Kの思索(付録と補遺)

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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||をテーマ的側面から解説~ Kの思索(付録と補遺)vol.113~

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エヴァという、25年も続いてきた壮大なシリーズの完結編について述べるために、私は今、何から書けばいいのか分からないでいる。


小説家のヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。


そういうぐあいに、話をすすめよう。


エヴァという作品は、90年代当時の時代背景を知らずに語ることはできない。


当時は、バブル崩壊後による経済の不安定、阪神淡路大震災オウム真理教事件もあり、社会不安が広がっていた。


これからの破滅的な世界の想像と、エヴァの作風は、あまりにも合いすぎた。


90年代には「アダルトチルドレン」という言葉も流行した。これは文字通り、いつまでも子供のままでいる大人のことだ。


なお、ここでいう「子供のまま」とはどういう状態を指すのか、その具体的な理解が非常に重要なのだが、それは後述していく文章からだんだんと掴めてくると思う。


さてエヴァとは何かを説明するためには、このアダルトチルドレンというワードを避けることが出来ない。


アダルトチルドレンの最たる象徴が主人公であるシンジである。


「14歳は子供だろ」という人もいるかもしれないが、一方で大人にも差し掛かろうとしている時期である。こういう微妙な年齢を描く必要があった。


つまりシンジという少年が、子供から大人に成長するためにーーすなわちアダルトチルドレンにならないためにーー最も重要な思想的転換は何か?ということを描かなければならなかったのである。


なぜか?


エヴァという作品は、明らかに当時の時代背景を意識して作られており、そういう社会的テーマを持った作品が、社会に一表現として打ち出される以上、そのテーマ性を強く訴えることで、社会問題に対する新しい気付きを鑑賞者へもたらさなければならないからである。


さてそれはいい。


問題は、実際にどうだったか、ということである。


結論から言えば、エヴァは社会現象にまでなったが、結果としては、アダルトチルドレンを増やす毒になってしまった。


これは監督である庵野秀明の大失敗であったと言える。


彼の当時のメンタルが、経営を巡る政治劇で病んでいたこともあり、表現がそういう方向に歪んでしまったのである。


TVシリーズ最終回では、全ての伏線の回収を放り投げて精神世界のみを描き、「僕はここにいていいんだ」(=「所在感の獲得」)という、アダルトチルドレンを脱するための思想的根幹だけを鑑賞者へぶん投げて、作品を終わらせた。


当然、多くの鑑賞者がそんなことを理解できるわけもなく、何が「おめでとう」なのか全く真意を理解できず、賛否両論が飛び交いーー主に「ちゃんと作品を完結させろ!」という否がメインだったがーー結局、庵野監督は旧劇場版を作らざるを得なくなった。


その結果としての旧劇、「Air/まごころを、君へ」も、テーマの描き方が歪みまくっていた。いや、伝え方が悪すぎたと言った方が正確だろう。


旧劇に関しては、「何がどうなってそうなったか」という、よくある考察病を、いちど、一切やめて観ていただきたい。そうしたほうが、庵野監督が伝えたかったテーマが霧が晴れるように純粋な形で浮かび上がってきて、捉えやすいのだ。


人類補完計画というアニメの中だけのフィクション、すなわち「人が人の形を失って一つになれば、余計な争いは起きず、辛いこともなく、幸せ」という形而上的にしかあり得ないフィクションを、シンジは明確に否定している。


つまり人間が人間の形のままで、辛いことも含めて生きていく、そのなかで起きる幸せも本当で、リアルだと気付く。現実なのである。


だから自らは自らの形を失わせない。ここにいるという所在を誇示していく。それゆえ他者とぶつかることもあるだろう。シンジの母であるユイは「それでもいいの?」と聞くが、シンジの決意は揺らがない。


そして人の形に戻ったシンジは浜辺に放り出され、アスカの首を絞める(ここからの余計な考察はするな!)


だがアスカはシンジの頬に優しく触れ、その思わぬ行為にシンジは号泣し、直後に一転、アスカから一言「気持ち悪い」と言われ、終劇する。


ここで「どういう感情の機微が起きているか」という考察に陥ることこそ、この作品のもつ毒なのである。このことに関しては少し先で後述する。


要するに、人間と人間が関わる以上、そういう複雑な機微が目まぐるしく絡み合う世界なのであり、シンジがそういう世界を選んだということだけが理解できれば良い。


以上を総括すれば、旧劇のメッセージは「虚構にすがる子供のままではなく、現実に生きる大人になれ」ということに尽きるのである。


だが、結果は逆になった。毒が蔓延した。


社会現象になったエヴァは、「シンジはなぜアスカの首を絞めたのか」「アスカの最後の一言はどういう意図か」「人類補完計画の発動条件は何か」「キリスト教的にはどう解釈できるか」等等という、考察病を発症して虚構へのめり込む大人を大量生産した。

 

そして同時に「人と人とは争う運命なので、関わらない方が幸せ」という、テーマと全く逆の受け取り方をしてしまう大人を量産した。


そういう虚構へのめり込んでしまう大人、現実に生きることの出来ない大人、すなわち悪い意味でのオタクを、アダルトチルドレンと呼ぶことは的確であろう。


念のため配慮しておくが、私は旧劇が作品として大好きである。何故なら上記のように、描こうとしている本来のテーマそのものは、非常に尊いからである。映画的な映像表現そのものも、ブッチギリの凄さであると思っている。


しかしながら、TVシリーズから旧劇までのエヴァという作品は、本来、アダルトチルドレンから脱するための思想的根幹をテーマに持った作品だったはずが、結果としてはその本来の意図とは逆に、アダルトチルドレンをさらに増産するキッカケとなってしまったのである。


以上の説明により、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマ的な解説が根こそぎ終わってしまっていることが分かるだろうか?もし分からなければ、もう一度、シンエヴァを観に行って欲しい。


くどくなるかもしれないが、一応述べておこう。

 

シンエヴァはつまるところ、上記してきたテーマの伝え方における過去の「失敗」を反省し、今度こそは正しく、本当にまっすぐ伝えるという試みに尽きている。


本当に、終始、それに尽きている。


その意味で、


シンジ以外のみんなは大人になっている必要があったし、


みんなが汗水垂らして働いている中でウジウジしているガキだけが取り残される必要があったし、


ウジウジしていても問題は解決せず、死にたくても腹が減るから食べることをえらばざるを得ないということを描かなければならなかったし、


あまりにチープな特撮的最終決戦や、線画から絵コンテにまで落ちていく描写を用いて、この作品がフィクションであることを訴える必要があったし、


シンジの成長は何かを明確にするために、わざわざカヲルの口から「イマジナリーの世界ではなくリアリティーの世界を選んでいたんだった」と発言させたし、


それらテーマの総括として、シンジがマリの手を引っ張っていくラストの俯瞰風景は、もはやアニメではなく、現実になっていたのである。


そしてこれらのことは、シンジだけでなく、エヴァに関連するほとんどの主要なキャラクターを通じて語られていく。


彼らアダルトチルドレンの決着がどのように付くのか、注目して観ていただきたい。


余談であるが、旧劇では人類補完計画の停止トリガーはシンジであった。シンジが本当の意味で大人になることで、すなわち現実を選ぶことで、停止した。


だがシン劇では、人類補完計画の停止トリガーはゲンドウである。ゲンドウが大人になるのである。


旧劇では、その愚かさーーいつまでも死んだ妻を追いかけ、子供に向き合わないガキーーゆえに、ユイに頭を喰われて死ぬことになる男だが、今作における彼のラストは美しい。


ゆえに「そうか、ここにいたのか、ユイ」とゲンドウが気付くシーンこそ、本作で私が最も尊いと思う瞬間であった。

 

我々も、この作品に別れを告げ、そろそろ現実へと行かねばならない。

 

しっかりと働き、時に人とぶつかり、1日の終わりには風呂に入って飯を食い、縁があれば恋愛し、子供を育て、そうやって、ただ生きるために日々を生きていく。辛苦だらけの現実に、時に迷いながらも向き合って生きていく。それが大人になるということである。

 

エヴァという作品から、本当の意味で別れを告げてこそ、この作品を本当に理解したということになるのである。