Kの思索(付録と補遺)

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習慣を作る 他〜 Kの思索(付録と補遺)vol.86〜

2019/7/13(土)

・もう1ヶ月半近く、家での1人飲みを止めている。付き合いの場では飲むが、1人では飲まない事にした。ある時ふと家に帰ると、ウィスキーのボトルが何本も空になって机に置いてあったのだ。また酒の缶も、業務用ゴミ袋に一杯になっている状態であった。

冷静な頭でこの光景を見ると、誰もがアル中だと言うだろう。僕にとって酒は暴走する思考をまどろませる良いツールだった。睡眠は浅いかもしれないが、少なくともアラームが鳴るまでは寝れていた。酒がなくなると当然眠れないし、体調も悪い。

だがこのように疲労する心身と暴走する思考との苦痛に、希死念慮を掛けてやる事で、逆説的ではあるが、苦痛を加速させる行為そのものに幸福を見出すことが出来るのではないか。


・私の思索癖のようなものが一体どこで形成されたかを考えるてみると、やはり幼少の親の教育である。

親は私に何か正論めいたことをいつも言っていた。子供の私は、一体なにを言われてるかもよく分からなかった。ただどうも「大人の世界の常識ではこうなっている」というようなことを言われていたようだった。

子供の私は、大人の常識の世界など知らないので、自分の頭で考えて「それはこういう理由でおかしいんじゃないの?」と否定することがあった。こうなると親は手がつけられなくなった。まるで10倍返しのマシンガンで、私を何か正論めいたことで怒鳴り続けた。

こうなると、あとは私が何を言ってもただ「屁理屈いうんじゃねぇ」と返ってくるだけだった。そして私は屁理屈とは何だろうと考える事になった。私は私なりに考えて、自分の意見を言ってるにも関わらず、「お前の理屈なんてものは屁のようなものだ」と言われている。そうなるとフツフツと込み上げてくるものがあった。「屁理屈をいうんじゃねぇ」というのは、私の本気で考えた意見を屁理屈とこき下ろす態度よりも善いことなのか?より良い意見なのか?

こうして私は、自らの意見を悉く抑圧され、議論においては特に一方的な状態におかれ、対話のない生活の中で育った。本当に正しい事は何か、つまり真理を否が応でも考えることになった。ただそれは、いつも既存のルールの悉くを疑い、そのルールによって楽をしている大多数から反抗を誘う人間として育っていくことを意味した。そしてその反抗がまた、更に自らの思索を呼び起こすことになるというスパイラルになった。

子供の意見というのは無知である。無知であるからこそ、大人からすればそんな子供の抱く疑問などとうに通過済みで、「正解」がすぐ頭に浮かんでしまう。そしてその正解で、子供をすばやく殴るのだ。


・こころの深層で善いと思っている癖に、何かそれを認めるのに照れくさい自分がいて、そんな自分を隠すために皮肉を通して褒めるくらいなら、口を閉じて黙っていた方がましだ。


・自らの思考が体系的に構築されている人間ほど、その体系を崩す事は容易ではないので、2人以上を相手にした柔軟な会話はし辛くなる。

彼らは常に自ら一人で対話して体系を固めていったのだ。だから彼らに一方的に喋らせる機会を持たせれば、自分の中にある体系を1~10まで説明すれば良いだけなので、もう彼らの口が止まる事はない。


・メルカリでユニクロのライダースが売れた。配送料と手数料で売値の4割くらい持っていかれるが、普通の古着屋で売るよりは全然返ってくる。

個人の商店化は、専業とまではいなくとも、生活のやりくりスキルとして必要な時代になってくる。もっとも、日本がそういうお金のない時代感をいやでも実感するフェーズに入ったということだ。

シェアリングエコノミーという文化は、お金のある国には発生しないだろう。お金のある国は、ただ自分たちが欲しいものを欲しいままに爆買いして所有するのだから。

しかしながら、メルカリでバンバン不要な物を売っていくとやはり所有というのが幻想だと確かめられるので、精神性が一段高められるという利点はある。全ては流転していく。ミニマリストといえばそれまでだが、出来る限り手ぶらの自分に満足するということを目指したい。

 

2019/7/14(日)

・朝から縄跳びをする。縄跳びは実はランニングよりもカロリー消費効率が良い(もちろん運動強度にもよるが)。もっとも優れているのは水泳だが、それに匹敵するレベルである。水泳は、なにぶん泳げるところまで移動する手間やコストがあって実行しにくい。その点縄跳びは家の前でもできるし、コストもかからないのでオススメだ。


・結局、運動は非常に有効な時間の投資といえる。何事も体力がなければいけないのだし、血の巡りが良くなることで頭が冴える。運動をすると気分が快活になるので、運動をしなかった日よりもその日1日の幸福度が高まる。瞑想状態に入るのでアイデアも浮かびやすい。そしてそういう自分はいつどこでも24時間常に付いてくるのだから、これは負けることのない投資である。必ずその日のうちに報われる努力である。風呂と一緒で、やって後悔したり鬱々としたりする事はない。そこが勉強とは違うところだ。


・インド映画「きっとうまくいく」を友人と再度鑑賞。さすが、去年の個人的ベスト映画2位に挙げただけあって、素晴らしい内容と再確認。人生の問題に対して非常に広範で本質的な言及が3時間尽きる事なく描かれている。一緒に観た友人は購入を検討するほど感動したようだった。どちらがより考えているだろうか?

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・友人とエーペックスレジェンズをプレイ。既にレベルは100を超えているが、そのレベルとは思えないほどダメである。完全に才能がないと言っても良いのではないか。


・焼肉へ行く。焼肉では、ニンニクのオイル煮が必ず頼んでしまうほど好きだ。

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2019/7/15(月)

・人生は短いというが、そうではなく、多くの場合は人生を短くしようとしているのだ。ある先にある楽しみなことや、いつか自分に巡ってくる幸福を信じて、現在をやり過ごしていく。だから現在を捨て去るものとして生きることになる。だから人生が短くなる。

もし人生を長く、大切に営もうと思えば、それは現在をただ味わうように過ごすことでしかありえない。一瞬一瞬がこの人生の全てであって、逆に「この瞬間こそが人生だ」というようイベントのような出来事が人生そのものになることはない。


・日記的な営みは、人生をある区切りによって書き付けていく。どんなふうに時間を使ったか、どんなことを考えていたかが、ある区切りで浮き彫りになる。これは送ってきた現在の連続をよく見つめる行為だ。だから日々をより味わう訓練としてその効果を認める。この区切りは短ければ短いほど良い。


デスノートの新作がネームで全編公開されていたので読む。普通に面白い。

shonenjumpplus.com


・この世界は我々の認識形式において全てがあるようにあり、ゆえにこの世界で我々が想像しうる(可能な)事態は全て起こりうる。だがその全体は常に隠されている。

我々は、この世界の全体をいっぺんに認識することはできない。我々の認識形式は、想起という手順を踏むことで、少しづつ霧を晴らすようにしてこの世界を認める。何故そうなっているか、そもそもそれが説明できることかどうかは今の時点ではわたしには分からない。

だが、その意味で我々にとって「謎」は存在しない。我々にとって認識出来なかったり、考えることすら許されていないことは、謎ではなく、ただナンセンスということだ。


・昼飯のとんこつラーメン。替え玉3杯で限界だ。


・友人が高速道路の下りと上りを間違えて目的地と真逆へ爆走。まったく想定していないプチ旅行的な三連休の終わり。


・エーペックスレジェンズのサーバーが私と同じくらい弱い。私と同じくらいゲームにならない。

 

2019/7/16(火)

・出張移動。朝から学校のために移動する学生達でバス内は混んでいる。むかしほど、こういう移動中に単語帳を開いたりして勉強している学生がいなくなったような気がする。勉強ツールはスマホに移行しているのか?…いやみんな寝ているな。なりたい職業がYouTuberとか公務員とかの時代の学生達は、勉強のモチベーションを保つのが大変そうだ。


・出張先での場違い感を味わう。刺激的。


・昼飯は弁当。弁当はなんだかワクワクするから好きだ。というのもむかし、世にも奇妙な物語で「夜汽車の男」という作品があり、主演の大杉漣がひたすらに駅弁を食べるというだけの話なのだが、それがたまらなく面白かった。間違いなくその影響がある。今でも探せば見れるはずだ。

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・死後の世界がどんなものかわからないのであれば、どんなものかを自分で信仰する自由がある。そしてその信仰に際し、自分でそれを信仰するに足る合理的な説得として、哲学的な信仰背景を持てば良い。信仰とは、哲学的な信仰を背景にして強化されるのである。


・コンビニのイートインは、もっと広くなればちょっとした待合に向き、喫茶店代わりに使用されるようになるだろう。いや、もうされているか?

デザートもコーヒーも、そのレベルはもはやそこらの喫茶店を超え始めている。そして喫茶店自体はもうほとんど貴族の嗜みになっていく。もう一つ付け加えると、コンビニのイートインが目指す最終形は、薄利多売の外食産業である。これはコンビニの商品のレベルが高まってきた事によって初めて起きる、これまでにない事態だ。そうなると、薄利多売でやってきた居酒屋などは次々なくなっていく。つまるところ外食産業は、高級路線でしか通用しなくなっていく。


・世代間のギャップの中でも、とりわけ仕事の上で影響するのは「モチベーションのギャップ」である。

極端な例ならば、「あとは退職するまで逃げ切ることに全力を出す世代」と、「終身雇用もなくなり、年金も貰えない若者」では、働くことに対するモチベーションは全く異なる。出来る限り変化を避けて、日々金を貰って逃げきるまでの理不尽を耐え忍ぶ事を重視するか、何が起きても自分の力で生きていけるように、変化というリスクを取って自らのネームバリューを高めるか。まさに守りと攻めの対立である。

しかしこの10年をみても、どれだけ急速に世の中が変わったか。いわゆる昭和的な、日本的な企業がどれだけ世界に抜かれたか。そういう状況で現状維持に徹して、果たしてその先何年持つか、誰にわかるのだろうか?

古いしきたりを守りつづける企業は「年齢層の高い業種」としてどんどん浮き彫りになっていく。若い人が入ってこなくなるため、その予兆は明確であり、ある意味で分かりやすい。

もしそのまま、技術を引き継ぐ若手が入らず、高年齢層の人達が引退していなくなり、それでもなお社会に必要な業種だとすれば、もはや機械に置き換わらざるを得ない。反対に、そうでない業種は、生まれては消え、生まれては消えることになる。そのため人材の流動性と、職にありつけるネームバリュー格差の激しい状態になるだろう。


・縄跳びをする。汗をかく。そして温泉、サウナの黄金コースだ。サウナといえばタイナカサチの「サ道」は是非読んでほしい。サウナの本質は水風呂にあるのだ。「整った」というプチ流行語もこの漫画が発祥だ。7/23に待望の2巻が発売する。

 

2019/7/17(水)

・すこぶる動いて、温泉、サウナ、水風呂とやると、翌日身体が死ぬほどだるいのが欠点だが、その代わり筋肉痛も酷くなく、睡眠は恐ろしく深い。身体がだるいといっても、それはまだまだ虚弱ゆえのことだ。身体への負荷は、少しづつ慣れるまでかけつづければいずれ対応するものだ。

ところで古代ギリシャでは、赤ん坊を軽くマッサージしつつ育てて強靭な肉体を作ったそうだ。大人がマッサージされるにはお金がかかるので、サウナ→水風呂による血管圧縮マッサージ+水圧マッサージをすることで丈夫な身体になれるかもしれない。


・仕事をする。手順の大部分を誰にでも出来る仕組みにする必要がある。ただし、マニュアルを作ったところで、ノウハウは入れ込めない。逆にいうと、マニュアルに出来ない部分だけが本質的なノウハウである。

それ以外の部分は、最後にはルーチン化し、機械に置き換えることが可能である。つまり本質的ノウハウに携わる部分だけが、最後まで人を必要とする。では、ノウハウを仕組みに入れるにはどうすれば良いか?これは簡単な問題ではない。

 

2019/7/18(木)

・対話の際、自分の解釈で言語を変換されることを厭う人は多い。


・仕事をする。事務手続きの煩雑さは本来システムで解消されるはずだが、そこにアナログが入り込むことでブレーキがかかっている。電子システムが思うような業務効率化に繋がらなかったとしたら、その手順の中にどこかアナログな部分が残ってしまっているということだ。

例えば、まずは印鑑を全て電子にすることから始めたらどうだろう。そうでないと、電子データと同じ内容の書類を、紙でも保管しておく、というような事が起きるのだ。何故なら紙の方に印鑑が押されているからだ。


・平凡人が優秀な人に少しでも追いつくための方法論はもはや様々なところで語られているし、今更、わざわざ記述するのも躊躇われる(継続!継続!継続!)。継続し、それがいつか習慣となること。習慣の力は凄いものがある。それは株式の複利効果と同様の作用をもたらす。

毎日15分の運動をしたとする。それを1ヶ月継続すれば、7.5時間の運動となる。それを聞いてあなたは一か月で7.5時間運動しようと決意し、最初の一日で1時間縄跳びをする。次の日に、立てないほどの筋肉痛にあう。そしてその次の日も、そのまた次の日も筋肉痛は治らない。我々凡人はそうして億劫を乗り越えられないまま、一週間たつ。筋肉痛が治ったところでまた縄跳びをする。今度は45分しか出来ない。そしてまた筋肉痛のため運動が億劫である。また一週間経つ。さぁ、残り2週間なのに、あと6時間近く運動しなければならない!…

凡人は習慣もなくなにか大きなことを為すことが出来ない。ではどのように継続すればよいのか。習慣とは、苦にならないことというよりは、やらなければ気持ちが悪い事である。風呂や歯磨きは習慣だが、やらなければ気持ちが悪い。やらなければ気持ちが悪いことはつまり、やればそれなりに快適という事にならねばいけない。

だから例えば運動にせよ、勉強にせよ、気持ちがいい程度で止めなければならない。決してストイックに、まだ出来る!まだ出来る!と焦ってはいけない。そういう+方面の行動は常に、一度にやりすぎるとマイナスである。+方面の行動は、昨日もやった、今日もやった、明日もやった、その事実だけで気持ちがいいのであるから、それで十分なのである。ほんの些細な達成感を、時間をかけて莫大な量積む事…あぁ、気付けばそれはもはや習慣と呼んでいいものだ。そして1時間の運動すら苦にならなくなっている自分に気がつく。


・今日は○○時間も勉強した、運動した、という人の「実質的に費やした時間」をもし測ってみることができたなら、どんなに面白い結果になることか。彼らは費やした時間を目標にしているので、時間に集中をもっていかれ、内容に集中出来ない。我々はいつも、何を達成すべきか、どこまで達成すべきかを目標にして、時間がある時に寝る事にしよう。

 

2019/7/19(金)

・仕事をする。机上業務も今はまだ専門職的な技能が必要だ。ありがちなこととして、要領が改正されるたびに文面が継ぎ足される事によって、六法全書の構造のようになってしまう。こうなると、昔からの経緯を知っている人でないと難し過ぎて取り扱えない要領、もしくはどこに何が書いてあるのか分からない要領類が出来上がる。とはいえ、幾重にも絡まった糸のような要領類をガラッと変えることは容易ではない。業務は動き続けている。せっかく慣れた手順を大きく変えれば、あちこちで「この場合はどうなる?」という疑問が上がってくる。その質問対応表を作らなければならなくなる。予想だにしない解釈をして、とんでもない手順を踏む人も現れる。そのミスの処理をしなければならなくなる。このような次第とはいえ、人手不足で一人当たりの業務負担が増え、人材の流動性が上がったために長く業務を経験したベテランという人が減っている昨今においては、読み込むまでに膨大な時間が取られ、しかも扱うのが難しいというような要領は、その内容自体がどれだけ正しかろうと経営の観点からすれば悪である。どうすればよいか?システムにするしかない。製作者が狙った意図以外のことが出来ない机上業務システムを構築するしかない。


・地獄を見た人、今もそれをみ続けている人、そういう人しか哲学し続けることは出来ない。そもそも地獄を感じやすい人、誰もが地獄だと思う境遇にいる人、どちらでも構わないことだ。地獄を見ることで自らの生、存在に強烈に疑問を持つことから死を思い、そういうところから哲学徒の思索は始まる。ウィトゲンシュタインはこれらのことは語り得ないとしながらも、人間はこのような本来語り得ないところへ突撃していく性質があると指摘した。そしてその体系が倫理学であると定義した。

 

・天気の子を鑑賞。これはやばいものを見た。どうやばいのかは近々書こうと思う。