Kの思索(付録と補遺)

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生産性のない人間は死ぬべきか?~ Kの思索(付録と補遺)vol.76~

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  資本主義の競争社会では、「正論」と呼ばれるものは基本的に「生産性」に結びつくと言ってよい。正論による「詰め」もしかりだ。つまり「どうしてそんなミスをしたの?」とか「どうしてこうしなかったの?」「こうするべきだよね?」というようなお叱りは、合理性を欠いているため、生産性が低くなった事によって発生する。


  さて僕がこの記事で書きたいのは、この「正論」をどこまで真剣に適用して良いかという思索である。何故ならば、この正論というものは、非常に厄介なものであり、時に脅威となるからだ。それはどうしてだろうか?


  この正論というやつは、上記したように、生産性に結びつくものである。そして「生産性がない」ということは、大抵の場合「正論ではない」という事になる。そして正論は非常に強力なものであり、反論を許さない。だからこそ、生産性のない人(そしてこのような人は、大抵自分の行動にしっかりとしたロジックがない人である)は、決して正論には勝てない。


  このことは、周りをみればすぐに分かることだろう。だがここが正に厄介な所なのである。何故ならば、この論理を極めていくと、「生産性のない人間は死ね」という事になるからだ。合理的に考えればそうかもしれない。生産性の無い人がいなくなれば、金食い虫がいなくなり、生産性だけで満たされた素晴らしい世界の発展が訪れよう。……では、果たしてそれで良いのだろうか?


  これに答えるためには、3種類のタイプの人間を場合分けして分析する必要がありそうだ。すなわち、「生産性の無い人間は死んでも良いか?」という質問に対し、


①「それで良い」と断言する人

②「それではダメだ」と断言する人

③「どちらともいえない」と言う人


である。


  ただ③の人に関しては、極論を嫌っており、もっと柔軟に思考するべきだと考えているのだろう。そして柔軟に思考していけば、いずれなんらかの最適解が生まれると考えている人である。ただ、それが具体的には思いつかないと言ったところだろう。


  やはりこのような議論では、極論同士を戦わせることが必要になるのである。哲学者ヘーゲルのいう「弁証法」が有名だ。小池百合子知事が言って、一時期ネタ的な扱われ方をした「アウフヘーベン」だ。すなわち、ものの対立と矛盾を通して、その統一により、より一層高い境地に進むことが出来るという方法論だ。だからここでは③を捉えるために、①と②の相対する両者の思考回路を思索してみよう。


  まず①の「生産性の無い人間は死んでも良い」と断言する人だが、まず間違いなくこのような人は強者のロジックで生きてきた人間である。自らが生産性の塊である事が多いために、生産性のない人間が死んでも全く問題がない。自ずからの力で稼ぎ、生きていくことが出来るからだ。競争原理の権化のような存在だ。彼らは、自らが生産性を失ったら、甘んじて低待遇を受け入れてやろうと思うようなストイックさ、強靭的な精神力をも持ち合わせているだろう。


  だが、世の中①のような人間は殆どいない。だいたいは②の人間、すなわち「生産性がない人間だって生きる権利がある」と主張する人たちである。このような人たちは、①の人たちに比べれば、感情論的なところがあり、弱者に分類されてしまう。自らに生産性がなくても、生活を維持する方法として、仕事やお金は与えられたいし、食うために職場に行く。価値を生み出すのではなく「時間を捧げるという行為」で稼いでいる。


  このような論理をつき合わせてみても、客観的にみれば、①と②ではどちらが優位かはいうまでもない。だが②の人間にも反論の余地は残されている。なぜなら日本では、「ただ生きるという行為」も基本的人権として認められているからである。「健康で文化的な最低限度の生活」というやつだ。だから死ななくても良いのである。究極的には生活保護を申請すれば良い。


  さらに言えば、①の人が言う正論は大抵の場合、②の人が生み出す生産性が、①の人に得になる場合に言われる。例えばこれが具体的なところでみられるのは、経営者と労働者の関係である。経営者にとっては、生産性の無い人間に金を支払うのは何の意味もない。だから生産性の無い人間は経営者にとって邪魔なだけである。これは当然のことだ。


  しかしながら、それは会社関係においての話であり、それを社会構造そのものの在り方にまで議論を拡大するから厄介な事になるのである。もちろん会社は小さな国家、公だというのは承知している。しかしながら、どれだけ強者が、生産性の無い人間は死ぬ「べき」だと主張したとしても、国家において、基本的人権の元では、「死ななくても良い権利を有している」のであり、死ねと言われて死ぬわけもなく、頑張って生きるのである。時にはこのような社会構造に憤った弱者が、強者に対して革命を起こすことも、歴史を見れば繰り返されてきたことだ。


  このことから何が言えるだろうか?この時点において、もはや①の強者を語る必要はないだろう。彼らは彼らで、勝手に強く生きていくからだ。問題は②の人間が、どのようなマインドで①の強者と戦っていけば良いか、そのような処世術は何かということである。


  まずは、正論に対してまともに戦うことを止めることだろう。強者の論理を弱者が論破するのは並大抵のことではない。ポジションを取られていると言っても良い。相手は既に立派な城に籠城しており、罠も張っていて、何も考えず攻め入ると、生傷だけが増えていく事になる。

 

  戦いは何も論破だけが全てでは無い。正論にもかかわらず人が動かない例は山ほど見られるだろう。人は正論だけでなく、感情的な納得も重要なのである。強者には通用しないかもしれないが、大勢の弱者を感情で動かして味方につけ、数の力で強者を倒した例は多い。そして究極の例では、かの有名なカエサルは、正論と納得を巧みに操り、大勢を動かし勝利を収めた軍神であった。これを知るには是非ガリア戦記を読んでもらいたい。

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ガリア戦記ローマ帝国の礎を築いた軍神カエサルの、7年に渡る激動の日々が、本人の言葉で綴られた歴史的名著である。


  すなわちこれはポジションの問題なのだ。この議論は、お互いの立場をより優位にするためのポジショントークに過ぎない。強者がより強者となるため、弱者が自らの優位を獲得しようとするための、個人個人のポジショントークなのである。


  だから、もともと個人vs個人というポジショントークに過ぎないものに対して、強者は強者のロジックで、あたかも「正論」を社会構造そのものに当てはめ、社会構造に適さない生産性の無い個人を排除しようとする。社会構造というマクロな話を、個人というミクロな視点に当てはめているため、非常に最もらしく聞こえるのだ。


  そもそも、社会にとっての生産性という言葉は、非常に広く適用されるもので、何をもって生産性があるというのかは、状況によって全く異なるはずだ。無料配布する音楽や動画エンタメには本当に生産性がないだろうか?子供が産めない人は、それだけでその人全ての生産性が失われるのだろうか?そんなことはないはずだ。


  だから、マクロな経済的視点は、本来あなた個人のミクロな視点での役割とは関係がない。少子高齢化で、日本の経済力が衰退していくのがほぼ確実だからと言って、あなたの経済力や価値そのものまで将来に渡って衰退していくとは限らないのに、なぜあなた個人が絶望しなければならないのか?


  今、確かにあなたは生産性がないと思うかもしれないが、人生万事塞翁が馬、それが将来に渡って続くかは分からない。そしてあなたがそのことで、「社会の生産性へ足を引っ張る存在」などど、わざわざ大きな視点を持って悩む必要はない。あなたが心配しなくても、社会なんて巨大な流れは、なるようにしかならない。だから、強者から何を言われようと、あなた自らの「やりたいこと」を、ただ毎日やるだけだろう。そういうマインドで、勝手に生きれば良いだけのはずだ。


  誤解しないで頂きたいが、「弱者を擁護」するつもりはなく、あくまでフェアな記事を書きたかったため、このようなスタイルになった。もちろん生産性を高める努力は常に行われるべきだ。その際に、誰もがフェアに戦うためには、どこかこのような開き直りのマインドが必要になってくるのだ。鬱々として何もしないより、この方が動きやすいだろう。


  END.