルに向かうことであると言えるだろう。

 

五位 HiGH&LOW THE WORST X

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あらすじ一言解説「他校の奴らに仲間がやられたので殴り込みに行きます」

感想いくぞテメェら。あらすじの通り(というかそれだけ)の映画である。いやだがそれで良いのだ。いわゆる「ハイロー」シリーズの最新作はいつもと変わらない良さであった。あまりに多すぎるキャラクター、あまりに癖が強い登場人物の性格。それらがあまりにシンプルで王道で水戸黄門のように様式化されたストーリーに乗る事で見事に纏められる。アクションは現状の邦画の中ではダントツに抜きん出ており大乱闘でありながらも無茶苦茶なだけで終わっていない。

最高峰のエンタメというのはデタラメの中の深層に土台として揺るぎない秩序があるものなのだ。

 

四位 すずめの戸締り

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あらすじ一言解説「仙台まで行ってきます」

新海誠監督は「君の名は」を契機に「新海誠的な作家性」のほとんどを棄却し観客のニーズに寄り添うようになった。そのことは過去の記事でも繰り返し語ってきたので今は改めて説明しないが万人受けしない作家性を棄却したが故に大衆受けするようになり今や国民的に知られた監督となった。(もちろん新海自ら棄却しにいったのではなく周りの優秀な部下が「この結末はダメだ」等々と新海性の撤廃を諭した結果である。)

そういった背景を持つ監督の最新作は、ほしのこえ秒速5センチメートルを知っている人ならば「あの新海誠がこれを作ったのか?」と驚くほどの成熟ぶりを見せている。新海の本来の作家性はさらに進んだ撤廃を見せており劇中歌やポエトリーも流れない。テーマもメッセージに汎用性があり本質は震災、人と人との関わりということであり、それらを九州から仙台までの旅を通じたロードムービーという形で描く(そしてその中にある青春恋愛物語はもはや添え物に過ぎなくなった。)。

細田守庵野秀明宮崎駿にも共通するが、アニメーター監督というのは若かりし頃が如何に尖っていようと歳を重ねるにつれ汎用性およびメッセージ性が高い物語を描きたくなるという境地に至るものらしい。本作がジブリ的と呼ばれるのも別にジブリを目指しているからではなく作家というものが歳をとるとジブリ的にならざるを得ないということなのだろう。

 

三位 オカルトの森へようこそ

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あらすじ一言解説「オカルトの森へようこそ」

白石晃士監督の世界観が煮詰まって暴走して爆発したような本作は「傑作」である。

全編ワンカット(風)で撮影されたノンフィクションドキュメンタリー(風ですらない)は、いつものことながら我々ファンを「!?」の連打で打ちのめしてくれる。

リングや呪怨はホラーに「キャラクター」という存在を与え、それが長い年月をかけてJホラーに本来不要であったキャラクターの必要性をもたらすことで洋画ホラーナイズドされ、しかもそのキャラクターは使い古されるうちにマスコット化していくことで元々のJホラーの「根源的恐怖」という醍醐味を根底からぶち壊すという最悪の影響を後世に生み出した(もちろんそうでないという見方もある。「お岩さん」「口裂け女」などの例は尽きないからだ。しかしそれらはむしろ「妖怪」の類であり、どちらかと言えばホラーというよりもおとぎ話もしくは本来の狙いからいけば寓話に分類されるであろう)。

そういったこと全てに対し白石監督は「貞子vs伽耶子」で終止符を打ったつもりであったろう。あの映画の本質はそういう意味全てがこもった殴り合いの喧嘩であった。そしてそのスクラップされた荒野にこれからの新たなJホラーを立脚しようとしている。すなわち諸悪の根源であるキャラクターをあえて押し出し暴走させ喧嘩の装置にするということである。それはもはやJホラーとは全くいえない「白石晃士ユニバース」というジャンルである。

まだまだ知名度が低く新作が公開されるたびに大衆から低評価されてしまう白石監督だが全くその評価は当たっていない。分かる人には思わず号泣してしまうほどにそのメッセージを解らせにくる天才であり、そもそも天才は初期から大衆受け出来ないことをもって天才なのである。

 

二位 花束みたいな恋をした

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あらすじ一言解説「サブカルカップルの日本版ブルーバレンタイン

当時映画館で予告を見た時点では「あーはいはい恋空みたいなやつね」とたかを括っており全く観る気がせず昨年の映画であったが結局今年観ることになった。信頼する界隈の評価が軒並みクソ高評価でありついに食指が伸びたのである。結果、今年見た映画の中で二位の評価となった。まったく、観てみなければ分からないというのはこのことである。

この映画が素晴らしいのは恋愛の描き方がリアルとかそんな表面的な部分ではなく人と人との「相性」というものの本質を炙り出そうとしているところにある。

サブカル同士という「相性」は相性という膨大な情報量のほんの僅かな一面でしかない。しかもその「サブカルである」という特性は人間性や性格といった根源的なものではなく単なる「趣味」である可能性があり、そうだとすれば今置かれた環境がその趣味を産んでいるだけかもしれず、よって時と場所が変われば真逆の特性(趣味)に移ろう恐れがある。

では我々は何をもって恋愛をする上での「相性が良い」などと言えるのだろうか?馬鹿げているだろう。そんなもの最初から簡単にわかるはずがないのだ。物事が万事やってみなければ分からないのと同様、恋愛も付き合ってみなければわからないのである。

一方で、これでもまだ語りきれない含蓄深さがこの映画の中にはある。むしろこのように言語化して語ることで大事な要素が欠けていっている気分にすらなる。

というより映画ひいては物語というのはそもそもそういったことが起こり得ないようにする装置なのである。つまり言語化すると必ず全てが伝わらない、もしくは人の受け止め方で齟齬が生まれるという重大な問題が発生するが物語という変換装置を通すことによって万人が万人の「経験」を得られる。その経験は後からどれだけでも言語化出来るが本質から言えば別に言語化する必要も無く、すでに全ての情報は余すことなくその「経験」の中に含まれているのである。だから我々は言語化するまえに経験に対して感動し涙を流すのであり、その後なぜ涙したかを自らの中で論理化するために言葉で持って評するのである。

 

一位 THE FIRST SLAM DUNK

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12/30、今年最後の最後に観た映画を頂点に置くことになった。それが為に記事を更新しなければなくなった。私にとってあまりにも素晴らしい年末の映画の締めくくりとなった。

この映画にはそもそも私的に最初から不安がつきまとっていた。

あのスラムダンクというあまりに有名な傑作漫画を、20年の時を経ていまさら映画化する必要があるのか。しかも1度アニメ化している。原作は30巻分もあるのに、今さらたった2時間の尺で何を描くというのか。しかも今作は3DCGアニメで、監督脚本は原作者の井上雄彦だという。映画監督をやったことのない漫画家で、そもそも映画として成立するのか……

このようないくつもの懸念があったことから、映画館で観る候補からは退けていたのだが、界隈の高すぎる評価でもってこの年末にようやく食指が伸びたのである(この辺り、二位と同じことが起きている)。

結論としてはとんでもないことをやり遂げてしまったということになるであろう。

少しネタバレになるが、今作はまごうことなきスラムダンクであり、リブートであり、総集編的であり、原作を知っているものからすれば本来なんら驚くべきところもなく、価値もない作品に成り下がってもおかしくない要素で構築されている。

しかしそうはならなかった。むしろこのザファーストスラムダンクによって、井上雄彦が本当にやりたかった「スラムダンク」を完成させたとも言えるかもしれない。

このようなことすら妄想してしまう。つまり、井上雄彦はおそらく20年前に原作を書いている時点で、この映画の映像が脳内に流れつつそれを漫画に描き落としていたのではないか。

つまりは漫画という形態をとる以上、各場面はコマで区切られざるを得ないが、一方実際のバスケの試合というのは当然ながら区切りなどなく、各人が常に各動作をし、それら一連の動作の連関および相互作用でもってゲームセットまで続くのである。であるならば、漫画よりも本来的にはその動作の連続が再現できる映画の方が、作品として完成されるはずなのである。

要するに本作は、構成だけみればひどく凡庸と言っていいほぼリブート総集編である、しかし漫画すなわち「コマ割りという制約条件」のある原作を、その制約から解放して現実的な試合に落とし込んだ。その完成度があまりに高すぎたがため、歴史に残るアニメーション映画となったのである。

もう少し詳しく言おう。

そもそもバスケットの試合は瞬間瞬間にフェイント、駆け引きが行われ、敵に対する足の立ち位置、手の位置、リズムの崩し方、身体の当て方という細かな動作の精度が相手を出し抜く技術となる。であるから本来的に単位時間あたりのアクションの密度があらゆるスポーツのなかで最高レベルに濃いと言えよう。それを切り取るには確かに漫画のコマ割りというのは向いている。

しかし本作はそれをコマ割りせずにまるで1試合をノーカットで見てるかの如く、連続で撮影して見せようというのである。つまり漫画でやったスラムダンクというあまりに有名な「コマ割り」のドラマを、実際の試合のように、まさにその会場でノーカットで見てるかのように再現しようというのだ。

下手なやり方をすればこれは当然無茶なことである。おそらく画面の整理がなされず、チャカチャカとカメラが切り替わりまくり、誰が今何をやってるかが分からない動画になっているだろう。最悪、今誰がボールを持っているかすら分からないような映画にもなり得たはずである。

だがそうはならなかった。本作があまりに素晴らしいのは、このカメラの撮影技術である。

原作を知っている人なら分かるだろうが、あれだけのアクションの情報量、密度がありながら、まったくもって全てが完璧に画面に捉えられている。今誰が何をしており、動作にどのような意図があり、なぜそれが起きたのかといったような事が、たった2秒の間のカメラワークに全て収められている。これを映画監督未経験の漫画家にやられてしまったのでは…天才という言葉では収まらないであろう。

まったく、20年前に漫画というジャンルで後世のスポーツ漫画に絶大な影響を与えたスラムダンクが、2022年になって再び「アニメ」というジャンルでこれからまた20年先に影響を与えることになるとは、誰が想像しただろうか。

そのような観点から、たとえドラマパート部分が「左手は添えるだけ」だったと評されようが、今年のベストに君臨させるしかないと私は判断したのであった。

 

以上、年末年始の暇つぶしにでも参考にしてもらえれば筆者の幸甚である。

過去の映画ランキングも以下に貼り付けておきますので良かったらどうぞ↓

https://yushak.hatenablog.com/entry/2020/12/31/134807

 

 

 

【大幅追記】人生史上最高のゲーム「アウターワイルズ」を語る~ Kの思索(付録と補遺)vol.132~

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アウターワイルズはおそらく、私の人生史上におけるベストゲームと言っても良い。


PS4においては2019年10月に発売され、私はそこからしばらくしてプレイした。


私の何が刺激されたかは後に書くとして、ともかくも衝撃的であった。


そこから時を経て2021年9月、最初で最後とされるDLCが配信された。最近このDLCをクリアし、いよいよ記事を書かねばなるまいと思って、いま筆を取るにいたる。


いきなりだが、私的な話をしたい。私は「宇宙」が好きである。


3歳の頃、親が学研の宇宙図鑑のようなものを私に買い与えた。なぜ与えたかは今となっては定かでは無い。微かに残る記憶では、私が誕生日プレゼントとして親にねだったはずである。


そうでなければ、宇宙に関する興味という点で縁もゆかりもない私の親が、なぜ私に宇宙図鑑を買ったかの説明がつかない(となると、私は3歳の頃には親とそのくらいの会話が出来、何故か宇宙に興味をもっていたことになる)。


そうすると「なぜ私が親に宇宙図鑑をねだったのか。そもそもそこの興味の源泉は何なのか」という話になるが、そこからの記憶は全くないのである。全くの謎に包まれており、ある意味では神秘的な感が無いでもない。


ともかくも、親から宇宙図鑑を貰った私は、まさに本に穴が開くほど読み耽った。子供の脅威的な集中力というものであろう。図鑑の内容を暗誦できるようになり、小学生の頃には「宇宙のことなら彼に聞け」と言われるようになった。


そのまま宇宙への興味は継続し、大学の研究室では宇宙物理を専攻した。さらに研究者になろうとして院にまで行った。しかし諸般の事情により修士号で民間企業へ就職した。


私の人生を大きく占めた宇宙という分野であるが、何にそこまで興味を抱いたのか。一言で言えば「起源への探究心」というものであろう。


もちろんこの本質は、3歳当時の私には自覚が無い。唯一ある自覚は、この地球からかけ離れた距離に、馬鹿げた大きさの星が、死確実の環境で在るということへの恐怖だけである。そしてその恐怖が好奇心に直結した。それだけであった。


その中でも、最も私が興味を持ったのが「ビックバン」であった。簡単に言えば、宇宙創世における最初期の大爆発である。


137億年前、宇宙は高密度かつ超高温の火の玉であったとするこの説は、1947年にジョージ・ガモフによって提唱され、後に「ビッグバン理論」と呼ばれた。60年代に入ってから、その根拠となる「宇宙背景放射」が観測されるようになって定説となった。


ともかくもこの話は、私を捉えて離さなかった。「宇宙ハカセ」であった小学生の私は、トモダチに宇宙のことを話す際、まずここから話さなくてはならなかったために、必然的なこととして、最も印象づけられることになったのである。


ビックバン時の温度というものは、太陽の温度とは比べ物にならない。太陽で最も熱いのはその中心核であり、1600万℃ と言われているが、それに対してビックバンは100兆から1000兆℃であったといわれる。この温度になると、もはや原子はその状態を保持できず、素粒子に分解されてしまう。宇宙的恐怖が好奇心に変換されていた私は、このような話をするとき、もっともイキイキとしていた。


だが私の脳は、どうも常に「なぜ」ということを突き詰めて考えてしまう性質を持っているらしい。ビックバンのことを語るにつれて、そのビックバンはそもそも「なぜ」起きたのか、ということが気になってきた。


そのことで私は「インフレーション理論」を知ることになった。日本の物理学者である佐藤勝彦アメリカの物理学者グースらが提唱した理論である。宇宙創生の10のマイナス36乗秒後から10のマイナス34乗秒後までの間に空間が急膨張し、その後、真空のエネルギーが熱となって火の玉となり、ビッグバンを引き起こしたとする説である。


ではこのインフレーションはまた「なぜ」起きたのか…これが現代物理学の最重要課題となっている。気になる方は「超弦理論」や「ループ量子重力理論」などのワードで、適宜、本を手に取っていただきたい。


さて、このような学問的な話をするのが本来の目的ではない。何が言いたいかというと、起源への探究心は、更なる起源への探求に向かうということである。


そしてまた、なぜ、私は起源を探究したくなるのか。それは、私が今ここにいる理由を知りたいからである。人生に何か観ずることの多い人間には、この気が溢れてしまう。私がここにいる理由がないとすれば、人生の意味は…そして、この世界そのものは、無意味としなければならない。


無論、無意味なのである。しかし、「それが無意味である意味(理由)」を知らなければ「納得」できないではないか。無意味であることを納得し、自らそれを意味づけるという止揚が行われることによってこそ、人生において決定的な「使命」という思想が浮かび上がって来るのである。そこまで到達してようやく、生まれながらにニヒリズムルサンチマンを抱えた人間でも、「生きる」ということに熱を帯びることが可能となるのである。


思想哲学的な話になりすぎた。

単純にいえば、起源の探求というのは、「歴史」を知ることに他ならない。私の場合は、歴史を知ることで、自らの生の意味を解き明かすのが目的であった。


だが、私は日本の歴史や世界の歴史に興味が向く前に、それを無視するように飛び越えて、一直線に宇宙の起源へ直進する子供であったようである。「細かい分析的な枝葉はどうでもよく、むしろ概略を聞いて、最も重要な本質を一直線に理解したい」という、いわば拙速な傾向のある私の性格そのものであると、笑うことが出来よう。


アウターワイルズのことである。

元々は、本作のクリエイティブディレクターであるAlex Beachum(以下、アレックスと呼ぶ)が、南カリフォルニア大学映画芸術学部在学中の2012年に始めた「修士論文を兼ねた学生プロジェクト」であった。高度に学問的かつ芸術的な出発点であったことになる。


アレックスは、私と同類の人物であったようである。つまり宇宙に興味を持った上で、その興味の源泉に「恐怖」をおいていた。そのことは「人為の及ばない宇宙いう環境に対する探検精神を、ゲームの形で表現したかった」と語っていることからもわかる。


上記のアレックスのいう宇宙的恐怖は、アウターワイルズをプレイすればすぐにわかる。全くもって未知の環境の惑星に、申し訳程度の宇宙服で突っ込み、探検をしなければならない。


中心にブラックホールがあって惑星そのものが崩れつつあるある「脆い空洞」、

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巨大な竜巻が大陸そのものを巻き上げている「巨人の大海」、

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一方の惑星にもう一方の惑星から砂時計のように灰が降り注いでいる「灰の双子星」、

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惑星全体を謎の棘が覆う「闇のイバラ」、

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最外周軌道を周回する不気味な彗星「侵入者」等である。

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そのような宇宙的恐怖の極め付けとして、本作では22分後に太陽が超新星爆発を引き起こす。


超新星爆発とは、ある一定の大きさの恒星が、その寿命を迎えた時に起こす大爆発のことである。スーパーノヴァとも呼ばれる。


太陽のような恒星は、主な構成要素である水素とヘリウムのガスを、その巨大な重力でもって中心核に向けて落とし込もうとするが、一方で核融合による超高熱でもって反対に膨張しようとするため、いわばその斥力と引力が釣り合った状態にある。


恒星が寿命を迎えるというのはすなわち、核融合における元素合成が終わりを迎えるということである。つまり核融合反応が起こらなくなる。


そのことで、熱による斥力が弱まって、重力優位になる。そうすると核融合によって作られた鉄は、一気に中心核へ落ち込むことになる。その鉄と中心核の衝突の爆発的なエネルギーが衝撃波を発生させ、その衝撃波の内部循環ともいうべき機構で圧倒的な再加熱を呼び、最終的には超新星爆発を引き起こすのである。


驚くべきは、上記のような機構が、アウターワイルズにおいて再現されているということである。ただ太陽が爆発するのではなく、その色が黄色から徐々に赤黒く変わりつつ膨らみ(この色の変化は温度が下がっている証拠である。この段階を赤色巨星と呼ぶ)、そこから一度収縮して、爆発するのである。


このことで、私のこのゲームにおける信頼は揺るがないものとなった。よほど信念をもって宇宙的恐怖を再現しようとしない限りは、こういった学問的知見を踏まえた演出は出来ないだろう。


この超新星爆発は、基本的にその星系ごと滅ぼすほどの威力を持つ。一般的には、原爆のエネルギーの10の30「乗」倍とも言われる。つまり22分後にこのゲームの主人公は必ず死ぬ。


しかし、主人公は22分前に目覚めることになる。そしてまた22分後に死ぬ。この死のループを繰り返すことになる。その理由が何か(どうも我々の前に存在していた古代知的生命体が何かをしたらしい…)ということを解き明かすのが、このゲームの主目的である。


つまり、我々の前に存在していた古代知識生命体が何をしたのかという歴史を解き明かすことで、主人公がなぜこのループ環境に置かれたのか、もとい、なぜイマココに私が生きているのか、ということを知ることになるのである。

 

これは上述してきた私という人間の嗜好と、寸分のズレなく一致することが分かっていただけるだろう。つまり、宇宙的恐怖と、歴史と、起源と、私の存在する意味である。


このゲームが素晴らしいのは、そういった歴史の探究が、古代知識生命体に留まらず、宇宙そのものの誕生起源まで向かうことである。


その過程で、どうしても量子力学に触れなければならない。このゲームは、その量子力学すら取り入れている。圧倒されるほかない。


量子とは何かといえば、波と粒子の性質を併せ持つ、非常にミクロな物質を指す。古典力学と呼ばれる体系を確立したアイザックニュートンの時代にあっては、物質は粒子か、波かのどちらかであった。しかし現代においては、光などは波と粒子の両方の性質を取ることがわかっており、そのような性質をもつ物質を、どう表現するかとなって、「量子」と命名したのである。(英語表記では「quantum」であり、物理量の最小単位を表す)


ではそのような量子のふるまいというのは、どのようなものか。これを記述する有名な方程式がエルヴィン・シュレディンガーにおけるシュレディンガー方程式である。

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初学者においては、シュレディンガー量子力学の創始と捉えても差し支えない(一般層においては、「シュレディンガーの猫」の方が耳馴染みがあるだろう)。


シュレディンガー方程式は、端的に言えば、「ミクロな量子的性質を持つ物質の力学は、存在確率の波動関数として記述される」と宣言する。


要するに、ミクロな世界では、物質の存在する「位置」は、確率でしか決まらないというのである。しかしこれは我々の直観と反する。


なぜと言って、「そこにあるものは、常に、そこにある」ではないか。ある時には別の場所にあって、またある時には別の場所にあるような物質は、あり得ないだろう。それが生きていない限りは。


しかし量子力学は、ミクロな世界ではそうではない!と高々に宣言するのである。

 

例えば電子は、ある時にはある場所にいて、ある時には別の場所にいる。そもそも特定の場所にいるということはなく、そしてどこにいるかというのは波動関数で記述される確率の期待値でしか、「表しようがない」と言うのである。


よって高校化学で記述されるような、原子核を周回するような電子といった図は間違いであり、本来は、原子核を雲のように確率の分布で覆う電子像こそが正しいのである(実際は、電子の軌道が離散的な値を取ることから、雲×バームクーヘンという感じが近いのであるが、この辺りから数式の表現を実体として観ずることに無理が生じてくる)。


では何がその位置を、確率から解き放って「確定」させる要因かと言えば、それは我々の「観測」であると言う。


「二重スリット実験」というものを検索していただきたい。この実験は、量子電磁気学を創始したファインマンをして「量子力学の真髄」と言わしめたものである。

我々の「観測」こそが、この世界で我々が得られる情報に影響を与えてしまう、という実験なのである。


我々が何かを観測することが、この世界を、我々に対して意味付ける(確定させる)と詩的に言い換えるならば、この世界は一体何なのか。何者によって形作られているのかという、神秘に吸い込まれてしまうだろう。


そのような直観と反する量子の振る舞いを、このアウターワイルズは直観的に理解させる。これだけでも素晴らしいのに、その上、その量子的振る舞いを利用した謎解きまで用意するのである。


プレイヤーはこのような世界観の中、未知と死が待ち受ける惑星を縦横無尽に駆け巡り、古代人が何をしたのかということを解き明かしていくことになる。時系列などは明示されないので、それを整理することも楽しみの一つである。


この記事を読んで少しでも興味を持った読者は、是非アウターワイルズをプレイしていただきたい。謎解きは難易度が高いが、解けた時のカタルシスは表現し難いほどのものである。


なぜ我々がここにいるのか、この宇宙の起源は何なのか、そういった好奇心と哲学に、このゲームは体験を持って答えてくれる。上記の理由によって、本作は私の人生史上におけるベストゲームと言えるのであった。

 

【大幅追記】

我ながら、アウターワイルズに関する内容よりも、宇宙に関する内容にかなりの文量を割いているなぁと、読み返しつつ思った。


にも関わらず、本記事は好評であった。読者の希望にいっそう答えるために、大幅追記したいと思う。


アウターワイルズでは、22分前に時間が巻き戻る。そのことについての宇宙物理的視点を書こうとしている。


そのためには、相対性理論のことを知らなければならない。


相対性理論は、ご存知の通りアルベルトアインシュタインが創始した。

元々、彼の専門は電磁気学であった。例えば、1921年に「光量子仮説と光電効果」の論文でノーベル賞を貰っている。要するに、光の専門家でもあった。


多少物理に詳しい人ならば、光の速度が約30万km/sで不変であることはご存知だろう。

ここでいう不変というのは、例えば止まっている状態から光を発しても、猛スピードで爆走するロケットから光を発しても、光の速度は一定ということである。これを「光速度不変の原理」という。


これは普通の物質では起こり得ない。

例えば100km/sで走る車から、100 km/sで野球ボールを射出すれば、止まっている人間から見れば、その野球ボールは200km/sの速度を伴っている。

それなのに光の場合はいつも、30万km/sで不変であると言うのだ。


この光速度不変の原理は、「マイケルソン・モーリーの実験」で確かめられた。光が速すぎて、正確に速度の変化を測定できないというわけでは、決してない。

 

本当に不変なのである。

 

なおこれは「原理」であるために、それが何故かという起源は、問われない。物理学は、いつもこの原理からまず出発するのである。

ともかくも、光の速度は不変である。アインシュタインは、これが何を意味するかを考えた。


我々に観測される光の速度が不変である。これは普通の物質においては常識に反する考え方である。しかしこれを事実だと認めなければならない。マイケルソン・モーリーの実験は間違っていない。


そうすると、逆に我々の現実と辻褄を合わせるためには、我々における「何か」が、一方では変化していなければならない。そうでなければ、バランスが取れないであろう。ではその「何か」とはなんなのか。


速度とは、単位が示すようにkm/sで表される。つまり距離と時間の関係である。すでに有名になってしまっているとおり、相対性理論では、この距離と時間が適宜に伸び縮みするというのである。


理論的な細々した話は省くとして、結論からもっとも重要なことだけ述べる。

たとえば、新幹線に乗っている人の時間は、止まっている人の時間に比べて、遅れている。

ロケットに乗っている人の時間は、新幹線に乗っている人に比べて、遅れている。

つまり、その人のいる「系」が、高速で移動するほどに、その人の時間は遅れることになる。


これが、アインシュタインの「前期」相対性理論の主旨であり、「特殊相対論」と言われる。


理研究はいつも、単純な状態から複雑な状態へ、すなわちよりリアルな状態へ、歩みを進める。

「特殊相対論」は単純であった。これをよりリアルに近づけるため、真っ先に考えなければならないのは、重力の影響であった。

(というよりも、これまで等速度運動を考えたので、次に加速度運動を考えよう、というのが本来的な歴史なのであるが、ここでは細に入りすぎることを避ける)


アインシュタインは苦戦した。苦戦して、「後期」相対性理論である「一般相対論」を構築した。驚くべきことに、10年の月日が費やされていた。


大学生当時の私の実感を余談として語りたい。ヘタをすると特殊相対論は、光速度不変の原理さえ前提として飲み込めてしまえば、高校生の数学でも理解できてしまう難易度であると感じた。


しかし一般相対論はそれに比べて、まさに化け物と言っていい。よく「10年足らず」でこれを完成させられたなと思ったものである。

途中、明らかに神が捧げたとしか言いようのない奇跡のような閃きのステップもあって、驚嘆というほかなかった。


ともかくも一般相対論は完成した。このことで、重力の正体がより根本的に明らかになった。重力とは、「空間」と「時間」の曲がりのことであった。重力の大きい星ほど、その周りの時間と空間が、「曲がる」のである。曲がるというのは、特殊相対論における距離と時間の伸び縮み、まさにその拡張といったイメージを持って貰えば良い。


物理における体系的な論の中で、最も重要なのものは何か。

それは「基礎方程式」である。

ニュートン力学であれば、運動方程式

電磁気学であれば、マクスウェル方程式

量子力学であれば、上で紹介したシュレディンガー方程式

 

そして一般相対論においては「アインシュタイン方程式」である。

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アインシュタイン方程式は、見た目はこのように非常にスッキリしている。しかしその中身は、数学的に「10元連立2階非線形偏微分方程式」と分類されるものであり、とにかく化け物だと認識してもらって差し支えない。

こんな感じだ。(うわっ!と思って貰いたいだけであって、当然この詳しい説明はしない。)

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要するに、容易に解けるものでない。しかし人間は食らいつくものである。これをまず最も単純な状況下において解いてみようと思ったのが、カール・シュバルツシルトである。

 

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そしてこのシュバルツシルトが導いたアインシュタイン方程式の特殊(ここではもっとも単純な状況下における)解が、ブラックホールを予言することになったのである。

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特異点というワードがそれだと思って貰えば良い。


ご存知の通り、ブラックホールは無限大の重力を持つために、その周りの時空間は極限的に曲がっている。この極限的曲がりにあって、光は落ち込んでいくばかりであり、出られなくなる。ゆえに、ただ真っ黒な、穴なのである。


だが、周りの空間を歪めているために、光の通り道まで曲げられ、そのためブラックホールの周りは、まるでレンズ越しに景色を見ているように、歪むことになる。これを相対論の分野において「重力レンズ効果」と呼ぶ。


さぁ、ようやくここまできた。


なんとアウターワイルズは、この重力レンズ効果まで再現しているである!

 

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まさに宇宙的恐怖を再現しようとするクリエイターの信念が感じられるであろう。しかもプレイすれば分かる通り、主人公が移動することで、景色の歪みの見え方も変わることから、実際の重力レンズ効果のプログラムを取り入れているのではないか。


ここでブラックホールに極限まで近づいたらどうなるのかを考えてみよう。

一般相対論においては重力の強い物体に近づくほど、時間が曲がるのであった。この時間が曲がるというのは要するに、「時間が遅れる」と変換していただいて構わない。


だからもし、ある人がブラックホールに近づき続けるとすれば、彼の時間はどんどん遅れていき、ついには、時間の進みが停止するに至るだろう。


相対論の説明では時空図というものをよく用いる。当然ながら未来から過去には行けない。過去から現在、そして未来という流れを崩すことが出来ない。

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しかしこれはアウターワイルズという、ゲームである。ブラックホールからホワイトホールにつながっているという妄想も許されて良い。


ブラックホールに近づくにつれ、本来は未来に向けて進んでいる時間が停止に向かうというのなら…この時空図において、未来の時間的広がりが失われていくとするなら。


そしてついに時間が停止し、なおもまだその先、すなわちホワイトホールがあっても良いという妄想が許されるとするなら…それを超えた瞬間、マイナスの時間、すなわち未来から過去への時間、ひいては因果の逆転が生じるのではないか。


ノマイは灰の双子性プロジェクトで、この現象を利用したのである。ただし、発見当初は、そのマイナス時間が短すぎた。どうにかその時間を伸ばすことができまいか。


いよいよ最終盤である。

前言を撤回するようで申し訳ないのだが、「重力が時空間を曲げる」という理解は、アインシュタイン方程式の説明として、厳密には正しくない。


厳密にはエネルギーが(さらに厳密に厳密を重ねて言えばエネルギー運動量テンソルが)、時空間を曲げるのである。

 

質量が重力を呼び、重力は時空間の曲がりであるということはこれまで述べてきた。

一方で、質量とエネルギーが等価であるという、これまたアインシュタインの有名な以下の式がある。

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よって、エネルギーもまた、時空間を曲げることになるのである。


つまりアインシュタイン方程式は、エネルギーさえあれば、時空間を曲げることが可能だというのである。つまりこうだ!

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ノマイは、灰の双子星プロジェクトを完遂させるためにはマイナス時間を伸ばす必要があった。


つまりマイナス時間を遅らせる(早まらせる?)ためには、それに応じた莫大なエネルギーを注ぐことで、アインシュタイン方程式の、時空曲がりを発生させれば良い。


この莫大なエネルギーが、超新星爆発だったのであり、その媒介がワープコアだったのである。

これにより、灰の双子星プロジェクトが完成するはずだったのだ-ーこれをもって、追記の筆を置くことにしたい。

全くもって、ハードSF的というほかない。


多くのコメントであった「ほとんど宇宙物理の学問的なことを語っているのに、アウターワイルズをやっていたおかげで、スラスラ読める」という感想は、このような記事を書いている私にとっての最高の賛辞である。


この追記を通して、相対性理論へのワクワクを感じていただけたなら、筆者何よりの喜びである。

Apex 野良アリーナランクでダイヤに到達する方法~ Kの思索(付録と補遺)vol.131~

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※史上最高に報酬バッチがカッコいいので、なんとしても上位バッチを勝ち取りたい私

 

Apexのアリーナランクをひたすら野良でプレイし、昨日、ダイヤランクへ到達した。パーティを組まずにやっている人間の中では、わりかし早い方だと思う。

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アリーナランクにおいては、配信者もまだあまり体系的に解説している動画を出していないようである。


今回の記事で、私の考えるアリーナランクを上げる上での重要点を解説していくので、ぜひ参考にしていただきたい。


なお内容としては、「野良かつアリーナかつダイヤまで」というかなり上位の教示内容なので、基礎があることが前提となっている。


基礎については既に以下の記事を書いているので、初心者の方はまずこちらを一読願いたい。

 

APEX LEGENDS ダイヤランク到達法の解説〜Kの思索(付録と補遺)vol.106〜 - Kの思索(付録と補遺)


●ランクのポイントについて


公式によるとどうやら、MMRと呼ばれる内部レートと、実際いま自分がいるランクとのバランスによって、勝った時に時に得られるポイントと、また負けた時に失うポイントが決まるというようなことが書かれている。


まぁぶっちゃけ良くわからない。運営も意図的にぼかしている感じがある。


実感として私が得た答えは「連勝することが非常に重要な指標である」というシンプルなものだ。


連勝すればするほど、得られるポイントが加速度的に積み上がっていくのである。


だがここが野良でやる上で辛いところである。パーティならまだしも、野良の場合はスキルベースマッチングが働いている以上、あるところで勝率が収束するのだ。


私の場合はプラチナの2あたりであった。だいたい55%くらいの勝率に落ち着くのである。そうなると貰えるポイントは15程度になってしまう。負けた時に失うポイントは12くらいであるから、非常にジリジリとしか上がっていかないことになる。しかも通常のバトロワモードのように、接敵回数を減らすハイド立ち回りでポイントを稼ぐことも不可能なのだ。


とはいえK/Dは1.6あたりだったし、ほぼ全ての試合で野良の2倍〜20倍のダメージを出していた。


これはどういう状況かというと、実感としては、「野良に頼らず、自分が全員を倒すつもりでやらないとスタートラインにすら立てない」というイメージである。


このポイントシステムのせいで、最も重要なことが「たくさんこなす」という結論になってしまうのである。


勝率が55%に収束して、貰えるポイントも差し引き3ポイントならば、どれだけ上がり方がシビアで、どれだけの回数をこなさなければならないかが分かるだろう。


だが、それが野良でアリーナランクを上げる上での唯一の正義なのだ。必要なのは実力ではない。実力はマッチングで調整されてしまうのだから、回数をこなす精神力の方が重要になってくるのである。

 

(なお私はニートではない。普通にフルタイムで働く社会人である。時間有り余る人間なら、尚更言い訳できないだろう)

 

●エイム

鍛えろ。それだけだ。

優しい配信者は「エイムが全てではない」というが、つまりエイムがほぼ全てということであろう。

そんなことはチーターを見れば明らかなのだ。

残念ながら野良アリーナランクでは、バトロワモードよりも更にエイムがモノを言う。立ち回りはほんの少しの当たり前をやるだけに過ぎない。

射撃訓練場に篭るな。アリーナをやりまくって実践で鍛えろ。


●円が寄った方に向かえ!

 

円は、ラウンド開始前に円が寄った方向に収束していく。あえて円の寄った逆側に向かっていく人もいるが、私の経験上、明らかに不利という答えが出ている。

 

「円に先に入っている」ということのアドバンテージは想像以上に大きい。


●下を取るな!上に居続けろ!

 

下は絶対的に不利である。下の方が有利ということは、アリーナランクにおいては特に、あり得ない。

 

射線を展開したくても、それは上にいながら行われるべきであり、絶対に下に降りてはいけない。

 

たとえ大ダメージを与えて詰めるときでも、100%勝ちが確信できる状況でなければ、下に降りてはいけない。


●アリーナで「詰める」莫大なリスク

 

アリーナでは「詰め」が死ぬほど難しい。この難しさはバトロワモードの比ではない。

 

なぜかというと、アリーナは射線パターンが非常に少なく決まってるからである。

 

このことで、詰めたときに置きエイムから遮蔽の無いところで射線を通され続け、ワンマガで落とされてしまうことがザラにあるのだ。

 

よって大ダメージを与えたとか、割った程度で詰めてはいけない。

 

なんなら一人落とした程度で詰めるのも、野良の場合は非常に慎重にならなければいけない。

 

攻撃サインを出して詰めても、二人の野良が後ろで待機してモジモジしており、結局自分が一人で突撃した形になって、ダウンさせられてしまうのである。

 

詰める時は、自分が全員を倒すつもりで詰めなければいけない。味方が遅れていたら、少し待機してでも味方が前線まで来るのを待つべきである。

 

コツとしては、大幅に削った相手にトドメを刺すイメージではなく、別から顔を出してくるピンピンした敵と、フェアにぶつかるイメージで詰めることだ。

 

大幅に削った敵はどうせ撃ってこないから、置きエイムにてワンマガでこちらを落とそうとしてくる敵と真っ向からぶつかり、そこで更にダメージレースで勝たなければいけないのだ。

 


●試合を長引かせるな

 

野良でやる場合、試合が長引くほどに勝てる可能性が減っていく。

 

アイテムも充実していくし、当て感や連携度による期待値にも、どんとん差が開いてしまうからである。

 

しかし前述したように、安易に詰めてもいけないのである。

 

こればかりは、アリーナ野良ランクで究極に難しいところであり、回数をこなしまくって判断の経験を養うしかない。


●グレネードを買え

 

テルミットでもなく、アークスターでもなく、グレネードを買え。一番安いし、一番起点になる可能性が高い。直グレを当てまくれ。それだけだ。


●安易に回復を取りに行くな

 

もちろん回復を取るに越したことはないが、最初に真っ直ぐ向かうのは結構なリスクである。

 

敵の置きエイムにより受けた大ダメージで、結局プラマイゼロになることも多い。猛者ならそのまま落とされるまである。

 

ある程度のダメージ起点を作ってから取りに向かった方が良い。

 


●敵の状態を把握してから撃て

 

遮蔽物の横からゆっくり置きエイムで顔を出すのではなく、ジャンプでまず敵の状態を把握して、自分が先打ち出来るタイミングを測り、そこから撃つのである。

 

アリーナでは射線が決まってるので、当然ながら置きエイム合戦になる。

 

そういう状況においては、いかに自分が先撃ちできるように立ち回るかを考えなければいけないのだ。


●自分は絶対に死んではいけない

 

野良ランクでは、自分がノックダウンされたらおしまいである。上述したように、ほぼ自分しかマトモなダメージを出せないのだから当然だ。

 

例えば初心者〜中級者にありがちなことだが、エイムゴリラになるほど、先撃ちされてるにも関わらず撃ち返そうとしてしまう。

 

これは自分が倒されるという莫大なリスクのことを考えていない安易な行為である。その自覚をせよ。


●展開しすぎるな、しかし同じところに固まるな。

 

経験からくる感覚としては、45度の展開はかなり恐い。ほぼ横一線の展開が一番安心できる。

 

クロスを組みたいのは分かるが、アリーナは一人になった人間を徹底して潰しにくるのだ。

 

展開が広がるほどに一人になるリスクが増していることを自覚せよ。

 

このことを踏まえると、ラウンド開始時に一人だけ逆方向にむかうなど、もってのほかなのだ。

 

一方で、同じところに固まりすぎると当然クロスを組まれるし集中的に置きエイムされて終了である。

 

一つの遮蔽物に対して2人以上固まらないことを常に意識せよ。

 

●野良が突っ込むのは運ゲー

 

こればかりはしょうがない。前述したとおり、アリーナでは基本、突っ込んだほうが不利に出来ている。

 

だから野良と同じように突っ込めば、敵の置きエイムで自分も死んでしまう。

 

かといって後ろで見ていても野良は死ぬ、ほぼ間違いなく死ぬ。つまり野良が突っ込むのは運ゲーなのだと割り切るしかない。

 

精一杯のカバーするものの、心は次の試合に移っていることが多い。


●ひたすら回数をこなせ!

 

すでに最初で似たようなことを書いたが、これが最も重要である。

 

MMRレートを上げるには自分が根本的に上手くならないといけないから、猛者がプレマスに上がり切るなどしてランクが落ち着く前に、猛者と戦いまくったほうが良い。

 

プレマスダブハン爪痕と野良で戦いまくって、勝つことを普通にするのだ。「野良でゴールドを抱えた俺に勝てない程度なら、プレマスダブハン爪痕フルパも大したことない」と思うようになるまで戦え。

 

どうせランクが上がれば、いずれ猛者とぶつかるのである。ならば早い方がいい。

 

強がっているが、当然負けまくるので辛いし、全然ダメージを出さない野良にイライラもするだろうし、なぜこちらはゴールドを抱えて敵はプレマスフルパなのかと理不尽さに歯を噛み砕きそうになるかもしれないが、日が経つにつれて敵が弱くなっていく実感を持つだろう。

 

私は結局ダイヤに上がる前日、15連勝している。

 

ただこの「ランク開始最初期に猛者とぶつかりまくる」という特訓も兼ねた方法は、友人を含めたパーティではオススメしない。特に自分より低ランクの友人を入れる時は注意である。

 

当たり前だが負けまくるのでなんとなく険悪な感じになるし、そうなるとゲームなのに楽しくないから、一人でやる時よりも精神的に疲労する。例えば「ダウンすることこそが最大の戦犯」という思想のもと、それを指摘すると「いやあそこは詰めるべきだった」「ダメージが足りない」みたいな不毛な言い合いになり、お互いにくたびれていく。

 

結果として、最も重要な、回数をこなすというのが難しくなってしまうのである。

 

友人とフルパでやるのはある程度落ち着いてから、もしくは、競技シーンのようにガチガチにやろうとしない前提においてのみを、最近の私はオススメしている。


以上であるが、どうだったろうか。

 

自分としては、配信者もなかなか言語化しない、かなり奥の内容を記載したつもりである。参考になれば筆者至上の喜びである。


残りあと2ヶ月強。私はこれから引き続き、野良アリーナマスターを目指していく。

昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹著)を読んで~ Kの思索(付録と補遺)vol.130~

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あらすじ

【日米開戦前夜。平均年齢三十三歳、全国各地から集められた若手エリート集団が出した結論は「日本必敗」。それでも日本が開戦へと突き進んだのはなぜか。客観的な分析を無視して無謀な戦争に突入したプロセスを描き、日本的組織の構造的欠陥を暴く。】

 

昭和16年夏の敗戦、面白かった。第一級のノンフィクションは知的好奇心を満たすとともに、「物語」としても嘘がないのだから、これほど真に迫るものもない。


結局、トップオブトップの会議はセレモニーである。会社で言えば、社長承認印が押される頃には、承認されることがほぼほぼ決まっているのと同じだ。

 

そしてその意思決定は何によって決まるかと言えば、予算上、各権力分野に「安定な生活」が担保される方向、すなわち権力大衆の総意である。


だがそれは長期的に見て非合理的だったり、ムダが多すぎたり、国家に決定的打撃を引き起こす決定かもしれない。


もちろん最初は各々の部署のポジショントークから始まる。

しかしお互いに、抱える自部署の正論同士がぶつかるのだから、答えが出るわけもない。

では全体最適を判断するためにはどうするかと言うことで、彼らはデータ(数字)に頼ることになる。


しかしその「数字」も、結局は「なんとか戦争できそうか」ということを、会議の場で全員が腹落ちするための道具として使われた。


いわば客観的判断のためではなく、主観的判断に正当性を肉付けするために、使われた。


その根拠となる数字を提示した鈴木貞一企画院総裁は当時のことをこう語る。

 

「客観的だよ。戦にならないように、と考えてデータを出したつもりだ」

 

「企画院はただデータを出して、物的資源はこのような状態になっている、あとは陸海軍の判断に任す、というわけで、やったほうがいいとか、やらんほうがいいとかはいえない。みんなが判断できるようにデータを出しただけなんだ」

 

「戦争を何年やるか、という問題なんだ。仕掛けたあとは緒戦に勝利して、すぐに講和にもっていく。その戦はせいぜい一年か二年。そうすれば石油は多少残る、と踏んでいたんだ」

 

「海軍は一年たてば石油がなくなるので戦はできなくなるが、いまのうちなら勝てる、とほのめかすんだな。だったらいまやるのも仕方ない、とみんなが思い始めていた。そういうムードで企画院に資料を出せ、というわけなんだな」

 

「やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにつじつまを合わせるようになっていたんだ。」…


ではなぜやるの方向に傾いていたかといえば、当時の国家予算のおよそ半分が軍事費であり、その軍事費の半分が海軍に分配されており、戦争しないとすれば大量の失業者が溢れるからだった。


そういう軍の論理を、「国是」として押し通せてしまうのが「統帥権干犯問題」であり、明治憲法の欠陥であった。


ちなみに猪瀬氏はこの昭和16年夏の敗戦の問題を、今の政府のコロナ対策政治に当てはめ、会議の意思決定方針に関しては見事に当時の再現だと思えてならないと言っている。


さて昨今話題の東京オリンピックの招致メンバーの中には、著者である猪瀬元東京都知事がいた。

もともと、東京オリンピック2020の開催には7割の国民が反対していた。

しかし政治活動(高齢化社会における健康増進とオリンピックの繋がりが重大であることの意味づけ、および経済対策としての有用性を訴えたこと)により、招致時には8割が賛成となっていた。


しかし今、オリンピック支持率はまた3割近くまで下がっている。猪瀬都知事はこれを単に「コロナの影響」と見るなら見識が浅いと言っている。


「むしろただ招致前の割合に戻っているだけと見たほうが自然だ。

招致時には賛成8割まで引き上げた「何故やるか」という重要な意味付けを、もはや誰も深く考えていないし、それを訴えてもいないからだ」ーー

 

 

 

 

インフルエンサー特有の呟きが気持ち悪くなってきてフォロー外しまくったら僕の世界への影響が消えた~ Kの思索(付録と補遺)vol.129~

最近、インフルエンサーと呼ばれる人たち特有のつぶやきの型ーーこれは本人たちにとっては無自覚なーーが見えて来た。

それがどんなものかはまだ十分言語化はできないものの、一つ言えるのは、インフルエンサーは自分が特別で、そうでない人は自分より劣っているし、人生が幸せでないと決めつけている。

そういう見下しがすごく気持ち悪くなって、どんどんインフルエンサーのフォローを外していったら、その人の名前を僕の世界で見かけなくなった。

つまりフォロワーが何十万いようが、フォローを外せば、存在ごと消える。その程度のものだったということだ。

彼らがどう生きようがどう主張しようが、僕の世界にはなんの影響もない。

 

 

 

空間的にも時間的にも、常に必要十分でありたい。必要以上であっても十分以上であっても警笛が鳴る状態が理想だと思っている。

細い糸が常にピンと張られた状態だ。過剰に持っていたく無いし、持たなすぎるのもダメだ。

そういう性格である以上、やたらと色々なところにムダを見つけてしまう。

ところが「ムダだ、変えねば、楽にせねば」と思っても、実際それをやる側は、やる前より仕事が苛烈になる。

終わったら、その楽さを享受するのはやらない側であって、やる側はまた次のムダを見つけてそっちに移ってる。

「あれ、本人の仕事はいつ楽になったんだ?」

と思うけど、楽にはならないのが真理だと思う。

ムダな仕事を削ぎ落として価値のある仕事の部分だけを残すのは、他人の部屋を掃除して金を貰うのに似ている。

よく、掃除はどういう価値がありますかとか、断捨離するのになんの効果がありますかとか聞かれるけど、こう聞くってことは、なるほど、根深い問題だ、と思うのだ。

その辺に置いてある方が便利だと思っているか、いつか使うかもしれないから持っておく、という考えなのかもしれない。

絶対にどこかで物が見つからなくて困ったことがあるはずなのに、しかも何度もあるはずなのに、物を無くすのは自分の特性だから、と思っている。

日頃あらゆるところで身の回りの整理をそういうやり方でしているってことなのだから、そりゃなくすわ、ということである。

ムダなものを削ぎ落とす行為は、何がムダと思うかによって、得意不得意がでる。

捨てられない体質の人は、どこまで行っても突き抜けられない。

「大学時代のノートとか教科書は社会人2年目でほぼ捨てましたね」って言ったら上司が少し引いてた。

必要なものを必要なときに必要な分だけ持つと簡単にいうが、「この必要なもの」が当人の中にどれだけ少ないかによって、才能と言えるかもしれない。

もちろん、コレクター的性質は多かれ少なかれ誰もが備えている。

持っている、そのことへの価値は皆にある。

その物が棚にあり、その物を眺めることで、幸せになる、これは僕にもある。

この幸せを僕はまったく否定していない、ということだけは知っておいてほしい。

しかしそれとゴミが転がってるのは違う。

別にそれを見て幸せじゃないなら、はやく捨てろと言ってるだけである。

 

 

 

養老孟司先生の話が面白く、最近は動画を見ながらメモとして要約するのが趣味化している。以下は、すべてその時のものだ。

 

【感覚と論理】

ガリレオピサの斜塔からボールを落としたのは、感覚に訴えるためである。頭で考えると、重い方が先に落ちると思ってしまう。

そこで当時の教会(頭のいい奴らが頭のみで散々議論している)がガリレオを弾劾裁判にかけ、しかも教会の丸天井を騙し絵にし、「逆に感覚は当てになりませんよ」ということを訴えた。

感覚vs論理の、丁々発止のやりとりである。

さて都市社会、すなわち文明が発展してくると、必ず同時に芸術が発達することは歴史を見てもわかる。

文明の発展とは概念化、論理化の進行と同義であり、それによって、あらゆることが一括りに「同じ」とされてしまう。

本当は自然は何一つ同じではないのに、それが同じとされてしまうことに、我々人間の本能は抗おうとする。

この概念化・論理化への抵抗が芸術を生むのであり、「何一つ同じでない」ということを全身全霊の感覚を持って訴える行為の先が、芸術にぶつけられる。

 

【頭が良すぎるというのは、一種の病気】

統計による正規分布を血圧で取れば、150とかは高血圧になる。

一方で東大医3に入るものは、センター試験だと970点以上を取っていると言われるが、彼らを血圧で表せば300とかになるだろう。

血圧、すなわち身体の場合は病と言われるのに、頭の場合は、祝福されるのである。

高学歴すぎることを「頭に偏る病」と表現しても、上記の理由から言えば間違いではない。

そのような人間だけが集まった社会というのは、正規分布の中央値から大きく外れた、頭だけの社会になるだろう。

 

【脳の無意識的な活動を意識すること】
脳は意識的活動と無意識的活動がある。

無意識的活動が「たしかに有る」と思わなければいけない。

睡眠はその最たるもので有る。

意識的活動でどれだけ考えても解けない謎、そういう棘を、脳に刺しっぱなしにしておく。

そうすると、ある無意識的活動でその謎が急に解けるときが来るのである。

このような例は、ベンゼン環のヒントを夢にみたアウグスト・ケクレのようや天才だけに限らない。

トイレやお風呂に入っているとき急に閃いたり、熟睡して起きた時にはスッと謎が解けていたりする経験は我々にもあるだろう。

古事にも「三上」という言葉が残されているほどである。

意識は無秩序であることは出来ない。無意識である時にのみ無秩序であることが出来る。

秩序を生み出したら、必ず同じ数だけ無秩序の皺寄せが来る。

我々が寝なければならないのは、それゆえである。

もし意識がある状態だけ続けるならば、人間の脳は壊れてしまう。

覚醒剤の常用で脳が壊れるのはそういうことである。

 

【自然には本来、何一つ同じものなど無い】

概念で捉えているうちは全てのリンゴは同じリンゴになる。

しかし感覚で捉えるならば、全てのリンゴは別のリンゴになる。

言葉の使用と、ものの区別は切り離すことが出来ない。

自然を、言葉という概念で切り分けることが、何故か人間には出来てしまったのである。

しかし自然界には本来、何一つ同じものなどない。少なくとも動物はそう考えている。

猫にとっては、今日採れたサンマと、それから3日経ったサンマは別物なのである。なぜなら臭いが違うからである。感覚で判断するとそうなる。

概念で判断せず、感覚だけで判断するなら、自然界に何一つ同じものはない。少なくとも自然に生きる動物はそうなっている。

何一つ同じものがないとすれば、言葉は生まれようがない。だから動物は言葉を話せないのである。

しかし人間は何故か概念を生み出せる能力があった。これをカントは「知性」と名付けたのだった。

しかしそう名付けたところで、何故、そのような知性を持ちえたかの説明にはなっていないのである。

 

【言葉を話すことの本質】
正しい言葉というものは、あるようで、ないのである。

例えば字は、あらゆる人で形が違う。発音も、人によって異なるだろうし、声帯も違う。

それなのに、何故、言葉が伝わるのだろうか。

「それがそうだと分かるから」としか言いようがないのである。

我々は生まれてから今までそれを経験でもって訓練してきたから、分かるのである。

つまり、正しい言葉なんてものはないのだから、「分かるように伝われば良い」ということのほうがむしろ言葉の本質なのだ。

逆にいえば、100%正しい発音みたいなものがあると信じきり、ヒリヒリとビビりながら意識しているうちは、いつまでも外国語を話せるようにはならない。

例えるなら、我々は64角形を見た時に、それを「円」と認識するだろう。

しかしそれは厳密には64角形なのである。128角形でも同じだ。つまり、完全な円などは、概念にしか無いのである。

反対に、16角形くらいになれば、それは円ではないと言い出す人が増えてくるだろう。

言葉の使用もこれと同じなのだ。

訛りが強すぎれば、それをそれだと認識される精度が落ちるだけのことである。