Kの思索(付録と補遺)

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デカルト「方法序説」紹介 「我思う、故に我あり」の真意とは〜Kの思索(付録と補遺)vol.8〜

今回紹介する本はこちら

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 デカルトといえば「我思う、故に我あり」という言葉を残したことで有名な哲学者である。また理系の方には「デカルト座標」の発明者としてのほうが馴染み深いかもしれない。

 

 この「方法序説」は、デカルト「我思う、故に我あり」と述べるに至った思索が積み重ねられているという点で、歴史的に見ても非常に重要な古典である。この言葉がなぜそれほど重要かといえば、それが哲学史の中でも非常に説得力をもつ「真理」の発見として評価されたからだ。

 

 哲学は「真理」を追及する一面をもつので、誰かが真理を言うと、それを論破し、また新たな真理を突きつける天才が出てくる。真理の探究はそうした創造と破壊を繰り返し、古代ギリシャからずっと、より確からしいものに磨き上げられてきた。それにいったんの終止符を打ったとも呼べる真理の発見、それがこのデカルトによる「我思う、故に我あり」なのである。

 

 一見すると何のことはない言葉のように思える「我思う、故に我あり」。多くの人は「私がいま考えたり悩んだりしていることは実感として確かなんだから、同時に私がいるってのも確かだよねー」という風に受け取っているのではないだろうか。だが、デカルトが言っているのはそんな浅はかなことではない。

 

 そもそも「私が考えている」=「私がいる」という風に安易にイコールを結ぶのは変な話だ。これは真理を探究しているのだから、このあたりの論理は慎重に検討しなければならない。「私が考えている」ことはただの思考、言い換えれば精神や魂と呼べるものであり、「私がいる」というのは実体の話だ。精神や魂という実体のないものと、実体とを、安易にもイコールで結んでよいことになろうか。いやなるまい。

 

 皆さんがちょっとウザイと思い始めているのは分かる・・・だがルネ・デカルトはそういう人物だったのだ。彼は例えばこんなことを言っている。

 

「私は自分が極めて誤りを犯しやすいことを認めており、また最初に浮かんだ考えはまず決して信頼しない」

 

 真理の探究に関して、他人がウザイと思うほどに慎重だったからこそ、デカルトは哲学においても科学においても大成功を収めることが出来たのである。さて、その真理の探究に関して、もっともデカルトが重要視したのは、そのスタートである。

 

 例えば旅行に行くとして、そのスタートが目的地と反対方向であったら、進めば進むほど事態は悪化してしまう。仕事でも同様に、まず目的に対してもっとも最善と思われるしっかりした方向を持たなければ仕事のできない人間の烙印を押されてしまう。

 

 同様に、真理を探究するにあたっても、スタートの方向がいかに間違っていないかを慎重すぎるほど慎重に検討するのが重要なのである。そしてその検討方法にデカルトが採用したのが「あらゆることを疑いまくる」というものであった。あらゆるものを疑いまくって、その存在に少しでも疑問の余地があるものは、真理の対象から排除していくのだ。

 

 いまでは「科学の基本は疑うことである」なんて耳にタコができるほど理系の人間は聞かされているかもしれないが、その黒幕、創始者デカルトだったのかもしれない。彼はありとあらゆるものを疑った。机などない、書物などない、体などない、実体などない。何故ならそれらは夢でも同様に見られるものであり、夢は実体ではありえないからだ。同時にこの現実世界だって夢かもしれないではないか。もちろん皆さんは馬鹿げていると思うかもしれない。だがデカルトは明確に疑えないものでない限り、徹底的に真理の対象から排除すると誓ったのだ。絶対に絶対に、スタートの方向を間違えるわけにはいかない!

 

 そしてデカルトは辿り着く。「私がこのように思索しているということは疑いようがない」ということに。

 

 何故なら「私が思索している」ということを疑うとする、そうすると「私が思索していることを疑う私」をさらに思索している私がいることになるからだ。思索をする私は、疑っても疑っても消えてはくれないのである。自分の思考をいくら疑っても、まったく自分の思考から逃れられない!自分は消えない!うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!

 

 正に自分が人生をかけた「思索する」というデカルトの行為そのものが、本人の一番欲しかったものだったのだ。

 

 槇原敬之の「僕が一番欲しかったもの」を貼っておきますね。

www.youtube.com

 

 さて、注意深い読者は私が最初にミスリードをしかけていたことに気づいたかもしれない。私は上で、

「私が考えている」ことはただの思考、言い換えれば精神や魂と呼べるものであり、「私がいる」というのは実体の話だ。

 と述べた。しかし実はデカルト、「私がいる」というのは「実体」の話だとは一言も言っていない。むしろ、私の本質は考えるという行為のみであるとした。実体があるかどうかなど疑えてしまうのだから知らん!どうでもいい!しかし少なくとも思索という精神性・魂だけは実在するというのは確かなのだ。これがデカルトのスタンスであり、自論を進めていく最大の立脚点であり「我思う、故に我あり」の真の意図なのである。

 

 ちなみにデカルト方法序説をそれぞれ6章にわけて執筆した。この「我思う、故に我あり」に到達するのは4章である。他の章の内容は以下のようなものだ。

 

 1章ではこの本を書くに至った理由が述べられる。これまで学んだ膨大な学問が全く不確実なものであり、人生に役立たないものだと確認し、書物を捨てて旅に出ることになるエピソードが紹介されている。以下に述べられた言葉には、デカルトのこの本に対するスタンスが垣間見える。

私の目的は、自分の理性を正しく導くために従うべき万人向けの方法をここで教えることではなく、どのように自分の理性を導こうと努力したかを見せるだけだ。

 全ての良書を読むことは、著者である過去の世紀の1流の人々と親しく語り合い、旅するようなものだ。けれども旅に多く時間を費やすと、しまいには異邦人になってしまう。また、過去の世紀でなされたことに興味を持ちすぎると、現世紀で行われていることについてひどく無知なままとなる。

(あちこちの軍隊や宮廷を見て様々な実地経験を踏むことで)文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。

 

 2章では学問あるいは思索の改革のための方法が、有名な4つの規則として提示される。

  1. 私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと
  2. 私が検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
  3. 私の思考を最も単純で認識しやすいものから初めて、少しずつ階段を昇るようにして最も複雑なものの認識まで到達すること
  4. 最期に完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、何も見落としていないことを確信すること

 

 第3章では道徳、実生活の指針が述べられる。これはデカルトストア派哲学の影響が色濃く残っている。

 ストア派哲学についてはこちらの記事を参照にしてください。

yushak.hatenablog.com

 

 いくら良いものでも、我々の外にあるものはすべて等しく自らの力の遠く及ばないものとみなせば、生まれつきいいものがないからと言って、それを残念とは思わなくなる。中国やメキシコの王国が自分の所有でないことを残念に思わないように。

 

 そして4章の「我思う、故に我あり」という真理に至るのであった。こう見てくると、方法序説からはデカルトの「わけぇもんに伝えたい」という老婆心が伝わってこないだろうか。

 

 だが最後の6章で、下記のような説教をして、わけぇもんの気を引き締めにも来るのだ。

人から受ける反論についての経験からすると、そこからはどんな利益も期待できない。

討論というやり方で、それまで知らなかった真理を何か一つでも発見したということは見たことがない。だれもが相手を打ち負かそうと懸命になっている間は、双方の論拠を考えるよりも、真実らしさを強調することに努力してしまっているからだ。

他の人から学ぶ場合には、自分自身で発見する場合ほどはっきりとものを捉えることはできず、またそれを自分のものとすることもできない。

ある種の人は、他人が20年もかかって考えたことすべてを、2つ3つの言葉を聞くだけで一日でわかると思い込み、しかも頭がよく機敏であればあるほど誤りやすく、真理を捉える力も劣っている。

 

 これらの考え方はショーペンハウアーが「読書について」の中で述べている、自分の頭で考えることの重要性の主張と非常に近い。偉人の生き方の根本はあまり大きく違わないのかなとも思えて面白い。下記の記事を参考までに。

yushak.hatenablog.com

 

 方法序説は本としては非常に薄く、本文は100ページちょっとであって読みやすい。(というのは序説というだけあって、本論がこのあと400ページくらい続くからなのであるが・・・。)この本にはデカルトの根本的な思想が詰まっており、科学を志すもののみならず、哲学徒も必読の傑作である。みなさんも読んでみてはいかがだろうか。

 

 ※ちなみに「我思う、故に我あり」さえも否定し、より完全な真理に至った男がいる。しかもそいつは、デカルトの生まれる2000年前に既に存在していた。「私など無い」ーーーすなわち無我の境地、「釈迦」その人である。