Kの思索(付録と補遺)

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死を思う脳~ Kの思索(付録と補遺)vol.82〜

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  「武士道と云ふは死ぬことと見つけたりという有名な一節がある。これは佐賀藩士・山本常朝によって口述された武士道書『葉隠に書かれたものである。


  僕はこの一文が好きだ。なんとなく理由はわかっているけれども、それを言語化しなければならない。今まさにこれを綴っていくことで、なんとなくではなく、明確にしなければならない。これは自分の中で、まだ筋が通っていないテーマだ。故に散文になることをお許し願いたい。


  僕の思考の中は常に「死」というテーマで埋め尽くされている。常に死を考えている。本当に集中しているとき以外は、どんなときも死が離れない。その日どれだけ楽しいことがあろうと、いつでも僕の脳には死がよぎる。僕は死にたがっているのか?しかし何故死にたがっているのか。


  中学生の頃まではそういう思考はなかった。なんだか毎日がそれなりに楽しかったような気もする。イジメがあったり、苦手なひともいたり、上手くいかないこともあったけれど、死にたいと思ったことは一度もなかった。


  今のように、毎日脳内が死で埋め尽くされるというのは、高校あたりからのような記憶がある。とはいえイジメを受けていたわけでもないし、部活も勉強もそれなりにやっていたし、まぁまぁ友達もいた。理不尽な先生に対して激しい怒りをもって対立したこともあったが、それが理由で毎日死を願うほどのこともなかろう。


  大学に入ってからもずっとそうだ。少なくともリア充と呼ばれる人々ほどに輝かしい大学生活ではなかったにせよ、寮に住んでいたためそこまで孤独ではなかったし、イベントもそれなりにこなしてきた。勉学に関しても、そこそこの成績をとって自分の望む研究も出来た。だがそれでもずっと死が離れることはなかった。


  もうあとは同じだ。社会人になってからもずっと一緒だ。もちろん大変な環境ではある。しかしここまで環境の安定や変化に関係なく、長い間変わらず一定に「死を思う脳」と共にいると、こう思わざるを得ない。「自分はそういう脳に落ち着いたのだ」と。


  当然だが、そんな僕にとっても死を思うことは楽しいことではない。もし僕に、楽しい事を楽しいと思う感情がなければ、死を思っている安定した時間だけがあったろう。しかし楽しい事は素直に楽しいと感じるのだから、死を思う時間を楽しいとは思えない。


  毎日死を思うのが自分の脳特性であり、それが変えがたいとするなら、この生は一切皆苦である。これは仏教の教えであるが、一切皆苦というのは僕のような脳だけに言及したのだろうか。幸福な生というものは、本当に何びとにもないのだろうか。


  僕は他人の心を本当に知ることはない。誰が自分のままで他人の心になることができよう。だからあのニコニコ笑って毎日楽しそうにしてる人も、口にも態度にも出さないだけで、本当は死を思う苦痛に耐えているかもしれない。だがそんなことは僕にはわからない。

 

  しかし少なくとも自分の脳はほぼ常に死を思って苦しみ、故に不幸に定まっているということは言えよう。いやしかし、苦しいからといって、苦しさそのものが不幸かはわからない。しかし、僕がこの生に幸福よりも不幸を圧倒的に身に感じている事、この感覚は嘘をつけない。


  幸福な人は、すでに幸福だからこそ、幸福とは何かという問いを発する必要がない。つまり彼はただ、すでに受けている幸福をそのまま味わっていればいい。幸福とはなにかを考え続ける人は、その必要を迫られている。それだけ不幸な生にあって、自らが救われる幸福を発見する必要に迫られている。


  何故そんな必要に迫られているのか?もっと楽しく生きれば良いじゃないか。ただ病んでるだけだ。人々はそういうかもしれない。ただ僕の実感がそれを否定している。お酒を飲むのは楽しいことだが、それを甘えとみなして断酒したりする。ゲームする時間も睡眠の時間も削っていく。自ら楽しみを削っていく。そういう脳である。もしくはそういう魂である。何故そうなったのかは僕に知るよしもない。僕の意識は何故僕の意識なのか分からない。それは神秘と呼ばれる領域である。しかし少なくとも僕にはそれが与えられたという事実がある。


  この辺りでどうしても宗教を思わざるを得ない。様々な宗教があるが、やはりどれかと言われれば僕は仏教徒である。仏教は悟りの境地を目指す。それは無我によって得られる。そのような「我」の抹消は、我を生み出す欲を無くすことによって得られる。ではその欲はどのように無くすことが出来るのか、うんぬんかんぬん。


  このようにして仏教の教えは進み、例えば人の欲は「五欲」であるとか、苦しみの種類は「四苦八苦」であるとか、悟りに至るためには「八正道」を心がけよなどと言われる。


  だが僕はこのような言語による教えに対しては注意が必要であると思う。何故か。その宗教がどれだけ精緻な論理の積み重ねの果てに、論理で語りえない神秘にたどり着くかを理解するためには、たしかに言語は役立つ。しかし逆に言えば、その本質は、言語化不能である神秘を「実感」もしくは「体験」することにあるといえる。それなのになまじっか言語による論理を知識として入れてしまうと、まるきり反対の方向へ進むことになってしまうのである。鈴木大拙の「日本的霊性」の中で悟達人として取り上げられた「才市」という人物には、殆ど語彙というものがなかったではないか。


  だから宗教の本質は語ることになく、ただ行為のみにある。坐禅を組むのも、敵に愛を施すのも、行をするのも、禁欲するのも、全て行為である。自らの我、すなわち意志を否定するためには、言語ではダメなのだ。もし言語でいいのであれば、天啓を待つ必要がない。親鸞のいう「他力本願」も必要ない。それは自らの能動的な理解によって即座に得られるてしまうだろう。だがそれは実際には、理解でなく、体験として訪れるものである。だから祈ったり瞑想したりして、その時を待つのである。


  しかしながら、僕がこのようにして説明をしていることすらも言語である。だから僕は真理や神秘から離れていることになるのかもしれない。そもそも僕の脳は、そういう状態を変えられるのだろうか。考えを止めることが出来るのだろうか。ここで筆を置き、以後何事も言及しなければ良いとでも言うのだろうか。


  言語で語り得ないものは理解出来ない。思考は言語で出来ているのだ。だから、理解できないゆえに体験して貰おうと修行する。なるほど!では僕は、その修行をやり抜く立脚点を、理解し得ないものに託すというのだろうか?それが成功すると信じられるだろうか。


  意思が否定されて、無我の境地に達した悟達人でも生物学的には生きている。「才市」もひたすら念仏を唱え続けて生きた。だが彼らの心は無である。精神の活動が止まっている。その意味では限りなく死んでいる。つまり悟達人は、その心身に生と死が両立している。彼らは自らの生に興味が無くなっている。同時に死に対しても興味を失っている。生や死はこの世界の出来事であり、もはやこの世界から解脱した彼らにとって、それらは完全にどうでもいいことになっている。死のうが生きまいがどうでも良いから、そのまま釈迦のように教えを説いて回る者もあれば、即身仏になって死ぬ者もいる。


  僕は生に執着しているだろうか。しているだろう。それはまだ僕の心身がこの文章を書いていることによって示されている。この生に関心がなければ、このような文章を綴る必要はない。では僕は死に執着しているだろうか。しているだろう。僕の脳はおそらくこれからも常に苦悩にある。生も死も、どちらも同じくらい僕にとって重要なのだ。生にも死にも同じくらい執着しているが、そういう道で逝くことを願っている。


  己が精神は毎日生を願い、死を願う苛烈な地獄の中にある。そのような地獄を見るものは、自らの使命に目を向けることになる。「何のために生まれたのか」という疑問の中で生きるからだ。そして「何のために」という疑問が愚問であることを知る。生きている理由などない。いや、そんな崇高な理由は我々が認識できるものではない。


  例え大いなる意志が世界の外にあったとしても、それは我々に理解できるものではない。宇宙を構成している膨大な歯車の一つに過ぎない我々が、歯車自身で何のために動いているのかを知ることが出来るとでも思っているのだろうか?歯車が何のために動いているかを知っているのは、歯車ではなく、歯車を組み立てたものであるのは明確なことではないか。


  だが、ただ漫然と植物のように死ぬのであれば、それこそ植物で良かったのではないか。なぜ理性が本能を逆転しうるような人間として生まれたのか。何のために生まれたのかは分からないが、人間として生まれた以上、植物には出来ない何かしらの「使命」が、歯車として与えれていると考えている。


  プラトンはその傑作「国家」の中で、「正義とは何か」という問いに答えを見出した。それは「自分のことだけをして、余計なことに手出しをしないこと」というものであった。この真意は、実際に進められた哲学的対話を読まずして正確に理解することは不可能であるが、私はこの答えに「使命」との共通点をみる。「自らにできることをする」「自らの使命を果たす」あれこれ述べてきた内容が、そろそろ結論への道を開きつつある。


  人間として、僕のこの苦悩の身として、生まれてきた事には何らかの使命があると信じている。しかも僕は、仏教やキリスト教などの悟達人と違って、生や死に無関心な方向にはその歩みを進めていない。逆に、生にも死にも執着している。なればこそ、その使命を果たすために生を発火させ、死に赴くことを望むのは自然だ。生きがいと死にがいを同時に求めている。「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」の精神と合致するのではないか。


  余談だが、明治最大の思想家である吉田松陰は「生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。」という言葉を苦悩する高杉晋作へと残した。その吉田松陰は、玉木文之進という長州藩士の師匠の元、筆舌に尽くしがたい苛烈な武士道教育を受けて育てられた。ゆえにこの一節にもそれがありありと見えている。


END.