Kの思索(付録と補遺)

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「生命力のある人間」とは~ Kの思索(付録と補遺)vol.78~

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  生命力とはなにか。生きていけることである。生きていけるとはなにか。病気にならないことである。常に心身の健康である。


   ことに身体の健康は、よりよく動き、よく寝、栄養のあるものをバランス良く食べることである。それはまことにシンプルである。


   対して心の健康はまことな複雑なものがある。心の健康を確保すること、これがいかに複雑な問題であるか。だが、人間の特性面から言って、何らかの節理がありそうなものである。そして、わたしには実際にそれがあると思われる。


  まことに、偉大なる先人たちは、この問題について数多くの真理を残していったものだ。なによりもまず、心が悩みで、永遠懇々と満たされ続けることを避けなければならない。


  私たちの心の不調は、コップに水が溜まるように高まり、水が溢れると一気に悪化する。しかも、水が溢れる正にその時までは、我慢が出来てしまうため、気づいたら取り返しがつかない状態にいるのである。


  とはいえ人生とは壮大なる苦行、一切皆苦の業である。そこにおいて、悩みを持ち続けないとすれば、それはどのようにして達成されるのか。


  ことに真理は、我々が感じる悩みというものが、未来か過去にしか抱かれないということである。現在の一瞬に、人は悩むことが出来ないのだ。ここから導かれるのは、もはやあらゆる悩みに関する本が共通して主張している金言である。


  すなわち「今に集中して生きる」、これである。今に集中し、過去も未来も考える事が出来ない状況にあり続ける限り、人は悩む事が不可能なのである。だがこれが究極の「いうは易し行うは難し」なのだ。


  それでも我々はなんとしてもこれに取り組まねばならない。さて偉大なる仏教は、その今を集中して生きる修行法の一つとして、「瞑想」というものを生み出した。やり方は調べると様々に出てくるが、好きなものを選んで構わないだろう。これは科学的にも、精神面に良好に働くものであると証明されている。


  とはいえ、忙しい現代人がずっと瞑想しているわけにもいかない。そのために、「行動瞑想」をする必要がある。


  すなわち、常に問題を処理する忙しさに身を置きつつも、その処理自体には一点集中。これなら生活を営むそのあらゆる動作自体が瞑想化するというワケだ。


  さて時間的な拘束から逃れて、時間を与えられ、何らの制約条件もなく、自らを好きに振る舞える事が「自由」かといえば、ことはそう単純ではない。むしろそのような状態は、いっそう過去と未来を考える余地を与えられておるために、人によっては甚だ悩みを抱え続ける状態にもなるのである。禁錮刑に処せられた犯罪者や、暇を持て余しすぎた大学生、ニート等に、甚だ精神疾患が多いのも、このためである。


  ここから一般的な「自由」とは逆説的な論が浮かび上がる。すなわち、人間が、心身ともに健康であるために、真に快適な自由とは、適度な制約条件の下にあるという事だ。これが「目的」である。しかも自由とは、環境そのものを指すのではなく、人間の「行為」そのものの中にこそ在るという事だ。ゆえに、目的を達成する量と密度が濃いほど、その人は自由を感じるだろう。

 

  すなわち、真に快適な自由とは、自らの行動が、自らの意志に自然に従い続ける形で、しかもある程度の制約条件の中で(これを「目的」と呼ぶ)、かつそれが前向きに進みゆく方向性の中に、時間的に包摂される形で存在するという事である。


  無論このような状態が、他人と関わり続ける社会生活の中において、常であるというのは難しい。しかしながら、我々が目指すべき指針はあるのだから、それは目指すべきなのである。例えば、完全な創作物が作れないからと言って、創作そのものをやめてしまうことは決して正しくない。我々はむしろ、その完全に近づくという方向性の動きの中にのみ、希望を託したのだった。


  ではどうすれば良いのだろうか。それにはまず「仕事の道楽化」が考えられよう。何故か。我々の生活は、いつも仕事で満たされている事が多い。生活の時間の大部分を占める仕事を、道楽化出来てしまえれば、これほど幸福なことは無い。そして好きこそものの上手なれ、常にそこには集中状態が得られる。


  元から仕事が道楽である人間は、この心配がない。それはある意味で最も幸福な人間に分類されよう。しかし他の多くの一般人はそうではない。仕事が苦痛でたまらない人の方が多いだろう。逆に、元々は好きだったことも、仕事にしたために嫌いになるという事もある。これが仕事というものの現実である。


  そのような仕事を道楽化するためには、どうすれば良いか。それは仕事が出来るようになるしかない。しかし仕事は次々とレベルが上がり、なかなか楽になるという事もない。しかも立ちはだかる理不尽や、意味の感じられない膨大な作業、時間ばかり取られる会議など、モチベーション低下の要因にはいとまがない。


  だから我々は、仕事の将来のレベルアップを「先取り」して行動する必要があるのだ。そしてなんとしてでも一刻も早く、仕事の主導権を握る必要があるのだ。


  すなわち、担当のうちは「主任」の仕事を、主任のうちには「係長」の仕事を、係長のうちには「課長」の仕事を、というように、常に自らの道に待ち受けるレベルアップを先取りする意識をもって、日々を臨むことである。そうなると、いよいよ仕事から離れたプライベートにおいても怠けてはいられない。


  このように見ていくと、職業の道楽化の為に重要なのはまず、「本業への一点集中」である。インフルエンサーからの影響により、本業の苦しさから逃れるようにして、好きな事が仕事になると信じて過剰に日々の娯楽へ逃れる人はまだマシとしても(とはいえこれも多くの場合、どうせ仕事になるほど好きではないのだから、冷静に考えるべきだ)、睡眠ばかりにふけることや、また副業だの何だのと、様々に手を広げる余裕は、一般人には無いはずなのだ。


  勿論、すでに職業が道楽化している方なら副業は存分にするべきだろう。それがまた更なるスキルを生み出し、本業へのシナジーとなれば、もはや満点だ。お金も得られる。


  しかしながら、努力は質と量をこなしたところで、そうやすやすと実るものではなく、運も左右するし、何よりもまず時間が必要である。「時節を待つ」という忍耐力がまずもって重要である。世の中には並外れた質と量をこなす努力家を見かけるが、惜しいことにこの「時節を待つ」という事ができずに、その花が咲く前に折れてしまうのを見る。これは国家的な損失で、誠に残念だと言わねばならない。


  そのような時節を待つ事は退屈で、しかもいつ来るかは分からないものだから、そこにはある種の霊感というか、霊的な確信のようなものを持つに至らねばならない。すなわち自らの行動の信念に、生や死が強烈に纏わりつく状態にいなければならない。そうでなければ、質と量のある努力など、長く続けられるものではない。全ての偉人に上記したような何らかの哲学的思想、宗教的な信仰心があるのはこのためである。


  このようにして分析していくと、生きていけること、すなわち生命力の姿が、明らかになってきたのではなかろうか。

 

  即ち、生命力のある人間は、よく食べ、よく動き、よく眠る。また精神面に関しては、彼らは常に今への集中状態であり、悩む事がない。そのため情報処理も早い。また日頃から仕事に対して先手を打ち、正に行住座臥、仕事が生活であり、生活が仕事である。だが仕事が道楽化しているためそれも苦でない。

 

  ここから導かれた人間像は、正にマッキンゼーで働いているような、全てを兼ね備えた猛烈系にも見えるが、故に、おそらくそれほどズレた考察ではないという証明であろう。


  先ほども述べたように、完璧という概念は、それが実現され得ないとしても価値を持つ。我々が生命力のある人間像を浮き彫りにし、それがどう形作られたかを見、同様のアプローチでその理想を目指す一つのキッカケになれば良いのである。


  END.