Kの思索(付録と補遺)

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言語で真理はみつけられるか 他〜Kの思索(付録と補遺)vol.92〜

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※画像は今回の記事の参考になった哲学者「パルメニデス」(左)と「ウィトゲンシュタイン」(右)。

 

2019/8/17(土)

【人の思索の歴史は繰り返される】

ソフィーの世界」を読了。14歳の少女ソフィーに、ある日「哲学の先生」があらわれて…というストーリー。

 

ノルウェイで生まれた世界的な大ベストセラーであるため、このブログの読者であればすでに読んだことがある人もいるかと思われるが、この僕自身はまだ読んでいなかったのだ。

 

さて、本書は14歳の少女に哲学を教えるという構成のため、その内容は至極わかりやすく書かれている。

 

ところで哲学の解説にとって、「わかりやすい」とはなにか?

 

それは具体例がたくさん示されていることである。なぜか。多くの哲学書がわかりにくいゆえんは、本質に迫ろうとするがために、その過程で、厳密で、しかも抽象的な言葉づかいをどうしても求められるからである。

 

かといって哲学者は、誰も理解できないことを書いているのだろうか?

 

いやそうではない。哲学のわかりやすい入門書はたくさん書かれており、多くの入門書で同じような解説がなされているという点からみてもわかるとおり、どの哲学者についても、のちの世の人々の手にかかれば、ざっくりと共通の説明をすることは可能なのだ。

 

そして、かつての哲学者が言いたかったことは時間を経るにつれてドンドン噛みくだかれ、簡単にまとめられることになる。

 

その結果、本質にフォーカスするためひたすら抽象的に語られていた哲学も、いつかは具体例をまじえて説明することが可能になるのだ。

 

話がすこしそれたが、「ソフィーの世界」は西洋哲学をたくさんの具体例をまじえて解説しているため、とてもわかりやすい。イメージがわいてくるということだ。

 

だがその解説内容がけっしてまちがっているとか、劣っていると言ったわけではない。

 

エッセンスがわかりやすく抽出されているのだ。

 

この本を読んでから、じっさいに哲学者のかいた原著にあたるのもよいだろうし、僕のようなすでにいくつかの原著を読んだことがある人が、哲学史の思想の流れを整理するガイドブックとして読んでもいいだろう。

 

思想はいつも似たような対立構造がくりかえされてきたことがわかるし、またそれでも少しずつアップデートされてきたのだ。

 

「万物は流転するのか、それとも変化しない真に一なるものがあるのか」という対立。それは形を変えて、「感覚が正しいか、理性が正しいか」という議論を生んだ。それが「経験主義と合理主義のどちらが正しいのか」という問いにすすめられた。

 

さらにそれが「実存主義的な個人の精神が優先されるべきか、それともロマン主義的な精神世界を推しすすめるべきか」という問いにカタチを変えた。

 

この本の最後が「宇宙の終わりかた」について語られて締めくくられるのにも、きちんとした作者の意図がある。

 

宇宙はビッグクランチをむかえるのか、それともビッグリップをむかえるのか。これはわれわれの存在と世界そのものを問うための大きな手がかりであり、また対立だからだ。

 

どちらになるかは、まだはっきりとはいえない(ただしこれは1991年時点の話だが)。

 

もしビッグクランチを迎えるならば、宇宙は始まりと終わりをくりかえしていることになる。いいかえれば、明確な始まりも終わりもない、円環のことわりである。

 

これは輪廻的な東洋の宗教感である。

 

ビッグリップならば、宇宙は一直線に終わりにむかっていることになる。これは審判の日がおとずれて歴史に幕がおりるという西洋の宗教感である。ここにも対立がある。

 

しかしこれは対立と表現するよりも、ヘーゲルのいうような「定言(テーゼ)」「反定言(アンチテーゼ)」と表現すべきだろう。どちらも少しずつまちがっていて、第三の答えがみつかって止揚(アップデート)されるかもしれないのだ。

 

2019/8/18(日)

ソクラテスが論駁される本】

図書館でプラトンの「パルメニデス」をひたすら読む。

 

ソクラテスがゼノンをいつも通り徹底的に論駁したかと思えば、こんどはソクラテスパルメニデスから徹底的に論駁されるのには驚いた。

 

プラトン作品は国家、ゴルギアス、メノン、饗宴、パイドンソクラテスの弁明などなど色々と読んできたけれども、こんなに押されてるソクラテスは初めてでおもしろい(これはまだソクラテスが青年であり、老パルメニデスが手ほどきをするという設定であるためだが)。

 

イデア論をより確固たるものとするために、こういう風に徹底的にやられるソクラテスを一度えがく必要があったのだろう。

 

論駁されたソクラテスは引き、続いてパルメニデスの対話相手となるのがアリストテレスであるという構成も、著者のプラトンの気持ちを考えると感慨ぶかい。

 

内容としては「一」は全体であり同時に部分であるとか、静止もしてないが動いてもいないとか、そもそも矛盾しているようなものについて真っ向から論理をぶつけて、それをなんとか解消する道はないかと探しあぐねる構成。

 

論理が循環しそうになると、その循環から逃れるための手段をまた探していく。

 

そのようなギリギリとした緊張のもとに問答がおこなわれていく。これまでのプラトン作品の中でも最もよんでいてクラクラする対話であるのは間違いない。ちなみに、かの現代の大哲学者ウィトゲンシュタインが、プラトン著作の中でもっとも深いと称したのがこのパルメニデスであった。

 

2019/8/19(月)

【思考は言語だろうか?】

人間の思考は言語でできているといわれるが、しかし私はそれは違うと考える。

 

むしろ言語が、人間の思考のあとを追いかけるのである。

 

というのも、人間はまず瞬間的に、ほぼ無時間で、自分のアウトプットしたいことを、一度に、いっぺんに脳に感覚する。この時点で、人間はみずからの「すべてを」思考しているのである。

 

まず「!(あえて言語化するなら「それ!」)」となるのである。

 

考えてもみてほしい。もし思考よりも言語が最初にあるなら、我々は「いつも」言い澱みなく、スラスラ(どころではなく早送りのビデオテープのようにキュルキュルと、いやさらにそれどころではなくほぼ瞬間にして)話すことができてしまうだろう。そしてそのあとになって、思考した!となるのはあまりにも不自然なことだ。

 

またそういうことが言語で行われることはありえないだろう。

 

なぜなら言語は時間的な配列だからである。というのは、すべての文字を無時間的に、すなわちいっぺんに把握することが出来ないことを考えてもわかる(もしそれができるなら我々は本を読むのに費やす時間をなくすことができるだろう)。

 

言語は時間的な配列を必要とするのである。

 

ほぼ無時間で、アウトプットしたい「内容の感覚」(これを以後、感覚的思考と呼ぶ)が脳にあらわれ、それが伝えられるように時間を媒介として言語化されていくのである。

 

もしその思考が明確に伝わるのであれば、それが音楽だったり鳴き声だったり波動だとしても良いだろう。言語というのは、ひもとけば空気の振動のバリエーションに意味づけをほどこしたものの組み合わせにすぎないのだから。

 

我々の脳内に瞬間的に発生した波動(脳波)にたいして、さらに波動で「意味づけ変換」しているともいえよう。

 

極端にいえば、犬は自分の感覚的思考のすべてをワン!の一言のニュアンスで全て伝えきっているかもしれないのだ。

 

さて注意していただきたいのは、言語化される前の思考は圧倒的に確かなものとして「在る」けれども、まだそれに「論理」はないのである。

 

すなわち、感覚的思考状態にあっては、それにまだ理性がともなっていないのだ。

 

そのため、感覚的思考のあとに理性が働きはじめ、論理を構築し、意味づけをおこなっていく作業が言語化であるともいえよう。たとえば、われわれは言語が狂っていたり、論理のないアートのようなものを見たとき、「意味不明」というだろう。

 

言語化されるまえの感覚的思考も同じである。

 

感覚的思考が発生したその瞬間、その時点では、全く自分にとっても意味不明なのである。しかし我々はそこで「言いたいことそのものすべて」が「その瞬間にそこに全てある」ことも予感するのである。

 

それをアウトプットする際に、語彙が少なかったり、理性が高機能に働かなければ、「うまくいえない」「なんていったらいいのか」「モヤモヤする」という風な状態におちいってしまうのだ。

 

もし逆に、語彙があり、理性が高機能に働けば、自らの感覚的思考を「自分の満足いくまで言語化する」だろう。そしてそれは自分にとっては限りなく100パーセントに近づいていく、それどころか完全なものになることもしばしばある(それでも他人にとっては全く意味不明なこともあるが…)。

 

私も上記してきた文章を書こうとする前に、じつは一種のひらめきのようなものが脳を直撃したのだ。

 

だがその直撃は全くもって意味不明であり、ただその手がかりだけは残そうと「言語化のまえの思考、言語の時間的な並列、波動、塊としての無時間的思考」という風なメモを取ったのだった。

 

これだけでは全く意味がわからないが、「それにはたしかに意味があるということが自分にはわかっている」のである。ただそれがまだ論理化されておらず、よって意味づけもされていないだけの話なのである。

 

私の文章を注意深く読んできた読者なら、上記してきた内容で、私のうちに一瞬にしてどんな感覚的思考が直撃したか理解してもらえることと思う。

 

2019/8/20(火)

・仕事をする。

 

2019/8/21(水)

・仕事をする。

 

2019/8/22(木)

【言語で真理はみつけられるか?】

言語は一種の記号である。

 

言語は、この世界で我々が思考しうるものすべてを記号化することができる。

 

言語があつかうのは、我々の目にありありと存在するようにみえる「物」でなくてもかまわない。たとえば現象によってみえる「性質」にすら、その名をあたえて記号化することができる。また現象にすらみえない思索の産物である神なども記号化される。

 

過去の哲学の歴史が、唯名論唯物論どちらが世界の真理かと議論しなければならなかったのは、そもそもそれを構築している言語そのものの性質のせいである。この世界にある物、もしくは概念に名をあたえて記号化でき、言語使用という体系の中において意思疎通が図れてしまう。この性質による一つのマヤカシにとらわれたのだ。

 

たとえば、われわれは食事を通して「【美味しい】という感覚の湧きおこり」が人間に共通して存在することを発見する。

 

そうすると、その共通認識に対して「美味しい」という記号を定義すると、生きる営みにおいて便利である。ただし、「美味しい」にも色々あるのに、それをひとくくりに「美味しい」としてしまうと、「自分が感じたあの湧き起こり」はすべて美味しいの一言で片付けられてしまうことになる。

 

ほんとうはもっとニュアンスがあるのだ。

 

そこで、生きる営みの中に発生するさまざまな共通認識を発見し、それらに次々と言語記号を定義していく。そうして言語はとても高い精度で人間の意思疎通を成立させる道具となっていった。

 

例えるなら言語は、レゴブロックの種類があまりにも様々あり、どんな形のものでも作れてしまうという万能性に似ている。

 

だが「レゴブロックそのものが何か」ということは、決してレゴブロックの組み合わせで説明できるシロモノではないのだ。我々はそのマヤカシに気づかず、レゴブロックの万能のくみあわせで、レゴブロックそのものを説明できるというマヤカシにとらわれ続けたのだ。

 

言語という記号の羅列をもちいれば、われわれの目にありありと存在するように見える物と、人間の思索によって生み出された神とを、ひとつ意思疎通のもとに使用することができる。

 

そしてそれがあまりに巧みな使用のもとで説得力をもてば、本来はレゴブロックで説明しえないものを、レゴブロックで説明したかのようにみせることも可能なのである。

 

だがそれは本来、生きる営みの道具、すなわち言語をつうじて自分と他者の脳内に同様のパルスを生じさせようとする試みとしてだけ意味をもつのである。そしてそれがうまくいった時に意思疎通が成功するのである。

 

そのパルスにこれ以上、何の意味があるのだろうか?

 

人間同士の意思疎通のもと生じるパルスと、犬同士の意思疎通のもと生じるパルスが異なるとすれば(また犬と人間のパルスに共通する部分があったとしても、その解像度が種の間で異なるのだとすれば)「この世界がなんなのか」という問い対して、人間のパルスがなんの意味をもつというのだろうか。

 

けっきょく、人間は人間の理解できる範囲のもとでしか、理解できないということになろう。

 

ただし人間の言語という記号はあまりに他の動物とくらべて複雑で柔軟で高度なものであるため、この世界をより優位に把握し、生きる営みをより優位に行うことができたのであった。

 

しかしあくまで優位なだけであって、人間の言語も「神の言語」ではない。

 

とはいえ真実は美しいとか、真実は神であるとか、善は清らかであるとか、概念を概念で語っても人間同士は意味が通じるし、意味が通じれば説得力を持たせることも不可能ではない。

 

それにより宗教を論理的に構築することもできた。

 

同時に「1は悲しい」ということがナンセンスであるとも判断出来るため、言語はかぎりなく機能性が高いものだ。

 

ただしこれについてもわれわれは、1をなにか具象化し思い浮かべるなどして、悲しませることが可能なのである。事実われわれは、その様子を思い浮かべることはできる。この辺りから言語の使用に混乱が生じてくる。

 

いくつかためしてみよう。

 

「1は全体である」はどうだろうか?また「1は有である」はどうだろうか?このあたりの記号の組み合わせになってくると、われわれはマヤカシの中に足をとらわれていくのである。

 

それに答えをだしたくなるために、われわれは「何のもとに」全体というのか、有であるというのか、と問いたくなるだろう。

 

しかしそれが「何のもとに」であれば、満足するというのだろうか?

 

たとえば「物体として1は有であるか?」と問えばそれでよいだろうか。それならば答えは否だ!と君はいうだろうか。

 

だが「物体として1」とは、この場合何を指すのかが不明ではないか?そう聞かれれば、またさらに厳密さをもたせるために言語を重ねたくなるだろう。「現存する物体として1」と進めたくなるかもしれない。

 

では「現存する」とは何か?うんぬん。

 

記号の意味を記号で問いつづけたところで、いつかは循環してしまい、「ものそのもの」に至ることはあるまい。記号はただそこにあるが、ものそのものは、記号では測りきれない。

 

それなのに言語を重ねようとするのは、まさにバベルの塔をより高く、より高くへと建てようとする行為にも似ている。ジェンガを積み重ねていく行為といえばさらにわかりやすいだろうか。言語を重ねれば重ねるほどに、神に近づくようにみえて、いつかはその言語の積みかさねがバランスを崩し、混乱の中でまるごと崩壊する。

 

われわれにとっての言語使用とは、文章に意味を持たせるため正しく使用するように要求すること、いわんや生きる営みをより優位にするという目的を果たすための道具なのである。

 

言語においては、その使用の中で互いに認識をあわせ、意思疎通が生じるかどうかだけが実際的な問題なのだ。

 

それでもなお、「われわれはどのようにして意思疎通をはかるのか?」と問うなら、「いまこのようにして!」と答えるほかあるまい。

 

その際、脳に発生したパルスを感じよ。

 

われわれは言語を、言語の目的以上に使用している。言語はただそこにあるだけなのに。ならば言語のおおもとであるこの世界こそいっそう、ただありのままでそこにあるだろう。

 

世界がある。世界がある。世界がある。

 

2019/8/23(金)

・仕事をする。