Kの思索(付録と補遺)

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e-スポーツにランダム性は必要か?~ Kの思索(付録と補遺)vol.120~

eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?という問題について考える。

スマブラで例えるなら、会場は終点じゃなきゃダメだし、アイテムドロップもOFF。

マリカーで例えるならアイテム無し、ステージギミック無しってことだ。

(もちろんこれは極端な例であって、正確にニュアンスを伝えられてないかもしれない。)

それで観客が楽しいか?と聞かれれば、今の時点では良く分からない。それをこれから考えていく。

ランダム性が減れば、混乱が抑えられて予想外が起きにくくなるだろう。問題は、e-スポーツにおいてそのような予想外の混乱が必要かどうか、観客を楽しませる要素に繋がるかどうか、ということである。

この問題を整理するために、分析するべきものは何か?そしてその関係性は何か?ということを捉えなければならない。

いま分析するべきものは、「ゲーム」、そしてゲームに含まれる「スポーツ性」と「ランダム性」との相関関係である。

野球やサッカーというゲーム、すなわち一般的な競技スポーツには、ほとんどランダムな要素がない。

(地面にデコボコがあってイレギュラーバウンドがあったりするくらいか?)

それでも観客はあれだけ熱狂するわけだから、ランダム性の有無は、「スポーツ」的熱狂と相関関係がないことがわかる。

これと反対に、ランダム性が極端に高いゲームは、ギャンブルと呼ばれる。

ギャンブルは、多くの場合個人プレーであり、熱狂しているのは、金額を投じているプレイヤーその人だ。ギャンブルのランダム性の熱狂は、ひとまずプレイヤーに跳ね返る面白さと言える。

では、ギャンブルに熱狂する観客は、つきようがないのか?

いや、それは時に存在するだろう。例えば我々は「カイジ」を読んで熱狂することができる。

誰かが大博打をするというような時に、ギャンブルでも熱狂的な観客は存在しうる。

そのとき観客の熱狂は、プレイヤーの天運力に向いている。

すなわちギャンブルにおいては、天運だけがプレイヤーの「実力」である。

なるほど、ギャンブルにはスポーツ的要素がないのだ。スポーツと呼ばれるためには、何らかの身体活動を伴わなければならない。

すなわちスポーツと呼ばれるものにおいては、プレイヤーの身体性こそ、観客が見たいものなのである。

一方でギャンブルは、金さえかけられれば、あとは天運のみである。我々はカイジに熱狂するが、べつにカイジでなくても、別の誰かが同じ状況ならば、同じように熱狂することができるだろう。

これでひとまずは結論である。

まず第一。熱狂(面白さ)ということに対しては、ゲームとランダム性の間には相関関係がないこと。

言い換えると、ゲームという広い幅で捉えるならランダム性があっても面白いし、無くても面白い。どちらのことも起こりうるということ。

第二。ランダム性の高いゲームはギャンブルと呼ばれ、ギャンブル性の高いものでスポーツと呼ばれるものは見当たらないこと。

すなわちランダム性が高くなるほど、スポーツ性とは相性が悪くなるということ。

第三。上記の理由が、「何によって実力を測るか」という判断基準の違いに基づくこと。

すなわち、スポーツであればその「身体活動性」に実力が基づき、ギャンブルであればその「天運」に実力が基づくこと。

最初の話に戻ろう。

そもそもの問題は、「eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?」ということであった。

もしこの可否の判断基準を、観客が面白いと感じる方が正義というところに置くのであれば、我々が導いた帰結から判断できる。

すなわち「観客が面白いと感じるためには、e-スポーツの中で、何をプレイヤーの実力として見たいのか?」という問題を考えれば良い。

果たしてe-スポーツで、そのプレイヤーの天運を見たいという人がいるだろうか?

いないであろう。もし天運をみたいのであれば、身体性が関係なく、プレイヤーは誰でも良いことになる。

例えばエーペックスであれば、我々はaceuのキャラコンを見たいのであり、shivの押し引きの判断力を見たいのであり、TSMの連携力の高さを見たいのである。

彼らの身体性の高さを見たいのであり、決して彼らの天運を見たいわけではない。

よって、【観客が楽しいと感じることが正義であると前提した場合、eスポーツの競技シーンにおいては、ゲーム要素であるランダム性を全て排除するべきである】と結論される。

 

 

 

ゆたぼんの炎上を見てると、まず真っ先に思うのは、「自由意志は存在するか」ということである。

それはまぁいい。多くの人の関心はそっちじゃないだろう。

結論から言うと、態度が問題ということに尽きる。

つまり、「なんかムカつく」という感情から発して、そこに理屈をつけて自身を正当化しようとした人達を呼んでしまった。

ではなぜムカついたかというと、ゆたぼんに謙虚さが欠如しているからだ。

異端をやる人間は、その時に「一般」を下げる言い方をしてはいけない。

例えば受験競争において推薦合格した人間が、「一般入試なんてマジだるいっしょ笑」なんて言おうものなら、どういうことになるか容易に想像がつくだろう。

「推薦で合格するなんて入学してからが大変」とか、「本当の実力じゃない」とか言われて、大いに叩かれるだろう。

だがまぁ、YouTubeというコンテンツをやる以上、大衆の目を気にして謙虚にしてたら伸びないだろうから、「YouTuber道」をいく人生は大変だと思うのである。

ゆたぼんの話力、自分の考えを明瞭に伝える力は、中学生のそれではない。

将来は誰かを救うためその力を使う大人になって欲しいと祈っている。