Kの思索(付録と補遺)

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新海誠監督の新作「天気の子」を語る!〜 Kの思索(付録と補遺)vol.87〜

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 空を写した画から、天気の子は始まる。この始まり方は「君の名は」と同じである。


 しかしながら、決定的に違うものがある。「君の名は」が美しい夜空からの始まりであったのに対し、天気の子は曇天だ。また天気の子の空を映したカメラは傾いてる。この時点で、この映画は「君の名は」とかなり違ったことを描いていこうとしている、そういう意志を読み取らねばならない。


 そして大雨である。そこには錆びつき、朽ち果てたビルがある。しかしその朽ち果てたビルから、緑鮮やかな植物が生えている。つまるところこの映画において雨は、人間の営みを朽ち果てさせるものとして、そしてさらに自然に回帰することの無情的美しさの象徴として描かれている。だから雨には精霊が宿り、その雨を降らす神的なものとして天が描かれるのだ。


 映画は次々と東京の姿を描いていく。ここでは「君の名は」で晴れ晴れと描いた東京とは全く異なる姿を見せている。キャッチ、メイド服、風俗的なアイコン、人の罵詈雑言といったようなめまぐるしいカオスと冷たさで構成された街に光のイメージはない。


 そしてまた「君の名は」と同じようにオープニング曲が流れ、主人公のめまぐるしい営みが描かれるものの、散らかった部屋、ゴミ捨て、トイレ掃除、そして納豆がこぼれる様子など、明らかに負をイメージさせる状況が次々と映し出される。


 しかしながら、流れている曲はアップテンポで楽しげだ。主人公も大変な営みではあるものの、それに不快を示している様子はない。お分かりの通り、これが今作のテーマである。一言で言えば「雨に唄えば」ということだ。


 私は以前「君の名は」において、新海誠新海誠自身を総括し、新海誠的である事を卒業したと評した。というのも、「星のこえ」では距離の断絶、「雲の向こう約束の場所」では記憶の断絶、「秒速五センチメートル」では時の断絶、「言の葉の庭」では年齢の断絶を通して男女の恋愛が描かれた。そして「君の名は」ではこれらの要素が全て描かれつつ、彼のこれまでの作品なら常にビターエンドだったラストを乗り越え、完全なるハッピーエンドとして着地させたのだ。ボーイ ブレイクアップ ガールだった新海誠作品が乗り越えられ、「君の名は」でようやくボーイミーツガールが成立したのである。


 上記した点を踏まえると、「天気の子」は「君の名は」を意識した作りにせざるを得ない。つまり、新海誠監督は今作の天気の子において、自らの何を変えよう、乗り越えようと意識したのだろうか、ということである。


 新海誠監督はこれまで、この世界をとにかく美しく描き続けた。彼の絵は現実の風景よりも美しい。ただでさえ美しい青空が、彼の手腕にかかると涙が出るほどの青空に変わった。空だけではない。世界の全てが美しく、ある意味ではこの世界の闇を無視したようでもあった。


 だが今作では劇中ほぼ全てが曇天である。晴れ間が見えるのは、ヒロインが祈るわずかの間だけである。そしてヒロインがもたらす晴れは、神的なものの気分である天気を身勝手に操作するものであり、「おこがましい行為」であることが確認される。晴れをもたらす身勝手な美しさには代償が伴う…このような重い視点は、これまでの作品にはなかった。これは終盤における主人公の行為がもたらす結果への、直接的なメッセージとなる。

 

 新海誠は、今作において曇天のような闇を、ダイレクトに迫力ある曇天として描くことを意識したのだった。つまり天気の子においては、これまで以上に現実的な世界の闇に、真っ向から向き合うことにしたのだった。スレた大人、警察、風俗のボーイなどが彼らの行く手を阻む。現実の大人は、子供にとって強大な存在である。


 これを打破する決定的な手段として拳銃が登場する。ファンタジーではない、リアルな拳銃は、主人公のやりたい事を通すための手段として用いられる。だがこれは人を殺しかねない決定的なまでの暴力である。ここまで現実的な暴力の描写はこれまでの新海誠作品ではなかった。


 主人公はこの拳銃を通してヒロインの危機を救うものの、彼のやっていることは客観的に見ると過ちである。ヒロインはそんな主人公の事を「最低!信じられない!気持ち悪い!」とさんざん罵る。しかし彼女は去り際に、憤りながらも、雨で濡れた主人公にタオルを押し付ける。こういうところでさりげなく、過ちである行為の全否定を避けているのだ。


 上記したことは本作の一本の大事な筋だ。客観的に過ちであることが、本人達にとって過ちであるかどうか。完全な過ちなどあるのか。クライマックスの逆さの祈り、かけられた片手の手錠、割れた形見の首輪などは不吉の暗示であるが、彼らはそれを選んだのだった。そして新海誠作品ではこれまでになかった破壊的なイメージで物語は幕を閉じる。


 新海誠言の葉の庭において、ヒロインを通して「みんなどこかおかしいんだから」という言及をするが、天気の子では「世界なんてどうせ狂っているんだから」と語られる。どうせ、という単語から伝えられるメッセージは、狂った世界で、狂って生きる人達への肯定である。しかし社会的観点からみたメッセージとしてはわがままであり青くささが拭えない。


 だが主人公が最後に見るヒロインの姿は祈りの姿であった。これが決定的なのである。逆さではなく、心から晴れを願う姿。ヒロインは、自分が存在することそのものを、祈りによって贖罪することになっていた。主人公はヒロインのこの姿を見て、自分が「過ちを犯した」ということを決定的に客観視させられることになる。世界が変わった姿よりも、ヒロインが祈る姿によって、より現実的に過ちをつきつけられたのだった。


 つまりこの物語は、彼ら二人だけが自分勝手に救われた話として着地するのではなく、少なくとも一方は贖罪をしており、そしてもう一方がそれをみて強烈な「過ち」の意識を背負っていく、そういう決着なのだ。そして彼はヒロインに「大丈夫だ」と声をかけ、物語は幕を閉じる。「大丈夫」という言葉は、恐れや不安に対する励ましに用いられるものである。


 エンディング曲の歌詞の中に「君を大丈夫にしたいんじゃない、君の大丈夫になりたい」というフレーズがある。新海誠作品は、映画という表現を通した詞である。言葉を司っている。だからかなりの頻度でナレーション的な独白が加わるし、歌も非常に多い。これの好き嫌いは別として、彼がその歌詞に重要なメッセージ、内面の描写を踏まえていることは否定できない。詩に解釈をつけるのは無粋なのでしないが、愛する人に罪の意識を背負わせた張本人だとしても、その全てが過ちではないのだから、「君の大丈夫になりたい」と彼もまたそばで祈りを捧げ続けることによって、贖罪していくことくらいは許されても良いだろう。


 このようなわけで、天気の子はその本質を眺めてみると非常に重いテーマを扱った映画である。だが実際に観に行った人は、そこまでこの映画に重苦しさを感じなかっただろう。それは新海監督が「君の名は」製作時における学び(ウジウジ暗くしては観客に嫌われるとチームメイトに励まされたこと)を存分に活かしていたからに他ならない。何より「雨に唄えば」なのだから、重苦しさの中にありつつも明るく活き活きとした営みを描くことが重要だったのだ。


 こういうことを理解した結果、初回鑑賞時においては10点満点中4点としていた「天気の子」は、再鑑賞において9点となった。初回の時点である程度の理解はあったのだが、独特の新海節が再鑑賞において許せるようになって、作品の深いところにおける見通しがよりクリアになったのだった。もし再々鑑賞したら、10点満点をつけるかもしれない。傑作である。