Kの思索(付録と補遺)

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「意志と表象としての世界」解説 ショーペンハウアーが解き明かしたこの世界の「正体」〜Kの思索(付録と補遺)vol.20〜

 ショーペンハウアーは僕が最も好きな哲学者だ。このブログを開設するきっかけにもなった「読書について」の著者でもある。この「読書について」や他にも「知性について」「自殺について」を記した著者としても有名だ。

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アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia

(かっこよくないですか?この鋭い眼光と圧倒的な知性を感じさせるお姿)

 

 しかし、彼の主著であるところの「意志と表象としての世界」については、あまりその名を聞かない。実は「読書について」も「知性について」も「自殺について」も、彼のこの主著であるところの「意志と表象としての世界」の付録と補遺にすぎない。

 

 「意志と表象としての世界」が全然売れなかったため、続編を書く構想を綴ってはいたものの、それがいつ「意志と表象としての世界」の続編として出版できるかわからないということで、しかたなく小分けにして出版したのがこれらの「付録と補遺」なのである。だから「付録と補遺」は哲学書というよりも自己啓発書的な内容となっているのも致し方なかろう。すなわち「意志と表象としての世界」で解き明かされた世界の本質をあるていど前提として、ならば「我々はどうするか」というような部分だけを抜き出して補強しているからだ。

 

 結局ショーペンハウアーは30歳にしてこの「意志と表象としての世界」を完成させたが、第三版がようやく刊行されたのは、彼がじつに71歳の時であった。40年近く彼の哲学は評価されず、というよりむしろ、当時の凡庸な大半の哲学者たちの立場を危うくするということで「無視されて」いた。地動説を唱え続けたコペルニクスのようだ。天才はいつの時代も孤独なのである。彼が晩年にして刊行された「意志と表象としての世界」第3版に寄せた序文を紹介しよう。

 

 まがいものではないほんものの仕事は、それを産み出す能力のない連中がともに結束して擡頭をはばむことがなければ、もっとたやすくこの世に場所を得られることであろう。

 世の中のためになるはずのものが、息の根をとめられないまでも 、世に出るのを妨害され遅らされることが従来も少なくなかったのはこうした事情のせいである。わたしの場合もこのような事情の結果をこうむっている。

(中略)

 しかしこの点についてはペトラルカの次の言葉に私は慰めを見出す。「一日中走り続けて、夕方に辿り着けば、それで十分である」。わたしもとうとうたどり着くところにたどり着いたわけである。

 生涯の終わりになって私の影響が始まり出したのを見てわたしは満足している。この影響が古来の常例どおりに、始まるのが遅かった時には、それに釣り合う分だけ永くつづく、ということであればよいと希望している。

  

 なんて切ない文章なんだ!しかし貴方のその素晴らしい哲学は私にちゃんと届きましたよ。

 

 ではそのショーペンハウアーの諦念をここで引き継ごうではないか。彼にはこの世界がどのように見えていたのか。この世界の正体とはなんなのだろうか

 

 「世界は私の意志と表象である」。本のタイトルまんまやんけ!と突っ込みたくなるのは分かるが、ショーペンハウアーの哲学はこの思想を一本の図太い幹として展開してくのである。その結果、彼の考察は数学・物理学・化学・生物学などの自然科学だけにとどまらず、倫理や法、芸術までもおよぶのだ。そのせいで「意志と表象としての世界」の総ページ数は1000ページ近くになる。時間がない人のために、このブログで彼の哲学思想の核だけでも伝えられればとは思う。

 

 「世界は私の意志と表象である」・・・とはいえそう言われても「つまりどういうこと?」という風に聞きたくなるだろう。まぁまずは少しでも分かりやすいほうから説明したほうが良いだろう。ということでまずは「表象」の方から焦点をあてていこう。

 

 「世界は私の表象である。」・・・「表象」とは、まぁ簡単に言えば「モノ」のことだと思ってもらえればいい。目の前のPC、スマホ、テレビ、ゲーム機、本などなどである。加えて、あらゆる造形物も目に見える美しい自然も、空気も、当然「表象」と一くくりに言うことが出来る。それだけでなく、光や音なんかも表象だ。私のこの身体もまた表象である。いやそれだけではない、私が思考する「概念」なんかも表象といえよう。

 

 こんなこと言ってるうちに「そんなこと言ったら、この世界のありとあらゆるものが表象じゃないか!」と突っ込みたくなるかもしれないが、非常に良い理解である。誰しもそう思うだろう。だってショーペンハウアーはこうして誰しもが「うん、まぁそりゃそうだよね」と思う確信から自分の哲学をスタートさせたのだ。哲学はスタートの土台が肝心かなめである。土台がぐらぐらしていては何も積み上げられないだろう。

 

 ということでこんな風に言い換えても良いかもしれない。私のこの「主観」と「客観」における全てが表象なのだ。このうち「客観」に関しては、時間と空間の内にあるものだとか、よって原因と結果(因果性)があるとか、色々いえるだろう。でもまぁここでは「認識できるもの」と一言でいえば済むのではないかと思う。

 

 これと同時に、主観は「認識するもの」ということが出来るだろう。この私の主観は、この世界のありとあらゆる表象を「認識するもの」である。この私の主観は、現実にあるものだけでなく、想像上の概念すらも認識することが出来るだろう。

 

 このことから、先ほど説明した「認識『できる』もの」としての客観よりも、主観のほうが一段格上なのが分かるだろう。なぜなら「認識するもの」である主観が消えれば、もはやこの世界には「認識できるもの」である客観などは残るはずもないからである。ここから次の衝撃的事実が明らかになる。

 

 この私という主観が消え去れば(例えば死んだり眠ったり気絶したりしていれば)、この表象としての世界も同時に消え去る。

 

 ある程度哲学をかじったものなら「唯心論」という言葉を聞いたことはないだろうか。この世界の実体は私の心だけであり、その心が消え去れば世界は無くなる、といったような思想である。上記してきた結果は、この唯心論と非常に近い考えだ。

 

 とはいえ、やはりなんだかこの「唯心論」はむずがゆい感じがする。だって、素朴にこうおもうのではないだろうか?「いやいや、たとえ僕が死んで、僕の主観が消え去ったとしても、他の人やモノは変わりなくそこにあり続けるだろうし、変わりなく営みを続けていくでしょ」・・・心が消えたら世界が消えるなんて、なんだか直感に反する気持ちがする。

 

 この思想がまさに「唯物論」と言われるものである。皆さんはどっち派だろうか。この如何とも言いがたい「唯心論」と「唯物論」の二つの思想は、哲学史のなかでも激論されてきたテーマなのである。

 

 では発想を転換して、この問題にケリをつけることにしよう。こう考えてみてはいかがだろうか。心が消えればこの世界の「表象」は消え去るかもしれない、しかしなるほど我々には、そのあとの世界にも「何か」 が確実に残る予感があるのだ。つまりこの世界は「表象」だけで成立してはいない。表象としての世界だけでなく、この世界には「別の何かX」が確実にあるということになる。なんだこいつは!だれだ!(笑)

 

 もうお分かりかもしれないが、この「別のなにかX」をショーペンハウアーは「意志」と名付けたのである。誤解してほしくないのだが、ショーペンハウアーはこの「別の何かX」に対してテキトーに「まぁよくわかんないけど、とりあえず意志とでも名付けとけば良いっしょ(笑)」という気持ちで名前を当てたのではない。「別の何かX」が我々が普段使う意味においての「意志」であることに確信があったのである。よって再びこう言われる。

 

 世界は私の意志と表象である。

 

 さて、ここで表象よりも意志が先んじていることに注目してほしい。つまり、「世界は私の表象と意志である」とは言っていない。「世界は私の意志と表象である」、と言っている。ショーペンハウアー表象よりも意志を重んじていることが本のタイトルからにじみ出ている。

 

 ではなぜショーペンハウハーは、この世界のもう一つの側面を「意志」と名付けるに至ったのであろうか。これはちょっとばかし、ショーペンハウアーが通ってきた哲学史を振り返る必要がある。これは絶対に必要なことだ。前の歴史をふまえない哲学など、骨のない身体のようなものだ。もしくは何の知識もない人がいきなり現場に放り投げられ、専門用語が飛び交う中でただあたふたすることしかできないことと似たような状況になるだろう。

 

 そもそも、この世界で表象されているモノはある意味では「まやかし、幻影」であり、世界の本質はこれらの表象を超えた外側にある、というような上記してきた思想は、別に目新しいものではない。古くは、かの神のごとき古代の大哲学者プラトンイデアという思想を残している。

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プラトン - Wikipedia

 

 プラトンイデアについて次のような例え話をしている。「我々に見えているのは灯に照らされて洞窟に映った自らの影だけである。けっして灯そのものを見ることはない。」もちろん、ここでいう洞窟に映った自らの影が「表象」のことで、灯が「イデア」の事である。

 

 しかしショーペンハウアーの思想形成にプラトンよりもさらに多大な影響を与えた人物がいる。近代哲学史における史上最強の哲人、かのイマニエル・カントである。

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イマヌエル・カント - Wikipedia

 (「悪いけど私カント読破してるんでw」ってある女性の発言は一時期ネタになってましたよね~)

 

 彼はその天才的頭脳で「我々がどこまでのことを認識しうるか」という認識論において、哲学史界にコペルニクス的転回をもたらしたのだ。

 

 カントは、ヒュームというこれまた有名な哲学者の「全ての知識や概念は、人間が経験から作り出したものにすぎない」という当時最先端の哲学思想に疑問を抱いた。だって、それならなぜ数学や論理学などのように、多くの人が共通認識を持てる学問が存在するのだろうか?経験は万人によって違うのだから、もっと人それぞれの学問体系があってもいいはずじゃないか!

 

 そこでカントはこう考えた。たしかに人間はヒュームの言う通り、経験から知識を得ている。だがその経験の受け取り方には「人間特有の形式」があり、それは経験によらない「先験的なもの」なのである。

 

 このちょっとむずかしそうな思想は、有名哲学ブロガーの「飲茶」さんがむちゃくちゃ良いたとえ話をしてくれているので、それを拝借させていただくことにする。

 

 つまりこういうことだ。我々は何かを認識する際に、まず人間固有の変換装置を通している。これはDVDプレイヤーにあたる。世界の本質、プラトンの言ったイデアは、ここでいえばDVDそのものにあたるだろう。実際のところDVDには細かい凹凸があるだけであり、我々はDVDプレイヤーという人間固有の変換装置を通して、ようやく映像を認識することが出来るのである。

 

 よってこの先験的な人間固有の形式(DVDプレイヤー)は個々人によらず変わりなく、健康な人間万人に共通するのである(先験的とは、読んで字のごとく経験に先んじるものというような意味で哲学でよく用いられる専門用語であるア・プリオリとも言われる)。

 

 だからもしDVDプレイヤーの形が異なれば、この世界の見え方はまったく違ったものになるだろう。3次元に住む我々は、5次元に住む様子を想像できないし、白黒の世界しか知らない鳥に、赤色を本当に理解させることは出来ないだろう。もしかしたら時間?なにそれ?と感じている生物もいるかもしれない。

 

 数学や論理学が万人の共通認識として成立するのは、これらの学問がこのア・プリオリな「人間固有の形式」を土台としているからに他ならない。ただし我々は決してこの世界の本質であるところの「DVDそのもの」を認識することは出来ないのである。DVDそのものは人間固有の形式(DVDプレイヤー)の枠外なのだ。DVDの細かい凹凸が、それだけでは何を意味しているかが全く分からないのと同じことである。

 

 カントのこの思想は哲学史に決定的な一発をくらわすことになる。だってそうだろう。この思想から行けば、これまで哲学者が苦心して明らかにしようとしてきた「神」や「死」といったような超越的概念の存在は、おそらくDVDそのものにあたるのであり、決して認識しえないとカントが結論付けてしまったのだから。これを本当に認識するなら死ぬしかないだろう。・・・いや、それでもだめだ。だって死んでしまったら認識そのものが消えると先ほど言ったばかりではないか。

 

 カントはこの世界を超越したDVDそのもの、プラトンの言い方に従えばイデアを、「物自体」と名付けた。いい名前だ。物の本質、物をなす我々の認識以前の物そのもの、だから「物自体」なのだ。

 

 ショーペンハウアーはまずこの人間固有の形式(DVDプレイヤー)をもっと深く哲学しようとした。すなわちこの人間固有の形式は、どんな原理から成り立っているのだろうかと考えたのだ。原理を示しまくるのが哲学の大事な仕事だ。その結果がショーペンハウアー博士論文となった 「根拠の原理の4つの根について」である。ショーペンハウアーはカントの偉大な哲学をさらに進めたのだ。

 

 この論文を簡単に言うと、我々の表象としての世界は「根拠の原理」という変換装置を介して認識されており、これには4つの原理があるというものだ。なるほど「DVDプレイヤー」は、なんか大事な4つの構成部品からなっているのだな、と理解してもらえればよい。全ての事物は、根拠の原理の4つの形態に従って現象するのである。

 

 その4つの原理とはすなわち①生成の根拠の原理、すなわち因果の法則。②認識の根拠の原理、すなわち論理法則。③存在の根拠の原理、すなわち時間・空間の純粋直観。④行為の根拠の原理、すなわち動機付けの法則である。

 

 なにやら色々出てきたが、私はこれにあまり深入りしようとは思わない。ただショーペンハウアーが言いたかった重要な核心だけはお伝えしたい。根拠の原理は、この表象としての世界を説明する全てである。すなわち、この世界に生ずる現象はすべてこの根拠の原理から成っているのであり、科学のすべての導きの糸にもなっている。

 

 いいかえると、この世界に生ずるあらゆる事物に例えば「何故?」とその根拠を問うなら、それは最終的に、この根拠の原理の4つのどれかにたどり着かざるを得ないということになる。

 

 しかしながら、この根拠の原理が成立するのは、あくまでも人間固有の変換装置、DVDプレイヤーまでなのだ。DVDそのもの=物自体は、この根拠の原理の外側にある。すなわち、物自体は根拠の原理に従わない。言い換えると、物自体は根拠を持たないのである。

 

 さてショーペンハウアーはこの「根拠の原理の4つの根について」で、25歳にして哲学博士をとることになのであるが、さらにこの6年後、ショーペンハウアー31歳にして完成したのが主著である「意志と表象としての世界」だった。

 

 ショーペンハウアーは「根拠の原理の4つの根について」を書いてから、「物自体」が気になって気になって仕方なかった。ショーペンハウアーは、我々が表象としてみているこの世界の原理を「根拠の原理」で説明しきったと自負していた。ならば必然的に「次は物自体を解き明かしたい!」となるのが哲学者の性分というものであろう。この世界の表象はすべてある意味でのまやかしであり、本質は「物自体」である、なんていわれたら、物自体の正体を知りたくて知りたくて、いてもたってもいられない。

 

 しかし悲しいかな、我々の認識の外にある「物自体」をどのように説明しろというのか。ショーペンハウアーは悩んだ結果、むしろこの表象としての世界を徹底して観察することにした。物自体を認識することは出来ないが、しかし同時にこの世界は確実に物自体なのであるから、この表象としての世界には確実に物自体の性質が、その影響がにじみでているはずだ!ならばこの世界を観察しつくして、その性質を明らかにしてやろうじゃないか!

 

 「物自体」は根拠の原理に従わず、根拠をもたないのであるから、物自体にその根拠を問うのはまったくもってナンセンスである。つまり質問自体に意味がない。物自体に「何故?」を問うことはナンセンスである。しかしショーペンハウアーは物自体に「何?」を問おうとしたのだ。

 

 ここまで読んでこられた読者なら、「何?」を問うのは「何故?」を問うよりも格上であると理解しておられるだろう。なぜなら「何故?」を知りたいと願うのは結局、根拠の原理に帰着するからだ。何故・・・即ち因果や論理や動機を知りたいというのは、全て根拠の原理に還元される。しかしそれは結局人間固有の認識でしかないのであった。物自体について、原因や結果、理由を知りたいと願うのは、申し訳ないがそれはまだあなたがこの話を理解していない証拠だ。もはや我々はその根拠の原理の外側である物自体を示そうとしているのだから、根拠の原理に従う「何故?」という質問に対しては、一歩下がって格下にみることだろう。

 

 とはいえ既にネタバレ気味で、この「物自体」の正体が「意志」であるということはここまで読んでこられた読者ならとっくにお気づきかと思う。世界の全ての表象は、無根拠にたえまなく終わることのない努力、すなわち意志し続けているのである

 

 この意志は、イデアとして我々の表象にその性質を現す際に「段階」を示すショーペンハウアーは、意志がこの現実世界にその性質をにじみ出す際、そこに段階があることを見抜き、それを「高位のイデア」「低位のイデア」などと呼んだ。(厳密にいえばこの意味において、ショーペンハウアーは意志=物自体とイデアを区別している。すなわち意志と表象の間にある諸段階のあらわれをイデアと言っているのだが、まぁここに頭を悩ませていてはもったいない。このことは今後の説明で私がイデアと物自体=意志をある程度使い分けているのをみて何となく理解して頂けることと思う。)

 

 例えば最も下位のイデアを示す段階が、自然法(例えば重力)などである。そして中位のイデアを示す段階が「植物」、高位のイデアを示す段階が「動物」、そして最高位のイデアを示す段階が我々「人間」である。

 

 イデアが低位から高位になるに従い、その表象としての現れ方は複雑さを増していく

 

 最低位のイデアである重力が意志することと言えば、それは絶え間ない落下である。あまりにも純粋無垢な、落下という性質である。重力のイデアの現れは、ただ無根拠に落下させようとする意志である。このあまりの純粋無垢さゆえ、決められた仕事を真っすぐこなす低位のイデアであるという性質故に、低位のイデアはことごとく定式化することが出来るのである。こうして定式化されたものが「自然法則」に他ならない。

 

 しかし低位のイデアは高位のイデアとの闘争の結果、高位のイデアに「飲み込まれる」形でこの世界に表象することとなる。

 

 例えば「中位のイデア」である植物を見てみると、水の運搬や呼吸、個々の原子の流れなどは確かに部分部分でみれば自然法則である。しかし「植物そのもの」全体を、低位のイデアである自然法則を積み上げていくことで、(結果それがめちゃくちゃ複雑な形だとしても)何らかの形で定式化できるだろう、などと考えるのは大きな過ちである。例えば最低位のイデアである物理法則でさえ、カオス系と呼ばれるものが存在し、相対論的にはたった3体の天体の運動でさえ、一般的には解けなくなってしまうのだ。これが「低位のイデアは高位のイデアに飲み込まれている」と言った意味である。

 

 例えばもし人間が、科学的に何か「人間のようなもの」を再現できたとしても、人間という全体を定式化できることはなく、「こうこうしてみると、何故かわからんが上手くいって、人間のようなものが再現される」というような曖昧な経験論で理解が深まっていくことだろう。

 

 さていよいよイデアの段階は、「植物」に至ると種としての「個性」となってあらわれてくる。これが「動物」に至ると、個性のほか、それぞれの個体の「性格」としてイデアが現れてくる。例えば犬の種類でも、ゴールデンレトリバーは比較的おとなしく、ドーベルマンは警戒心が強い、といった性格の違いがあらわれる。

 

 こと人間に至るとイデアの現れはいよいよ極まり、「性格」だけでなく「理性」があらわれる。理性とは「概念を想像できる力」である。この概念を想像できることで、人間は過去と未来という「今確かにここにある現実」以外の想像をも、現実のものとして考えることが出来てしまい、その過去と未来の全てを背負うことによる苦悩は全ての動物をはるかに凌ぐ。この理性によって、人間は植物・動物よりも本能的でない行動をとることがあるのである(自己犠牲などはその一例である)。

 

 また意志は、低位のイデアほどその本性を剥き出しにしていることにも気づく。例えば生あるものの全ての意志は、生きることに全力を注いでいるのだから、性器は「生きんとする意志」の焦点であるといえよう。

 

 植物においてはその性器を、恥も外聞もなく受粉のために堂々と上に掲げている。人間は理性の力によって性器を見せびらかすのは恥ずかしいことと認識し、服で性器を隠すようになった。その代わりに態度や言動など、そのほかの要素の組み合わせで、自分という意志を高位のイデアとして客体化し、表象しているのである。

 

 ということは、性器以外の臓器なども、すべて意志の客体化であると考えられる。性器を生きんとする意志の客体化の焦点だとすれば、たとえば胃は「飢餓」の客体化、脳は「認識」の客体化とでも言えようか。我々が苦行を行うときに苦痛を伴うことがまさに生きんとする意志が確固として存在する証拠に他ならない。あらゆる臓器は生きることに向けて無限の努力をし続ける。

 

 このようにして意志の性質が明らかになってきた。それは大まかに分けて次の2つであろう①意志は常に努力し続け、絶え間ない闘争を繰り広げるものである。②その努力と闘争には何の根拠もない。意志=物自体は無根拠である。

 

 意志は低位のイデア同士でも闘争する。例えば重力に対する弾性力からの反発なんかがそうだ。また低位のイデアが長い闘争の最期に、高位のイデアに勝つこともある。生物にあってはこれがまさに「死」と呼ばれるものである。高位のイデアである生命が、低位のイデアの活動に負け、最後には物質に還って行くのである。

 

 だが、意志が無限の努力であり、その成果物をこの表象としての世界に表明し続けるのだとすれば、大絶滅などが起きない限りは、イデアは高位になっていく一方であると言える。つまり、個々の意志同士は衝突し、闘争を繰り広げてはいるものの、種の繁栄という生きんとする意志の本来の目的においてはまったく調和し、その繁栄に向かって努力するのである。そしていつかより高位のイデアへ飲み込まれることも知らずに、その訪れを待つのである。

 

 意志は休むことなく続く不断の努力である、ということを我々は理解した。そのことは人間や動物を観察することではるかにわれわれを納得させてくれる。意欲と努力とが人間や動物の本質なのであり、それはまったく癒されない渇望にも似ている。あらゆる意欲の基盤は欠乏であり、不足であり、したがってまた苦痛なのである。

 

 人間は生きんとする意志によって意欲し、努力によってその渇望を満たす。意欲が満たされなければ当然ながらそれは激しい苦痛となって我々に襲い掛かるだろう。

 

 しかし、意欲が常に満たされ続けると、ついに意欲することが見つからなくなり、激しい退屈に襲われる。これもまた生きんとする意志を阻害する行為に他ならない。なぜなら、意志はその本質として努力し続けたいにもかかわらず、努力することが見つからないという自分の本質に反する状況だからだ。退屈もまた、度を過ぎると努力が報われないことと同じくらいの苦痛なのである。

 

 退屈が苦痛であるというこのことは、禁固刑を命じられ、終日何もすることがない囚人が自殺したり、ニートでも鬱病を発症することがあるのがいい例であろう。このように、生きんとする意志は、努力という苦痛と、退屈という苦痛の間を行き着する振り子運動に他ならない。

 

 よって人間は、生きんとする意志の絶え間ない振り子運動によって、本質的に苦悩を抱えていると言える。いやむしろ、人生の一切が苦悩なのだ。我々の哲学から行けば、幸福というものが「生きんとする意志の意欲が常に適切なバランスで満たされ続ける」というようなことになるだろうが、そんなことは現実的に考えてあり得ない。むしろ、幸も不幸も感じることがないような、そういう振り子運動が止まった状態のほうが現実的だ。

 

 これにより仏教ではあの偉大な「一切皆苦」という教えが説かれ、そしてそのすべての苦悩の原因は欲から発生するのだと言われるのである。まさに我々が哲学してきたことが、過去の偉大なる聖人が直観的に悟ったこととの一致を見たのである。

 

 生きんとする意志の、意欲による努力と退屈の振り子運動が全ての苦悩を生むのだとしたら、我々に出来ることといえば、その意志を認識の力によって否定するか肯定するかを選ぶことくらいのものだろう。

 

 もちろん我々は哲学をしているのであり、哲学の本質は対象を純粋に観察的に対処し探求することにあって、決して「これこれをせよ」というものではない。哲学は存在するものを解釈し説明するだけである。だから哲学者が以降で言われることを真理として述べ立てられるからといって「実践」できるわけでは全く無いし、それは哲学者の役目ではない事を決するのは哲学の概念ではなく、人間の内的本質であるから、「かくすべし」ということも言うわけにはいかないのだ。「欲するということは教えようがない」のである。

 

 ショーペンハウアーは意志を「肯定」する方に関してはあまり多くを記していない。恐らくそれは「一般的」、ある意味で「自然」なことだと考えたためだと思われる。私もショーペンハウアーに従って、普通には理解しがたいと思われる意志の「否定」に関して深く掘り下げていきたい。

 

 この世界は私の意志と表象である。表象は、人間固有の変換装置を通して我々に認識される。しかし意志はその変換装置であるところの根拠の原理の外にあるため、まったく根拠を持たず、無限に努力している。そのことによる苦悩は、まさに我々が今実感しているとおりである。

 

 意志を否定するということは、まさに我々の身体が欲しているこの生、すなわち「生きんとする意志」であるが、これを否定することである。そうして努力と退屈の無限の振り子運動、何かを欲するという意欲を停止することで、幸福も不幸もない、絶対的な安静に至るのである。

 

 性器は生きんとする意志の焦点であるから、生きんとする意志を否定する認識活動の第一歩は「禁欲」である。このことにより、キリスト教では「純潔」が説かれるのである。純潔を守るのは、生きんとする意志を否定し続ける認識活動に他ならない。「右のほほをぶたれたら、左のほほを差し出せ」というキリスト教の代表的な教えの内的本質も、この生きんとする意志の否定に他ならない。「そういう行為のほうが道徳的だし、人間として尊敬できるし、美しいよね~」という浅はかな考えではないのである。あらゆる宗教で行われる断食などの一定の苦行も、その本質は「生きんとする意志」を否定することで、絶対的な安静へ至ることを目的としているのである。

 

 そしてもし、この生きんとする意志を完全に否定したとしたなら・・・本当に意志を滅することが出来たとしたなら、同時に彼が認識するこの世界も消え去ることになるだろう。この表象としての世界は、所詮は意志のイデアによる客体化に過ぎず、意志が消え去ればその存在を保てなくなるからだ。そして当然、時間と空間という認識も消え去る。時間と空間は根拠の原理という人間固有の変換装置に過ぎないからだ。彼はついにその究極の悟りの境地に至るとき、この世界のあらゆる認識から解放され、無となり、無限となり、永遠になり、さらにそれすらも捨て去るのである。

 

 だから仏教の教えでは「色即是空、空即是色」と言われるのである。この世界の色(すなわち表象)はすべて空(存在しない)なのであり、空もすなわちこの世界の色である。この世界は本来区別するものがなく、全てが一体(物自体=意志)なのであり、そしてその一体すらも実体のない空なのである。

 

 ここまで読んできた読者であれば、仏教のこの深遠な教えを素直に理解することが出来るだろうし、ヴェーダと呼ばれる仏教の真髄を記した聖典が、如何に凄まじい理解にまで到達していたかに驚くことが出来るだろう。

 

 長くなったが、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」についての解説をそろそろ終えようと思う。しかしながら、これだけ書いても著者の哲学を全て伝えるには遠く及ばない。この記事を読んで「意志と表象としての世界」に興味を持ち、原著にあたる人が増えてくれれば、まことにブロガー冥利につきるというものだ。

 

 最後にニーチェの事を紹介しておかなければなるまい。最近、自己啓発本などでニーチェの前向きな言葉を取り上げた大衆本が流行しているが、彼はこのショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」に多大な影響をうけた哲学者である。彼の代表的な名言に「生きんとする意志を肯定せよ!」というものがあるが・・・しかしもはやこれ以上の説明は要るまい。

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フリードリヒ・ニーチェ - Wikipedia

 

 こうして哲学は前の偉人の哲学を踏まえ、乗り越え、進んでいくのである。哲学の語源は「知を愛する」であるが、その活動の終わりはまだまだ見えそうにない。