Kの思索(付録と補遺)

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全てを味噌汁にぶちこめ~ Kの思索(付録と補遺)vol.118~

日本人は遥かな昔から、味噌汁と米と漬物を基本の食事の型として生きてきた。

全て自然から与えられたものだ。自然の業から生まれたものだ。だから飽きが来ない。

いっそ昔に戻り、全部を味噌汁にしようと割り切れば、冷蔵庫の中身が全て味噌汁の具に見えてくる。味噌汁に合わない食材なんて、ほとんどないからだ。

味噌汁の具の量は適当だ。

だから冷蔵庫の中にあるものが適当に消費できる。

これを作るために、アレコレをいくら買ってこないと…などと考える必要がない。

適当に買ってきて味噌汁にぶち込めば良い。

ダシ上手くとる必要すらない。具がたくさんあれば、それから十分なダシが出る。

あとは味噌を溶くだけで良い。塩や醤油と違って、味噌の味の調整し易さに驚くだろう。

これを意識することで、自炊革命が起きる。

 

 

 

ふだんは哲学書学術書、大長編の歴史小説などばかりを読んでる生活なので、たまにそれ以外の本を読むと、読み終わる速度の速さに驚く。

書店にならんでいる自己啓発本などは、もうどれを見ても1分から5分とかで読み終わってしまうから、最近は手にも取らない。

自然に起こる速読がある。それは、理解している部分を読み飛ばすことで起きる。

目次から大意がわかれば、それでもう読まないか、流し読みで何を言いたいか大体分かってしまうので、結果的に速読のようになっている。

たまに、気分でじっくり中身を見てみたりするが、やはり「こういうこと言うだろうな」ということを、そのまま言っている。

結局、自己啓発など、だいたいみんな同じことを言っている。言い方をアレコレと変えているだけなのだ。

故に、このようにして何百冊を読んだところで、なんの意味もない。実際に新しく得られている知識は殆どないからだ。

古典が凄いと思うのは、どれを読んでも上記のようにはならず、常に新鮮な発見が飛び込んでくることだ。

読むのに時間がかかるということは、それだけ自分にとって新しい情報量があることの証である。

時間をかけて読むだけの価値があるのだ。

哲学者のショーペンハウアーは、「良い本は、何度読んでも、読みすぎたということがない。最新の駄本を何百冊と読むよりも、古典的な良本一冊を繰り返し読め」と言っている。

 

 

 

ふとしたときに、自然とアレコレ考えてしまう。

それをただただ、何も考えずに綴っている。

考えていることを、考えずに綴っている。

意味ありげな内容も、ただ自然と書かれているだけ。

私が文字として画面に落ちているだけ。

本当は無意味かもしれない付録と補遺。

自炊したほうが美味い 等~ Kの思索(付録と補遺)vol.117~

親が作る飯が美味しかった、もしくは、基本的に毎日の食事は親が作っていた、という人は、外食にさほどの魅力を感じずに育つ傾向があるとみている。

だが反対に、多くの時間を冷食や出来合いやインスタントな食品で賄って育った人間は「外食より美味い自炊なんてありえない」という固定観念をもって育ちがちである(私がそうだった)。

だが、よくよく考えるとそんなことはない。

自炊でも、とくに基本的な家庭料理であれば、すでに歴史的な型が研究され尽くされてしまって、大きな差が生じる余地がほとんどない。

むしろ店を運営するコストを考えれば、選ぶ食材や調理法に制限をかけなければならないだけ、実は店側の方が不利であることが多い。

だが彼ら料理人はプロなので、そこを技術でカバーしているのである。

高級料理店などは、そこを度外視して「料理」(調理ではない)をするので、自炊では追いつきようがないこともある。

だが、特に安い外食チェーンなどと比べた場合は、自分で作った方が美味いということは、当然のこととして起きうる。

安い居酒屋も、酒を飲ませるために、味ではなく塩分量やうま味調味料を重視したりすることがある。

料理研究家土井善晴先生の「一汁一菜で良いという提案」という本に係るインタビューで、面白いことが述べられていた。

・客に見せる料理と、自分で食うための調理は違う

・例えば外食では、「うど」を酢につけたあと提供するが、その理由はただ「白くするため」であり、見た目を気にしなければそのままの方が美味しい

・お浸しというのは、本来はただ茹でるという調理法を指す。だがいつのまにか、ダシに浸されたものがお浸しという料理として認識された。

・あれはダシが美味いのである。それ自体は否定しないが、本来の、ただ茹でられただけの野菜が極めて美味しいという自炊感覚が無くなってきた。

・大根や生姜をすりおろす時も、外食ではだいたい見た目の綺麗さのために皮を剥いているが、本来はそのまますりおろす方が美味い。

「素材に委ねる」という料理感覚は、このように不要なものが削がれた禅的なものとして、本来の姿を見つめ直すプロセスに現れるのかもしれない。

 

 

 

「もったいないから、取っておく」ということそのものが「目的」になっている人は、

何がもったいないのか

とか、

何と比べてもったいないのか

とかには、一切関心がないことに注意しなければならない。

それは彼らにとって目的ではない。

繰り返すが、「ただ取っておくこと」そのことこそが目的になっている。

これはつまり、下記のようなことが起こることを意味する。すなわち、

賞味期限が例えば1年半切れてる物でも、それがたとえ食べることへの大きなリスクを孕んでいるとしても、勝手に捨てようとすると、怒りがわいてくる。

整頓してくれてありがとう、とはならないのである。

こういう思想は、私には全く理解できないことだ。

そしてまた、合理的かそうでないかは関係なしに、半ばその人の中での信仰になっているので、議論には決してならない。

お互いの信仰がぶつかり合うだけである。

よって、こういう人が「一定数必ずいる」ということだけを理解し、いかに「往なす」か、それのみに焦点を絞って対処したほうがよい。

 

 

 

言葉というのは本質的に空虚なのだから、せめて人を救うために使われるべきだ。

 

 

 

社会システムにはなぜか、常に社会へのアンチテーゼをいずれは取り込んでしまうという機能がある。

例えばストリートミュージシャンは、アンチテーゼの側面があったが、今では資本主義に取り込まれている。

ファッションデザイナーの山本耀司も似たようなことを述べている。

ヨウジヤマモトのアンチモードは、それがトレンドになってしまえば、もはやただのモードになってしまう。

しかしやりすぎてしまうと、今度はただの異常になってしまう。

そのギリギリの境界、すなわちアバンギャルドを常に探している。」

社会システムを活用しつつも、常にアンチテーゼの側に立つことを意識しなければ、確固たる自己を希薄にしてしまうだろう。

私はここにいる。社会の中の、誰でも良い誰かではない。

サービスは早く使ったほうが得だよ 等~ Kの思索(付録と補遺)vol.116~

自分が好意を抱く人の容姿にパターンがあるんじゃないかとパーツパーツを分析してみたら、実際にパターンがあって、遺伝子レベルで組み込まれた何かがあるんだろうなぁと思う。

顔は小さい丸顔。

目は猫目。

鼻は小さい。

唇は小さくて薄い。

身長は小さめ(150〜158)。

体型は多少の幼なさがあり、

脂肪と筋肉が適度にある。

肩は、小さいが、幅は広め。

その他各パーツが小さい。

髪型は黒のストレートが一番好ましいが、そこまで強いこだわりではない。

平均的にみんなこんなもんか。

さらにこの中で、特に共通して外せない特徴は、顔の形(丸くて小さい)であった。

首から下の身体的特徴や、顔のパーツがどうこうよりも、「顔の骨格が最優先である」というのは、このように分析しないと自分でも有意に分からなかった事実で面白い。

さらに分析してみる。

好きな人と自分の特徴は似るというので、比べてみる。

顔:×

目:×

鼻:△

唇:×

身長:△

体型:×

脂肪と筋肉:○

肩:△

その他各パーツ:△

髪型:?

似ているとすれば、○が多くなると思ったが、そうでもない。

よって私個人に対して今のところ述べられるのは、

・自分が好意を持つ人の特徴には、傾向が確実に存在している。

・ただしそれは、自分の容姿とは関係ない(似てるとも似てないとも言えない)

ということである。

私はこの結果から真に驚くべき発見をしたが、ここに記すには、カレーを作らなければならなすぎる。

 

 

 

実家に牛肉があったのでカレー作ろうと思って、足りない食材を買ってきて、牛肉の消費期限みたら1ヶ月も切れていた。

ビニール剥がしてよく見るとカビだらけ。

私の家族は「もったいない」という精神から、物をなかなか捨てない。

だが、それは本当に「もったいない」のか?

というわけで必要のない物をさっさと捨てない不利益を書いていく。

「なんか最近胃がゆるいなぁ」となってた原因は、ステーキに使ってたタレの賞味期限が1年半切れてたことだった。

内臓が弱ければ食中毒になって医療費がかかっていただろう。

ブチギレつつ家の中の賞味期限切れてるやつ捨てまくったら9割の食材が無くなった上に、タバスコが3箱の重複、わさびチューブとしょうがチューブが2箱の重複。

しかもサーモスのタンブラーを発見。

「もったいない」で不要な物を抱えていることこそが、もったいない。

そういうことがよくわかる例だ。

 

 

 

アマゾンプライムでお得になった金額は、年額約14000円だと表示された。

こういうのは、上手い。

どういうことか。

例えば一個人で言えば、私はプライムに14000円/年を払ってもお得ということ。

そしてこれを利用者全体平均で取れば、将来的にはいくらまで値段をあげても良いかという指標となる。

そのことを予め消費者全体へ周知し、理解を促している。

ちなみにアメリカのアマプラ年会費は、約12000円である。

逆に、Amazonはそれまで投資を被っているのであり、すなわち消費者へ値段以上のサービスを、将来のために、与えているというわけである。

だから、今のうちにアマゾンプライムを利用している消費者は、いわゆる「先行利益」を受けていることになる。

新しいサービスというのは、この先行利益を受け易い。

このサービスの先行利益は、例えばLINE Payなどの電子マネーにもあったし、格安SIMもその例である。保険だってそうだ。

しかしLINE Payも格安SIMも、今となってはその先行利益がない。保険も、どんどんサービスは低下していく。

ただ、新しいサービスというものは、例えば情報セキュリティ上の整備が不十分だったりする。

何事もそうだが、利益には常に一定のリスクが潜むということも把握しておかなければならない。

日々、雑記したこと~ Kの思索(付録と補遺)vol.115~

焼肉は、油がないものほど、さっと焼いて食べたほうが良い。

厚くて脂の多い肉は、余熱を考慮して中に火を通す。また表面が少し焦げるくらいが、脂の重さに肉の香ばしさが負けない焼き加減になる。

最初から高級な肉を食べると、満足感が出過ぎてしまうから、最後の方で食べた方が良い。

 

 

 

組織のトップオブトップを目指す人、全員に課すべき最高の教育は、「論じず、人を動かしてみよ」という縛りを設けることだと思っている。

そもそも論破は、人の矜持をいたずらにを傷つけ、彼には絶対に従わないと決意させてしまうシロモノである。

また何かを論じ続けるうちは、大衆を行動にうつさせるような、爆発的な感情の動きを呼び起こすことはできない。

 

 

 

コミュニケーションが取れるか取れないかは、その人への興味があるか否かの影響が大きい。

人に興味があれば、それだけ色々と話すことも出てくるだろうが、自分にしか興味がなければ、人から何かを聞こうとは思わない。

止まらない自分語りの原因は、つまりこうである。

彼は他人に興味がなく、聞きたいこともなく、とはいえ他人を側にしながらずっと無言でいるのも居た堪れないので、自分のことを語るしか、場を保つ方法がないのだ。

 

 

 

車の走行距離が、2年で、一日2.7キロ平均であった。

これなら必要がない。自転車でいい。維持費ばかりがかかってしまう。

本当に必要がある時は、タクシーでもカーシェアでも頼めばいい。そちらの方が安上がりである。

こうして物が減っていく。

必要十分の最適化を進めるほど、他人から見るとミニマリストにしか見えなくなる。

 

 

 

歌は、人生をただの舞台とし、自らをただ数ある物語の一部にしてくれる。

歌は、人生の断片に慰めのある虚飾を彩り、現実から一歩引いた視座で自らを俯瞰させることができる。

 

 

 

もし株の保有銘柄を整理しなければならない時は、淡々と、一番うまくいってないものから切るのが良い。

間違っても成果が出ているものから売ってはいけない。

それがたとえ「予想以上の成果が出た」と感じるものでもだ。

更なる予想以上の成果が生まれないと、どうして分かるのか。

 

 

 

睡眠はそもそもフレキシブルなものであるという本能に立ち返って考えた方がよい。

すなわち、動物の睡眠時間は、「暇さ」に比例する。

能動的な作業では、眠気はほとんど襲ってこない。だから、能動的活動時間の長さで、睡眠時間が決まる。

その生理的理由は、逆にもしやることがないのに活動したら、ケガするリスクが高まるだけだからである。

安全確保とムダの低減のため、睡眠する。

逆に活動する必要があるのに睡眠してたら、野生の世界では死んでしまうので、よほどでない限り、眠気は去るように出来ている。

 

 

 

社会学者の宮台教授による講義。

「Aすると、Bという得がある、だからAする」=条件プログラム的行為。

この多くは、人間らしさを失って、入れ替え可能な自動機械=「クズ」となる。

対して「Aしたいから、Aする」=目的プログラム的行為。

これが損得勘定のない行為者=マトモと呼ばれる。

鬼滅の刃ではこのマトモが煉獄さんと紹介している。

では、「悪いことしたいから悪いことする」も、マトモになってしまうのか?もちろんそうではない。

損得勘定を考慮しないとは、基本的に自己犠牲の形を取る。

特に自らの命を他者のために放り投げる自己犠牲が生命体としての極地である。

上弦の鬼である猗窩座と、煉獄さんとのセリフのやりとりが象徴的である。

「鬼にならなければ死ぬ、それでいいのか?」

「価値基準が違う、鬼になるより死ぬほうが良い」

古代ギリシアで広がったこの目的プログラム的行為=倫理による絶対的命令は、その背景に暗黒の時代があったからである。

そこで彼らが学んだのは、「善人ほど早く死ぬ」し、「善行が報われるとは限らない」ということであった。

一方エジプトでは、ヤハウェ信仰が起こっていた。

その信仰では「世界がこのようにデタラメなのは、人間が神の言葉に従わないからだ」とし、聖典を学んだ。

これをギリシャ人は「アホか」と軽蔑した。

ギリシャ人に生まれた信仰は「善人ほど早く死ぬ、だからどうした?」という倫理だった。

 

 

ポンコツ記憶力な私の処世術~ Kの思索(付録と補遺)vol.114~

私は記憶力がダメである。友達に心配されるほど良くない。そんな私が日頃特に意識している処世術を紹介しよう。

 

①「あとでアレやらなきゃ」と思いついた瞬間に、スマホのリマインダー登録

 

記憶力はスマホに外注しまくる。


実際に行動をしなきゃならない時間帯にチリーン。


忘れようがない。

 

だがリマインダーしたものほど、チリーンが鳴るまでもなく、結構覚えてしまっている。

 

リマインダーすら面倒な人は、この方法ではダメだろう。

 

私は「すぐやる」が徹底して出来るタイプの人間なので、この方法が向いている。

 

あと常々疑問なのだが、Twitterなどで備忘録的に呟く人、あれは意味があるのだろうか?

 

ある程度フォローが多ければ、自分の呟きなんて速攻でタイムラインから流されるだろう。

 

また自分のタイムラインを直接何度も見に行くということもないだろう。

 

そうなると、備忘録的な呟きが、再度目に入ることはない訳だから、無意味な気がするのだが…。

 


②仕事のマニュアルは、日記的に作る。


ルーチン的な仕事をこなすには、マニュアルが必須である(私は一度で全く覚えられないから)。

 

一番効率がよく、負担のないマニュアルの作り方は、日記的に残していくことだと思うのだ。


すなわち、ある仕事に関して、やったことを毎日5W1Hのメモ書きに綴って残しておく。

 

本質を突けさえすれば、短文でよい。


すると、その仕事が終わる頃には、マニュアルが時系列で残されている。

 

時系列で残るので、大体そのタスクを終わらせるのにどれくらいの負荷が存在するかも分かる。

 

よって、のちの人が取り組むときの工程感の目安にもなる。

 


③計画は、基本的に立てない。


優先順位は、とにかく雑魚敵の処理からである。

 

RPGでもよくある奴だ。まず雑魚を倒さないと、邪魔されて、ボスまで攻撃が届かないことが多い。


とはいえ、雑魚敵を倒す計画を立てるのは、時間のムダだ。

 

なぜなら、雑魚敵なので、計画を立てるために費やすであろうその時間で処理できるからだ。


また、どうせ計画を立てても、想定外のぶち込みがあって根本から崩れることになる。

 

そういう経験を何度もしているので、目の前の今に集中して、処理しまくる方が、結果的に早いと確信したのだ。


④フォルダ管理は、野口悠紀雄著の「超整理法」で行う


ポンコツ記憶力の私は、どこのフォルダにしまったかを秒で忘れる。

 

それを探す時間が無駄すぎる。


そこで上記の古典的名著の方法を用いる。


シンプルながら、効果大すぎて人生変わるレベルなので、是非読んでみて欲しい。


仕事だけじゃなく、日常の記録保管という課題からも全解放されることだろう。


本質的には「忘れやすい」「うっかりしている」「ポンコツ」という特性に対して、


「そうなりようがない仕組みを創発する」、これに尽きる。


健常者から見ると「覚えりゃいいじゃん」なんだけど、覚えられないと言ってるでしょうが。


この方法を実施したら、結果として

ポンコツ含め万人がそれなりに動く組織の仕組みが構築されると思う。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||をテーマ的側面から解説~ Kの思索(付録と補遺)vol.113~

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エヴァという、25年も続いてきた壮大なシリーズの完結編について述べるために、私は今、何から書けばいいのか分からないでいる。


小説家のヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。


そういうぐあいに、話をすすめよう。


エヴァという作品は、90年代当時の時代背景を知らずに語ることはできない。


当時は、バブル崩壊後による経済の不安定、阪神淡路大震災オウム真理教事件もあり、社会不安が広がっていた。


これからの破滅的な世界の想像と、エヴァの作風は、あまりにも合いすぎた。


90年代には「アダルトチルドレン」という言葉も流行した。これは文字通り、いつまでも子供のままでいる大人のことだ。


なお、ここでいう「子供のまま」とはどういう状態を指すのか、その具体的な理解が非常に重要なのだが、それは後述していく文章からだんだんと掴めてくると思う。


さてエヴァとは何かを説明するためには、このアダルトチルドレンというワードを避けることが出来ない。


アダルトチルドレンの最たる象徴が主人公であるシンジである。


「14歳は子供だろ」という人もいるかもしれないが、一方で大人にも差し掛かろうとしている時期である。こういう微妙な年齢を描く必要があった。


つまりシンジという少年が、子供から大人に成長するためにーーすなわちアダルトチルドレンにならないためにーー最も重要な思想的転換は何か?ということを描かなければならなかったのである。


なぜか?


エヴァという作品は、明らかに当時の時代背景を意識して作られており、そういう社会的テーマを持った作品が、社会に一表現として打ち出される以上、そのテーマ性を強く訴えることで、社会問題に対する新しい気付きを鑑賞者へもたらさなければならないからである。


さてそれはいい。


問題は、実際にどうだったか、ということである。


結論から言えば、エヴァは社会現象にまでなったが、結果としては、アダルトチルドレンを増やす毒になってしまった。


これは監督である庵野秀明の大失敗であったと言える。


彼の当時のメンタルが、経営を巡る政治劇で病んでいたこともあり、表現がそういう方向に歪んでしまったのである。


TVシリーズ最終回では、全ての伏線の回収を放り投げて精神世界のみを描き、「僕はここにいていいんだ」(=「所在感の獲得」)という、アダルトチルドレンを脱するための思想的根幹だけを鑑賞者へぶん投げて、作品を終わらせた。


当然、多くの鑑賞者がそんなことを理解できるわけもなく、何が「おめでとう」なのか全く真意を理解できず、賛否両論が飛び交いーー主に「ちゃんと作品を完結させろ!」という否がメインだったがーー結局、庵野監督は旧劇場版を作らざるを得なくなった。


その結果としての旧劇、「Air/まごころを、君へ」も、テーマの描き方が歪みまくっていた。いや、伝え方が悪すぎたと言った方が正確だろう。


旧劇に関しては、「何がどうなってそうなったか」という、よくある考察病を、いちど、一切やめて観ていただきたい。そうしたほうが、庵野監督が伝えたかったテーマが霧が晴れるように純粋な形で浮かび上がってきて、捉えやすいのだ。


人類補完計画というアニメの中だけのフィクション、すなわち「人が人の形を失って一つになれば、余計な争いは起きず、辛いこともなく、幸せ」という形而上的にしかあり得ないフィクションを、シンジは明確に否定している。


つまり人間が人間の形のままで、辛いことも含めて生きていく、そのなかで起きる幸せも本当で、リアルだと気付く。現実なのである。


だから自らは自らの形を失わせない。ここにいるという所在を誇示していく。それゆえ他者とぶつかることもあるだろう。シンジの母であるユイは「それでもいいの?」と聞くが、シンジの決意は揺らがない。


そして人の形に戻ったシンジは浜辺に放り出され、アスカの首を絞める(ここからの余計な考察はするな!)


だがアスカはシンジの頬に優しく触れ、その思わぬ行為にシンジは号泣し、直後に一転、アスカから一言「気持ち悪い」と言われ、終劇する。


ここで「どういう感情の機微が起きているか」という考察に陥ることこそ、この作品のもつ毒なのである。このことに関しては少し先で後述する。


要するに、人間と人間が関わる以上、そういう複雑な機微が目まぐるしく絡み合う世界なのであり、シンジがそういう世界を選んだということだけが理解できれば良い。


以上を総括すれば、旧劇のメッセージは「虚構にすがる子供のままではなく、現実に生きる大人になれ」ということに尽きるのである。


だが、結果は逆になった。毒が蔓延した。


社会現象になったエヴァは、「シンジはなぜアスカの首を絞めたのか」「アスカの最後の一言はどういう意図か」「人類補完計画の発動条件は何か」「キリスト教的にはどう解釈できるか」等等という、考察病を発症して虚構へのめり込む大人を大量生産した。

 

そして同時に「人と人とは争う運命なので、関わらない方が幸せ」という、テーマと全く逆の受け取り方をしてしまう大人を量産した。


そういう虚構へのめり込んでしまう大人、現実に生きることの出来ない大人、すなわち悪い意味でのオタクを、アダルトチルドレンと呼ぶことは的確であろう。


念のため配慮しておくが、私は旧劇が作品として大好きである。何故なら上記のように、描こうとしている本来のテーマそのものは、非常に尊いからである。映画的な映像表現そのものも、ブッチギリの凄さであると思っている。


しかしながら、TVシリーズから旧劇までのエヴァという作品は、本来、アダルトチルドレンから脱するための思想的根幹をテーマに持った作品だったはずが、結果としてはその本来の意図とは逆に、アダルトチルドレンをさらに増産するキッカケとなってしまったのである。


以上の説明により、シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のテーマ的な解説が根こそぎ終わってしまっていることが分かるだろうか?もし分からなければ、もう一度、シンエヴァを観に行って欲しい。


くどくなるかもしれないが、一応述べておこう。

 

シンエヴァはつまるところ、上記してきたテーマの伝え方における過去の「失敗」を反省し、今度こそは正しく、本当にまっすぐ伝えるという試みに尽きている。


本当に、終始、それに尽きている。


その意味で、


シンジ以外のみんなは大人になっている必要があったし、


みんなが汗水垂らして働いている中でウジウジしているガキだけが取り残される必要があったし、


ウジウジしていても問題は解決せず、死にたくても腹が減るから食べることをえらばざるを得ないということを描かなければならなかったし、


あまりにチープな特撮的最終決戦や、線画から絵コンテにまで落ちていく描写を用いて、この作品がフィクションであることを訴える必要があったし、


シンジの成長は何かを明確にするために、わざわざカヲルの口から「イマジナリーの世界ではなくリアリティーの世界を選んでいたんだった」と発言させたし、


それらテーマの総括として、シンジがマリの手を引っ張っていくラストの俯瞰風景は、もはやアニメではなく、現実になっていたのである。


そしてこれらのことは、シンジだけでなく、エヴァに関連するほとんどの主要なキャラクターを通じて語られていく。


彼らアダルトチルドレンの決着がどのように付くのか、注目して観ていただきたい。


余談であるが、旧劇では人類補完計画の停止トリガーはシンジであった。シンジが本当の意味で大人になることで、すなわち現実を選ぶことで、停止した。


だがシン劇では、人類補完計画の停止トリガーはゲンドウである。ゲンドウが大人になるのである。


旧劇では、その愚かさーーいつまでも死んだ妻を追いかけ、子供に向き合わないガキーーゆえに、ユイに頭を喰われて死ぬことになる男だが、今作における彼のラストは美しい。


ゆえに「そうか、ここにいたのか、ユイ」とゲンドウが気付くシーンこそ、本作で私が最も尊いと思う瞬間であった。

 

我々も、この作品に別れを告げ、そろそろ現実へと行かねばならない。

 

しっかりと働き、時に人とぶつかり、1日の終わりには風呂に入って飯を食い、縁があれば恋愛し、子供を育て、そうやって、ただ生きるために日々を生きていく。辛苦だらけの現実に、時に迷いながらも向き合って生きていく。それが大人になるということである。

 

エヴァという作品から、本当の意味で別れを告げてこそ、この作品を本当に理解したということになるのである。

2020年個人的映画ランキング~ Kの思索(付録と補遺)vol.111~

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今年も年末の定例企画として、今年観た映画のベストを発表していこうと思う。なので、旧作も混じっている。


興味を持ったものは、正月休みのお供にでもして貰えれば幸いである。


ベストの前に、まずはワーストをひとつだけ発表する。


ワースト1

ミッドサマー

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【あらすじ】(Wikipediaより)

 

原題は、スウェーデン語で夏至祭(ミィドソンマル)を意味する。アメリカの大学生グループが、留学生の故郷のスウェーデン夏至祭へと招かれるが、のどかで魅力的に見えた村はキリスト教ではない古代北欧の異教を信仰するカルト的な共同体であることを知る。この村の夏至祭は普通の祝祭ではなく人身御供を求める儀式であり、白夜の明るさの中で、一行は村人たちによって追い詰められてゆく。


【感想】

文化というものに対して、大きな偏見と嫌悪を植え付ける可能性があるというこの一点において、極めて不愉快であった。

 

まさに宮崎駿のこの画像の気持ちであった。

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いいシーンをひとつだけあげるとするなら、最初の人身御供シーン。

 

動転する主人公達に、ホルガの村の人々が全身全霊で「これは私達の文化なの」と理解させようとする。この時点では、文化に対しての尊重を感じた。

 

だが彼らは映画が進行するにつれ、外部者に対して、「自らの文化のもとで正当ならば、外部者の意思に反する行為でも、好きにしていい」とする動機として、まさにこの文化を使いだす。ここからもう不愉快で仕方なかった。

 

自らの文化を尊重するならば、相手の文化も同様に尊重して然るべきである。

 

だがこの映画は、そういう事を全く考慮せず、ただ自らの文化こそ完全な正当であるとして、他の文化を踏みにじっている。これがすべての文化的断絶・争いの根源である。

 

まぁそれを表現したということなのかもしれないが、で?という感じであり、不愉快なものは不愉快である。最後の主人公の笑顔は、露悪こそ真実というような監督の偏見的で歪んだ思想が透けて見えるようで、鳥肌が立つほどに気持ちが悪い。


酷評したが、ワーストは人によってはベストになりうる映画であるとも思う。現にアフター6ジャンクションでは、リスナーランキング3位、宇多丸ランキングでは1位に位置する。

 

さてここからは、いよいよベスト5を発表していく。


5位

なぜ君は総理大臣になれないのか

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【あらすじ】(映画公式サイトより)


衆議院議員小川淳也(当選5期)、49歳。

2019年の国会で統計不正を質し、SNSで「統計王子」「こんな政治家がいたのか」と注目を集めた。

彼と初めて出会ったのは、2003年10月10日、衆議院解散の日。

当時32歳、民主党から初出馬する小川にカメラを向けた。「国民のためという思いなら誰にも負けない自信がある」と真っすぐに語る無私な姿勢に惹かれ、事あるごとに撮影をするようになる。地盤・看板・カバンなしで始めた選挙戦。

2005年に初当選し、2009年に政権交代を果たすと「日本の政治は変わります。自分たちが変えます」と小川は目を輝かせた。

現在『news23』のキャスターを務める星浩や、安倍政権寄りと評される政治ジャーナリスト・田﨑史郎ら、リベラル・保守双方の論客から“見どころのある若手政治家”と期待されていた。しかし・・


【感想】

政治活動における選挙戦に参加する事は、すなわち一つのスポーツ戦に近いことだと分かる映画。

タイトルにある通り、主人公はおそらく政治家に向いていない。

だが映画全体は悲観的なムードになる事なく、常にスポーツ戦を見るような熱を持っている。

最後の接戦はまさにそれである。

主人公は、思想としてはただ国を良くしたいという純粋な気持ちにも関わらず、様々な板挟みに合い、どちらに転んでも批判されるというような目に遭う。

そして、彼がどんな立場にあるか知りもしない投票者に、「軸がない」と冷徹な批判を受ける。

つまり政治家というものは「理想を実現するために板挟みを受け入れ、どんな批判でも受け続ける」という純な姿勢だと、構造的に、立身出世出来ないということが分かる。

だがそういう構造においても、同じ姿勢を貫き続ける主人公は信念があって良い。


4位

三島由紀夫vs東大全共闘

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【あらすじ】(映画.comより)

 

1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた作家・三島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子を軸に、三島の生き様を映したドキュメンタリー。1968年に大学の不正運営などに異を唱えた学生が団結し、全国的な盛り上がりを見せた学生運動。中でももっとも武闘派とうたわれた東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が、69年に行われた。文学者・三島由紀夫は警視庁の警護の申し出を断り、単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。伝説とも言われる「三島由紀夫 VS 東大全共闘」のフィルム原盤をリストアした映像を中心に当時の関係者や現代の識者たちの証言とともに構成し、討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。


【感想】

行為というものは、常に何らかの思想によって動機付けられている。よって他者の行為が異常に見える場合は、彼の思想がわからないということである。

その思想は、無意識の場合もある。

だが、彼の行為を他者に理解させよう、または認めさせようとする場合においては、その思想がどういうものであるのかを伝えるためのツールとして、言語化を要求される。

そして言語化された思想は、ときに理解者を増やすだろう。

「他者の思想を理解する」という事はすなわち、彼の思想が幾ばくかの変遷を受けたことを意味する。

思想が変遷したのだから、彼のこれからの行為も変わっていくだろう。

三島由紀夫がこの映画の中でいう「言霊」とは、そのようなものである。


3位

日本のいちばん長い日(1967)

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【あらすじ】(映画.com)

1945年8月14日正午のポツダム宣言受諾決定から、翌日正午の昭和天皇による玉音放送までの激動の24時間を描いた名作ドラマ。広島・長崎への原爆投下を経て日本の敗戦が決定的となった昭和20年8月14日、御前会議によりポツダム宣言の受諾が決定した。政府は天皇による玉音放送閣議決定し準備を進めていくが、その一方で敗戦を認めようとしない陸軍将校たちがクーデターを画策。皇居を占拠し、玉音放送を阻止するべく動き出す。


【感想】

シンゴジラの元ネタともいうだけあって、物語は常に激論で進行する。

行為を決定する為には、言霊を飛び交わさなくてはならない。

昨今の日本的会議は、批判を受けたくない、緩やかに流れに乗りたい・見守りたいという理由から、発言行為自体を恐れる者や、立場を曖昧にするための意味不明な発言をする者が多く、これにより決定が遅れる傾向にある。

だがこの映画の登場人物達は、全員が責任感の塊であり、立場を明確にした発言をする。

これにより、立場ごとの各正論が、ひたすら会議の場で飛び交うことになり、結果として、決定が遅れるというのが面白い。

会議というものは、埒があかない場合、決定を、その場の最高権限者の聖断に委ねることになる。

この映画の場合の聖断者は、昭和天皇であった。

つまり終戦の決定は、昭和天皇自らが下したのである。

(なお余談であるが、大東亜戦争における日本の「暴走」は、当時の参謀本部が「統帥権」というものを振り回した事に起因する。)


2位

TENET

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【あらすじ】(Filmarksより)

主人公に課せられたミッションは、人類がずっと信じ続けてきた現在から未来に進む〈時間のルール〉から脱出すること。

時間に隠された衝撃の秘密を解き明かし、第三次世界大戦を止めるのだ。

ミッションのキーワードは〈TENET(テネット)〉。

突然、国家を揺るがす巨大な任務に巻き込まれた名もなき男(ジョン・デイビット・ワシントン)とその相棒(ロバート・パティンソン)は、任務を遂行する事が出来るのか!?


【感想】

要するに時間操作における多世界解釈やルート分岐を認めない場合、全ては決定論的に進行するという事である。

時間逆行の操作を起こした場合、それを時間順行側の観測者から見ると、結果が先にあり、それが起きた原因が後から「追突してくる」ように感じられる。原因が分からないのに、そこにすでに結果はあるからだ。

例えば弾痕があるという結果を目撃した時、その原因が必ずやってくる。だが、いつどこでどのようにやってくるかは分からない。これは恐怖に変わるだろう。

加えて、時間逆行を生じさせた決定論的世界においては、ルート分岐が存在しないので、原因と結果の関係は、常に同一の世界線の中で相互作用することになる。

いいかえると、順行側からの原因→結果があり、また逆行側からの原因→結果があるということだ。

だから「原因→結果←原因」(TENET)となるはずで、この原因同士が衝突する「結果の特異点」のようなものが存在することになる。ここが映画のクライマックスであった。

この場合、起源者としての神は主人公だったことになるが、主人公は神であるつもりはなく、ただ決定論的な世界の進行に従わされただけだったという形になる(神の不在)。

ここまでの解説が意味不明だった読者はそれでも構わない。

要するに、上記のことを映像化したことはそれだけで偉業であり、そこに大感動したという事を伝えたかったのである。

 


一位

フォードvsフェラーリ

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【あらすじ】(映画.com)

1966年のル・マン24時間耐久レースで絶対王者フェラーリに挑んだフォードの男たちを描いたドラマ。ル・マンでの勝利を目指すフォード・モーター社から依頼を受けた、元レーサーのカーデザイナー、キャロル・シェルビーは、常勝チームのフェラーリ社に勝つため、フェラーリを超える新しい車の開発と優秀なドライバーの獲得を必要としていた。シェルビーは、破天荒なイギリス人レーサーのケン・マイルズに目をつけ、一部上層部からの反発を受けながらもマイルズをチームに引き入れる。限られた資金と時間の中、シェルビーとマイルズは力を合わせて数々の困難を乗り越えていくが……。


【感想】

タイトル詐欺と言ってもいい。フォードとフェラーリの戦いを描くことが、この映画の本質ではない。

またよく言われているように、企業内政治の清濁を描くことを目的にした映画でもない。

この映画は、プロフェッショナルとは何か?を突き詰めた結果、生きることの目的、すなわち自らの使命を果たすことの本質を浮き彫りにしたのだ。

だからまず、プロフェッショナルとは何かを考えてみたい。

まず「クライアントが求める成果を達成する」ということが、必須項目だろう。

だが、「自分が納得のいく成果を残す」ということも、プロであるほどに尖るはずである。

苦しいのは、この二つが、時に真っ向から衝突することである。

だが、この二つを見事に斥候させてこそ、真のプロなのではあるまいか。

転じてそれが、自らに課せられた使命であることに納得したのであれば…。

この解決の落とし所があまりに尊すぎて、私はクライマックス、画面が見えなくなるほど号泣した。

また、帰りの車の中でも思い出し泣きしたほどである。

今年、文句なしのベスト映画と言える。


以上、今年観た映画ランキングであった。