Kの思索(付録と補遺)

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前線という現場・現実に飛び込まずにペラペラ語る思想家を「夢想家だなぁ」と思って眺めている話など〜Kの思索(付録と補遺)vol.107〜

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【前線という現場・現実に飛び込まずにペラペラ語る思想家を「夢想家だなぁ」と思って眺めている】

 

自分が思想力のある人間だと自覚するものが、最も注意しなければならないのは、世界を最初から思想で完結させる事だ。

 

つまり前線にもいかず、机上で、勝手に、最もらしい前提から出発して、思想だけで答えを出す事だ。

 

というのも、彼の考えるその「最もらしい前提」と、それから積み重ねられる「合理的思想」は、前線や現場に至った時にほぼ間違いなく崩壊する。

 

何故か。

 

前線や現場では、常に合理ではどうしようもないことが起きているからである。

 

結局のところ、もし自分の世界をどうこうしようと思えば、この合理ではどうしようもない部分を破壊する必要がある。

 

理想主義的な思想家は、この場合「合理的に考えれば絶対私が正しいのに…みんな間違ってる」と言って、ありもしない自分だけの思想世界に閉じこもる。

 

これが最も危険なのだ。

 

現実と理想の主義をバランスよく合わせた思想力とは、そういう合理ではどうしようもないところの打開策を得るために、自分に対する確固たる信念や使命を構築するために使われる。

 

いずれ合理でなんとかなる問題まで至るが、その時はもはや自分でなくても解決できるほど単純なものに分解されている。

 

一般原則として、まず得たい成果物を見極めよ。その時、自らに全く情報がないのならば、思想からスタートしてはいけない。まず足を動かして前線に出向くべきである。

 

そこから情報を得て、手を動かし、再構築してみる。そこから何が見えてくるかということで、最後に頭を使う。

 

足→手→頭である。

 

余談だが、ジークンドーで最も重要なのはフットワーク、すなわち足である。

 

その足で地面を蹴った波が全体重を乗せた状態で手に伝わって、フェンシングの突きのように飛び出す。これがストレートリードである。

 

この時まで考えてはいけない。その時間が隙になるからだ。

 

故にブルースリーは「Don't think! Feel.」と教える。

 

もちろん相手がどう立ち回ってくるかは理知的に考えなければならないが、あくまでも感応力が最優先である。

 

その点だけみれば、ジークンドーの教えも足→手→頭である。

 

ただジークンドーの本質は、最終的には無形であらねばならない。ただ一つの有形例では、例外に対応できなくなるからだ。

 

その点、上記は一つの有形例にすぎない。戦闘は無数の例外、奇策、虚と実が錯綜したカオス系である。

 

ジークンドーだけに限らず武術家は、カオス系に処するための有形を、あらゆる有形が昇華して無形となった本質の中から取り出す。

 

余談がすぎた。

 

合理でなんとかならない部分を解決した人間は、他者から見ると、実際何をしたのかがよく分からない。いつのまにか事態・方針が変わっており、魔術のように見える。だから「あいつはうまくやった」としか映らない。

 

何故か。

 

彼が動かしたのは物的なものではなく、他者の行動だからである。

 

さらに思想家的な抽象度を上げた述べ方をすれば、この「合理ではどうにもならない」というのは計算に入れるパラメーターが多すぎるということである。

 

前線では多量の不確かな情報、人間関係、政治的圧力が錯綜して、あたかもカオス系のようになっており、このような状態において一般解は存在しない。

 

【学校の勉強が役に立たないと言われるのは、それが貴族の教養にしかなってないから、などと考える】

学校の勉強を抽象的概念に昇華して述べれば、ある基礎的な情報を、与えられた制約条件の中でこねくり回し、別の問題に対して応用しながら適用する能力構築である。

 

これだけ聞けば、仕事にも適用出来る感じがするが、しかしやはり学校の勉強と仕事は全く違う。

 

仕事の場合は机上で完結できないし、他者という要素が多分に関与するからだ。

 

確信を深めつつあるのは、やはり学校の勉強は「識者」に至るためのもので、しかしそれは専門家という意味ではなく、ある一種の貴族の教養主義的な意味であるという事だ。

 

貴族社会で完結しているなら、お互いの力量が教養で試されるために役立つが、戦場に放り出された貴族は教養で相手を倒せない。

 

仕事においては、「余人をもって代え難い」という人物が最も金を稼ぐ。

 

そのためにはドラッカーも言う通り、自らの強みを知り、それをひたすら伸ばす機会を見つけて実行するのみだ。

 

学校教養が高いというのはベンチマークであって、それだけである。

 

君の強みも現れない。

得意な科目があるだけだ。

 

【本や長文を読む時に目が滑って内容が全然頭に入ってこない人はだいたい受動的すぎている。能動的になるやり方を書く。あと速読には意味がない。】

 

本や長文を読めない人へのアドバイス

とにかくその内容を読みながら「要約」していくと良い。なぜか。

 

要約ってのは「理解」してないとできないからだ。


本を読めない人や、速読をとかく重視する人ほど、ただ文字を「追ってる」だけで内容が全然自分の頭で咀嚼できてない。これだと実戦で使えない。


経営本を100冊速読で読んだ人より、例えば一冊ドラッカーを、自分の頭で咀嚼しながら、自分の環境ならどう当てはまるか、どう実戦適用するかを考えながら、真剣に読みきった人の方が絶対に強い。


せっかく本を読むなら、「本を読むこと」それ自体を目的にしないことだ。それができるのは活字中毒の人だけだ。


あくまでも本の「内容」を、自分の環境にどう実戦適用するかという、生存戦略としての道具として読むこと。あくまでビジネス書は。


結局のところ本を読むというのは、その作者の主張を理解し、「議論を試みる」ということである。


例えばビルゲイツの本の読み方は、ページの至る所に自分の意見や反論、疑問をメモ書きしまくるというものだが、これは上記の点で本質的である。


本は、ともすれば非常に受動的なもので、自分の頭を全く使わないようになるリスクを常に孕む。


いわゆる悪い意味での「多読家」が、実践家に論破されることが多いのはこの為だ。一度も自分の頭で考えたことがないのだ。

 

偉い先生の言うことは正しいと鵜呑みにしないためのビルゲイツ読書法である。

 

【有能とか無能とかを安易に語る人は、自分の努力だけで人生の全部のことが成されていると思っていて若いなぁと思う話。恐らく老練な人ほど運を味わい深く識る。】

 

有能とか無能とかいうことで全人的な評価を決めるというのは、神への叛逆(といえるほど愚かな思想)である。

 

史家はあらゆる人生を見て、その成果が多分に運や天啓と呼ばれるものへ絡みついていることを知る。

 

上記のことで人を判断することが、いかに視野狭窄かつ浅い思考であるか良く分かっている。

 

どんな大きな成果を出した有能と呼ばれる人間であれ、死ぬときにはただの風景として自然に還っていく。

 

これは、逆に無能と呼ばれ、しかしながらその人生は自然とともにあった人間と相違がない。

 

人間というものを一つの、神の創作物である自然という風景であると見た時に、彼らには全く優劣がない。

 

また歴史の方向性も、常に塞翁が馬であり、偉人とされる人物の行為は、必ず善でもあり悪でもあった。

 

ここにおいても人間的な優劣は消え、ただ歴史の変化としての原因と結果があるだけになる。

 

そういう面においても、どんな人間であれ、歴史の流れという自然と同一でしかない。

 

【よく哲学がなんの役にたつのと聞かれるが、勘違いして欲しくない。哲学者が残した思想が役にたつわけじゃない。彼らの哲学的思考プロセスを見て、それをお手本にして、ありとあらゆる問題を作り、解決し、周囲の人になるほどという驚きをもたらせ】

 

現実的な哲学とは、絡まった糸を目撃し、その糸を解くことにある。絡まった糸の存在そのものを疑うことではない。

 

絡まった糸を目撃し、それをありありと実感しているのに、言語の操作でそれを消そうと努力するのは現実的な哲学でない。

 

絡まった糸が存在すること自体の解決は神秘に属する。

 

哲学が哲学自身を哲学し、哲学がなし得る仕事およびその限界を発見することは、正に哲学の仕事である。

 

また哲学が成し得ない仕事が神秘の解明であることを発見するのもまた、哲学の仕事である。これが絡まった糸を解くということである。哲学の実践は本来このように成される。

 

現実には至る所に絡まった糸が散乱している。(課題とか目的とか謎とかのありとあらゆるもの)

 

哲学の仕事のやり方を知らない人には、それはただ絡まったままに、力任せに解こうと引っ張られている。

 

これを言語により明晰に解きほぐすことで「なるほど」という驚きをもたらす使用が哲学の仕事である。

 

【様々な哲学の型を学び、一つ一つの有形を知り、それらが組み合わされて昇華され、彼自身の無形の哲学を得る。しかしその無形は、無形であるというただその一つにおいて有形であり、確立している】

 

無形の哲学を体得した者は、それを考える必要がないから、出てくる言葉のひとつひとつが自然であり、淀みがなく、筋が通っている。

 

彼は存在自体が無形の哲学の形態であるため、無理に教えようとしなくても、ただそこにいて、彼の思うまま何事かを語らせるだけで、人が彼から自然と学んでしまう。

 

 

【何を伝えるべきかを考えていない人、自分の話を凝縮して伝えようという心がけがない人は話が長くなる】

自分の知っていることを一から全て説明しようとすれば、時間がいくらあっても足りないし、聞く方は捉えどころが無い。


だからそれを分かってる人は、彼の持つ広大な知識を、できるだけ「1にして吐き出す」ような話し方をする。

 

故にそれは簡潔でありながら真を捉え、早口でなくても密度があるのだ。