Kの思索(付録と補遺)

日々の思索です。Twitterはこちら。https://mobile.twitter.com/k0sisaku インスタ→https://www.instagram.com/yushak_satuei

無意味の意味について~ Kの思索(付録と補遺)vol.125~

本を読んで面白いと思うこと、そしてそれが時に苦労して学び取ったと思うことも、片っ端から忘れていく。

ゆえに、その瞬間にだけ意味があったことになる。

ではその後ということになると、あるいは意味がないともいえるのかもしれない。

「たとえ全てを忘れたとして、それでも自分の中に残っている何かがあるのだろうか」と、考えることが多い。

その「何か」は総合的すぎて言語化され得ない。

であるなら、そこに意味があたえられていると、ほんとうに言えるだろうか。

言語化されない意味があり、そういったものが実は本質であるとするなら、「総合的な無意味」の中にこそ、本質的な意味があるーーと何やら詭弁のようなことが言えるのかもしれない。

いつかそういう無意味へと変遷する、今の瞬間のためだけの面白さがあり苦労があると捉えれば、そこに泡沫夢幻を観じざるをえない。

 

 

 

 

究極のところ、全てが運であるとバッサリ言い切ってしまっても良い。

あらゆる努力も、運に内包され、同時に外延されている。

「僅かな期待値を上げるための努力」と言う場合も、いやそれすら、努力を正当化しなければ落ち着かないために、無意識下の本心に反して言っている感覚がある。

とはいえ、あらゆる努力を止めてしまうことは単純にダサいことだろうし、きっとそこには虚無しか残らない。それに、あまりに不自然である。

「では努力に寄りかかってみよう」ーーそれもまた不自然だ。

それに上記したように、本来、努力は幻のように心許ないものだから、寄りかかれるほどしっかりしたモノではないと考えている。

さて我々は運がもたらす結果について、「なぜ」そうなるのか、と言うことに対し、絶対に回答を得ることができない。

とするとこの心許なさ、掴みどころのない虚無はどうしたことだろう。

明るく言い換えるのならば、本質的に幻なのである。であれば、何をしても、何をしなくても、意味なんてそこには本来、無いのだ。

いまふと、「人事を尽くして天命を待つとき、その人事は自分の中で自然であったか」ということを考えている。

不自然なことをして、天命が思うようにならなかった時、恐らく圧倒的自然である運を恨むことになる。

「私はここまで努力したのに、なぜ最後の最後で、神は私を突き放すのか」ーーと。

最初から自然であれば、「ここまでやった」という考えは恐らく出てこない。

「自らがやることを、ただただ自然にやった」だけになる。

そういう人であれば、最後に天運が見放したとしても、「しゃーない」とカラリ笑って、次の自然的行動に移行するだけだろう。

自分が自然だと思うことをやっていく。それをたとえば「圧倒的努力」などと言っているうちは、きっとまだ不自然な部分が残っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「〜すべき」というのは、結局、個々人の正義の観念のことだ。

そのような個人の観念に正義を置いた「べき論」を多用する場合、かれは現実と事実よりも、観念的な正義を優先することになる。

結果、優先順位とか工程感とかいう現実と事実を配慮できず、ただ「正義だから」という観念でのみ優先順位をつけることになる。

結果、周りにとってはまったくもって小さな、いやもしかすると問題にすらならない「その人だけの懸念」が、その人の権力如何によっては最優先事項に繰り上げられ、部隊が潰乱することになる。

ちなみに上記の理由から、「べき論」に「べき論」を返すことは、個々人の正義論を戦わせることであり、危険である。

それはすなわち神学論争なのだといえる。

 

 

 

コンピュータは原理的に0か1しか判断しないのだが、人間にもこういうタイプがいる。

例えば、「物事は全てベストかワーストか、正義か悪か、正解か間違いか、である」というようなタイプのことである。

こういうタイプは0か1かの機械的な仕事に向いているが、それ以外の仕事をすると、噛み合わなさすぎて喜劇的な面すら表れてくる。

ちなみに現実問題は、0でも1でもある時の方が多い。

ベストでもワーストでもなく、ベターを取るしかない時。

一方の正義が、一方の悪である時。

正解か間違いか、あとになってみないと分からない時など。

上記の具体例は現実において事欠かないほど挙げられるだろう。

 

 

 

 

 

【良いASMRとは何か?】10年以上ASMRのファンをやってきた私がASMRの歴史とオススメの作り手を紹介する~ Kの思索(付録と補遺)vol.124~

10年以上前から、ASMRを推してきた私である。

今となっては、たとえば芸人チョコレートプラネットが全然ASMRを活かさないASMR動画をギャグとして上げたり、またアマチュアでなくプロ声優を起用した作品が同人界隈で販売されるほど、メジャーなジャンルになった。

www.youtube.com

ASMRの代表例に耳かきがあるが、適当にどの動画を漁って聴いても、本当に耳かきをされている様な触覚さえ感じるほどに、ハイレベルであることがわかるだろう。

だが10年前当時のそれは、当然ながら今ほどにハイレベルなものではなかった。それだけでなく、バイノーラル風ではあったが、厳密にはバイノーラルですらなかったのである。

私がASMRの導入を受けたのは「秋葉よいこ」さんという同人声優であった。

この方は今となっては伝説的な同人声優であり、当時のDLsiteランキングを見ても、この方をASMRというジャンルの先駆けの一人と数えて語弊はない。

それとほぼ時を同じくして、アダルト界隈で伊ヶ崎綾香さんという同人声優が現れる。

アダルトというのが、どんなジャンルにせよその分野を一気に広める効果があるのは否定できないとはいえ、彼女の圧倒的な研究・働き量がASMRという業界を大幅に発展させたことは間違いない。

彼女が偉大だったのは、「音を研究したこと」である。耳かき音を初めとして、どんな音が人間を気持ちよくさせるのかということを研究し、大量の作品にそれを盛り込んだ。

しかもその研究音の使用を(引用を明示することを条件に)配布した。

このことがASMR界隈全体の音質向上に大きな影響を与えたのである。

ちなみに伊ヶ崎綾香さんは今でも現役バリバリであり、古参であれば彼女を知らない人はいないほどである。

そのあと非アダルトの分野で「とみみ」さんという方が現れ(現在は引退)、数多くの同人声優を起用しつつ、今聴いても劣らない作品を無料で大量にニコニコ動画で公開し、売る作品はどれも数千ダウンロードを記録した。

このことで一気にASMRというものがアンダーグラウンドなジャンルからメジャーなものになったのである。

今ではASMRというジャンルが海外まで及んでいるし、くりかえすようだが音質は10年前と比較にならない。

トップの有名な作り手の方なら、みなKU100と呼ばれるバイノーラルマイクを所持しているか、KU100が置いてあるスタジオで収録することも多いようである。なおこのKU100の値段は、その名前のとおり約100万円する。

ASMRに関しても、時代の変遷には驚くばかりである。今までVtuberに一切興味のなかった私だが、「周防パトラ」というVtuberがとんでもないレベルのASMR配信をしているのを聴いて、大ファンになった。

さて、よいASMRとは何かということに関して、個人的な意見を多少語ってみたい。

ASMRは、基本的に音の気持ちよさを体感するジャンルであると思っている。

とはいえこの音の気持ちよさというのは非常に複雑であり、一括りに語ることが出来ない。

例えば先にあげたように、耳かきの音がASMRでは最もメジャーである。

しかし実際に聴いてみれば、たしかに気持ちの良い音ではある一方で、そこに加えて多少のくすぐったさ、ゾクゾクした心地の存在することが分かるであろう。

この心地が「気持ちよさ」に寄与しているのは疑いようのないことである一方で、「くすぐったみ」というものは普通、リラックスとは相反するものである。

ここに良いASMRを作る上での難しさがある。

すなわち「気持ちの良い音」であっても、それが「リラックスできて入眠できるような音」であるとは限らないのだ。

簡単に言えば、あまりにくすぐったい音すぎてもリラックス出来ないし、かといって、くすぐったさの無い音は気持ち良くないのであって、要するにこのバランスを極めることがASMRの本質ということである。

またASMRには音声、すなわち話し声が入ることが多い。この話し声もASMRにとっては非常に重要であり、癒される声質、美しい声質を持っている方の配信や作品が有名になるのは偶然でない。

その恵まれた声質を持って、基本的には聴き手が入眠できるように囁くのであるが、ここに良いASMRを考える上で必ず着目しなければならない点がある。

入眠するためには、脳の活動が穏やかになる必要がある。しかし普通、人間の脳は何かを語りかけられると活動が活発化する。

だから、ASMRにおいて「囁きかける」という行為は、ともすれば脳を活発化させかねず、よって入眠を妨げる要因にもなりかねないのである。

雑談耳かき配信が、たとえ囁き声であっても眠りにくいことがあるのは、上記の理由による。

つまり、語りかけられたり、質問されたりすると、自然に聴き手の脳は活発化し、何事かを考えてしまうのである。

このことを逆に言えば、よいASMRにおける囁きというのは、「人間が考える余地を持たない囁き」であると結論される。

「では、どのような囁きが上記の条件に当てはまるのか?」ということを具体的に挙げるならば、例えば以下のものである。

・擬音(ゴシゴシ、カリカリ、スリスリ、など)

・単なる状況説明(〜をマッサージ、〜を拭き取って…など)

・聴き手の心情描写(気持ちいいね、眠いね、など)

・慰みのある語りかけ(いつでも寝ていいからね、リラックスしてね、大丈夫だよ、偉い偉い、など)

例えば先にあげたVtuberである周防パトラが凄いのは、上記の脳を活発化させない囁き条件を見抜いているとしか思えず、しかもそれを、たとえ3時間に渡る長時間配信であったとしても、徹底して貫き続けているところである。

長々と書いてきたが、この記事を通じて、ASMRの魅力にハマる読者が増えてくれれば、嬉しく思う。

最後に、私のオススメするASMRの作り手の方々の動画を紹介して、締めくくることにしたい。

(なお順序に優劣はない。すべて、著者が第一級と思う作り手の方々である。)

 
【周防パトラ】

www.youtube.com

 

【浅見ゆい】

 

www.youtube.com

 

【高倉むき】

www.youtube.com

 

【伊ヶ崎綾香】

www.youtube.com

 

【かの仔】

www.youtube.com

 

【秋葉よいこ】

www.youtube.com

グレーゾーンの線引きについて(これはブラックか?それともホワイトか問題)~ Kの思索(付録と補遺)vol.123~

やる仕事がめちゃくちゃあって、「いやーもうこれ以上は無理やろ」ってなってるところに

「ごめん忙しい?頼みたい仕事あるんだけど」

と、来ることがある。というより、忙しい時ほどこうなる。

その時に、

「いや別に、暇っすよ」

と答えてしまうことが重要である。

(パソコンとその人を切り替え切り替え見ながら)

死ぬ気で生産効率を考えるならば、パンクする恐れをヒリヒリと感じるスケジュールに身を投げる必要がある。

そんで、「あぁもうこれ、エクセルの関数どうのこうのみたいな、小手先じゃダメだわ。

仕事のやり方そのものを変えないと」

ってなった時に、社内政治が始まる。

例えば私が入社一年目の時にやった体験談を話そう。

認印の上申欄が5つくらいある書類を、まず最初に一番偉い人に持っていってしまおうと考えた。

この時、前提条件として、

・一年目(だから大抵のことは許される)

・一番偉い人の人柄

を考慮している。

つまり、5つも上申欄があると、コメントがあるたびに最初から差し戻りになって、ウザいわけだ。

この点、最初から一番偉い人の印鑑を貰えれば、その他の下は、安易なコメント返しが出来なくなる。

(来るとしても、本気のコメントだけ残る)

結局、

「僕だから許すけどねぇ、他の人だったらこうはならないよ」

って言われた上で、一番上からの承認印を貰うことに成功した。

もちろん、下からはコメントがつかなかった。

(これじゃ、脅しみたいになってるよ→サーセンw の流れはあったが、そこは1年目の素晴らしさである)

さぁこれは、社内のルールを逸脱しているだろうか?

上申印を一番下から貰えなんて「常識」は、当たり前すぎてルール化もされていない。ということは、ルールではない。

結局、生産効率が正義で、それだけが価値であり、それを極めなければパンクするとなれば、

会議中にも自分の仕事を進めなきゃならなくなるし、私用のスマホも活用せざるを得なくなる。

社内文化的にはブラック寄りのグレーであっても、その文化に生産価値がない場合、グレーはホワイトに変わる。

最初のファーストペンギンが叩かれることを恐れず、結果として生産効率が高まっていることが明らかなのであれば、「いいなぁ、それが許されるなら、俺もやろ」となって、あとの2人目からは簡単に同じことをやりだしていく。

こういう流れで、みながグレーと思っていたものが、みながホワイトと思うようになる。

いわゆるこれがコンプライアンス問題の本質であり、どんな企業も、常にこのコンプライアンスと生産効率価値との境界の難しいせめぎ合いで成り立っている。

どこまでがブラックで、どこまでがホワイトなのか。

明確な法令遵守よりも広い意味でのコンプライアンスは、ここに難しさの本質がある。

不要なものに、不要な投資をしないためには~ Kの思索(付録と補遺)vol.122~

不要なものに、不要な投資しないためにはどうすればいいか。

そのためには、どんなサービスが永続するのか、その判断基準は何かということを考えれば良い。

もう名前にも上がらなくなったが、バリューという、人が人に投資するサービスは、結局上手くいかなかった。

これからはこういう時代が来る、だからこのサービスはいけるはずだ!という予測が、いかに脆いものかが分かる事例である。

予測の際の基盤は、まずはせめてテクノロジーにおくべきである。なぜならテクノロジーは利便性を持つ可能性が高いからだ。

結論。「それは多くの人に便利か?」を問え。

利便性が良くわからなければ、そのサービスは廃れる可能性が高く、不要な投資になる可能性が極めて高い。

 

 

 

 

会議の価値とは何であるか?その成果物は何か?

結論からいえば、それは煩雑に飛び交う情報の、整理された加工である。

またそれによって、何かやるべきアクションが決まることである。

情報が加工された瞬間のみ「働き」である。だから、議事録を書く人の「働き」が実は馬鹿に出来ない。

つまり良い議事録には「ペラペラペラペラいつまでも話すこの人は、要するに何が言いたいのか?」ということの本質が、常に一文に表現されている。

それが情報の加工というわけであり、良い働きなのである。

逆に、発言をそのまま書くのは、ダメな議事録の典型だ。

それならわざわざ議事録にせず、ボイスレコーダーで録っておけば良いだけである。

そして、問題を深掘るだけ深掘りして、アクションが決まらないのは、「会議のやってるフリ」だ。

 

 

 

 

「漢文やらせるくらいなら、市役所の使い方を教えた方が良いと思う」

一方で、

「生活の中において気づくという手法で学習するのには、限界がある。例えば虚数の概念は、その方法では発見できない。」

どちらも同一人物の発言だが、妙にモヤモヤしたので、意味のある情報にまで落とし込みたい。

一つ目は、漢文よりも市役所の使い方を教えた方が、生きるために役立つということだ。

つまり、「生きるために役立つか」を学習価値の最優先に置くということだ。

となると2つ目はどうなるか。

虚数の概念を学ぶよりも、その時間を、生きるために必要なことに特化した学びに当てた方が良いということになる。

虚数よりも、生きるために必要な学びはあるか?それはあるだろう。

あるだろうが、何が生きるために必要な学習かは、人それぞれなのだ。

例えば、藤井聡太みたいな天才は、高校を中退して、将棋一本でやっていくことを決めた。

CMのギャラで一生食っていける金も稼いだ。

高校を中退したので、それ以上の数学の概念は、学習できない。

だが藤井聡太は、それで困らない。

学習というのは、結局、いずれはどこかで取捨選択をすることになる。

全ての資格を持ってる人間はいないし、全ての学問分野をおさめ切った学者もいない。

もちろん、それが不可能だからだ。

取捨選択は、その天才性によって鋭さが決まる。

自らの天から与えられた才が、例えば藤井聡太のように、判明しきっているのであれば、その時点で、それ以外を切り捨てても困らないのである。

むしろ切り捨てなければ害になる可能性もある。

だが逆にいうと、何者になるのか全くわからないーー何の天才性の持ち主なのかわからないーーうちには、取捨選択する材料がないということになる。

何を取って何を捨てればいいのか、判明してないのだから、当然のことだ。

ところで天才は、数が少ないから天才なのである。

「みんな天才である」というような言葉の使い方はしない。凡人がいるから天才がいるのだ。

だから、多くの凡人には、鋭く取捨選択できるための判別材料など、そもそも無いということになる。

さて天才とは、時代のニーズによって変わる。

時代のニーズが求めた価値を、その分野で最も良く為した人間が、天才と呼ばれるのである。

例えばYouTuberが時代のニーズであれば、そのトップは天才と呼ばれるだろう。

しかし20年後、YouTuberが時代のニーズである可能性は、限りなく低いのではないか。

だから天才も、多くの場合、運で決まるのである。

(学問分野や競技分野や芸術分野での天才は、最初から枠が用意されているという意味で、特例なのだ。この枠はほとんどの場合、時代のニーズでいかようにも変化する。)

自らが天才ならば、もしくは天才として時代に選ばれる運を信じるならば、ハイリスクハイリターンの鋭い取捨選択をすれば良いだろう。

反対に自分が天才でないと思うなら、ローリスクローリターンの鋭さの欠けた取捨選択をすべきということになる。

結局は、自身の、自身による、自身への決断の問題ということになるのだ。

自分の人生に責任を取るのは自身しかいないという、驚きのない、つまらない結論が得られてしまった。

 

 

 

自らの影響力の大きさの、真の意味での指標は、なにか。

それはすなわち、自らの意志で、何人の手が動くかということにある。

実際に、「手が動いて」なければならない。

またその動く手の連鎖が何次まで続くかということである。

 

 

 


外食をほとんど毎日してると、どうなるか。

実体験だが、何を食っても外食の味で、全然ありがたみがなくなるのだ。

表現が難しいが、外食自体そんなにバリエーションがあるわけじゃないと気付くのである。

いつしか、給食感覚になってしまうといえばわかりやすいだろうか。

外食みたいに、美味しい信号が脳に直接ガツンと食るような味は、特別な日に酒でも飲みながらパーっと食ってストレス発散するような合法ドラッグ的扱いが、ちょうどいいのかもしれない。

 

 

盛大に吹きこぼれる缶ビール~ Kの思索(付録と補遺)vol.121~

ミッション達成までにやることが50個くらいあるタスクが降ってきて笑っている。

現工程案でいけば、完了までに複数年かかるタスクである。

もうその時間の長さだけで、達成可能性が落ちている。

タスクの達成可能性は、その難易度と、かかる期間による。

つまりもし難易度が低かったとしても、かかる期間が長ければ、そのタスクは達成されない可能性が高まるということだ。

例えば商品開発とかで、「完成までに4年かけました!」というプロジェクトがあったとする。

そういうのは、完了して発売できただけでも、運が良かったのである。

ふつう開発期間が長ければ長いほど、その間に時代のニーズが変わって、当初の開発の存在意義が失われ、プロジェクトごと消滅するのだ。

しかも開発期間が長いほどお金を投入しているので、結果として完成した商品の値段は高くなりがちである。

それを上回るだけの価値が、時代のニーズとしてあるか?という難しい経営判断を求められるようになるのだ。

だから時代のニーズを未来予測して先取りしようとする開発は、実はあまり上手くいかない。

未来予測ほど当てにならないものはないし、目標を先におくことで、ダラダラと開発期間が設定できる悪しき原因となる。

開発目標は、常に「いま」のニーズにおき、そしてそれを高速で達成しないといけない。

今話題の、ビール缶の泡が勝手に形成される商品も、開発に4年かけたらしい。

YouTuberなどが試して、盛大に吹きこぼしている。冷やしてから開けろという注意書きを守ってないからだ。

あれも本当の理想は、常温でも泡が適度に盛り上がり、吹きこぼれないようにしたかったに違いない。

だがそうするためには更なる開発期間が必要で、値段が上がってしまうので、妥協点として発売に踏み切ったというところであろう。

 

 

 

男は力を発揮するための生き物だが、その力を最大限に引き出すためには、女の助けがいる生き物でもある。

子供の時はそれが母であり、大人になると彼女や妻がその役割を担う。

母性というのは男の力の源泉である。

これは神話から続くほどの普遍的な原理原則といえる。

映画であればバーフバリを見よ。

e-スポーツにランダム性は必要か?~ Kの思索(付録と補遺)vol.120~

eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?という問題について考える。

スマブラで例えるなら、会場は終点じゃなきゃダメだし、アイテムドロップもOFF。

マリカーで例えるならアイテム無し、ステージギミック無しってことだ。

(もちろんこれは極端な例であって、正確にニュアンスを伝えられてないかもしれない。)

それで観客が楽しいか?と聞かれれば、今の時点では良く分からない。それをこれから考えていく。

ランダム性が減れば、混乱が抑えられて予想外が起きにくくなるだろう。問題は、e-スポーツにおいてそのような予想外の混乱が必要かどうか、観客を楽しませる要素に繋がるかどうか、ということである。

この問題を整理するために、分析するべきものは何か?そしてその関係性は何か?ということを捉えなければならない。

いま分析するべきものは、「ゲーム」、そしてゲームに含まれる「スポーツ性」と「ランダム性」との相関関係である。

野球やサッカーというゲーム、すなわち一般的な競技スポーツには、ほとんどランダムな要素がない。

(地面にデコボコがあってイレギュラーバウンドがあったりするくらいか?)

それでも観客はあれだけ熱狂するわけだから、ランダム性の有無は、「スポーツ」的熱狂と相関関係がないことがわかる。

これと反対に、ランダム性が極端に高いゲームは、ギャンブルと呼ばれる。

ギャンブルは、多くの場合個人プレーであり、熱狂しているのは、金額を投じているプレイヤーその人だ。ギャンブルのランダム性の熱狂は、ひとまずプレイヤーに跳ね返る面白さと言える。

では、ギャンブルに熱狂する観客は、つきようがないのか?

いや、それは時に存在するだろう。例えば我々は「カイジ」を読んで熱狂することができる。

誰かが大博打をするというような時に、ギャンブルでも熱狂的な観客は存在しうる。

そのとき観客の熱狂は、プレイヤーの天運力に向いている。

すなわちギャンブルにおいては、天運だけがプレイヤーの「実力」である。

なるほど、ギャンブルにはスポーツ的要素がないのだ。スポーツと呼ばれるためには、何らかの身体活動を伴わなければならない。

すなわちスポーツと呼ばれるものにおいては、プレイヤーの身体性こそ、観客が見たいものなのである。

一方でギャンブルは、金さえかけられれば、あとは天運のみである。我々はカイジに熱狂するが、べつにカイジでなくても、別の誰かが同じ状況ならば、同じように熱狂することができるだろう。

これでひとまずは結論である。

まず第一。熱狂(面白さ)ということに対しては、ゲームとランダム性の間には相関関係がないこと。

言い換えると、ゲームという広い幅で捉えるならランダム性があっても面白いし、無くても面白い。どちらのことも起こりうるということ。

第二。ランダム性の高いゲームはギャンブルと呼ばれ、ギャンブル性の高いものでスポーツと呼ばれるものは見当たらないこと。

すなわちランダム性が高くなるほど、スポーツ性とは相性が悪くなるということ。

第三。上記の理由が、「何によって実力を測るか」という判断基準の違いに基づくこと。

すなわち、スポーツであればその「身体活動性」に実力が基づき、ギャンブルであればその「天運」に実力が基づくこと。

最初の話に戻ろう。

そもそもの問題は、「eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?」ということであった。

もしこの可否の判断基準を、観客が面白いと感じる方が正義というところに置くのであれば、我々が導いた帰結から判断できる。

すなわち「観客が面白いと感じるためには、e-スポーツの中で、何をプレイヤーの実力として見たいのか?」という問題を考えれば良い。

果たしてe-スポーツで、そのプレイヤーの天運を見たいという人がいるだろうか?

いないであろう。もし天運をみたいのであれば、身体性が関係なく、プレイヤーは誰でも良いことになる。

例えばエーペックスであれば、我々はaceuのキャラコンを見たいのであり、shivの押し引きの判断力を見たいのであり、TSMの連携力の高さを見たいのである。

彼らの身体性の高さを見たいのであり、決して彼らの天運を見たいわけではない。

よって、【観客が楽しいと感じることが正義であると前提した場合、eスポーツの競技シーンにおいては、ゲーム要素であるランダム性を全て排除するべきである】と結論される。

 

 

 

ゆたぼんの炎上を見てると、まず真っ先に思うのは、「自由意志は存在するか」ということである。

それはまぁいい。多くの人の関心はそっちじゃないだろう。

結論から言うと、態度が問題ということに尽きる。

つまり、「なんかムカつく」という感情から発して、そこに理屈をつけて自身を正当化しようとした人達を呼んでしまった。

ではなぜムカついたかというと、ゆたぼんに謙虚さが欠如しているからだ。

異端をやる人間は、その時に「一般」を下げる言い方をしてはいけない。

例えば受験競争において推薦合格した人間が、「一般入試なんてマジだるいっしょ笑」なんて言おうものなら、どういうことになるか容易に想像がつくだろう。

「推薦で合格するなんて入学してからが大変」とか、「本当の実力じゃない」とか言われて、大いに叩かれるだろう。

だがまぁ、YouTubeというコンテンツをやる以上、大衆の目を気にして謙虚にしてたら伸びないだろうから、「YouTuber道」をいく人生は大変だと思うのである。

ゆたぼんの話力、自分の考えを明瞭に伝える力は、中学生のそれではない。

将来は誰かを救うためその力を使う大人になって欲しいと祈っている。

「ほんもの」の思想なら、「ひとこと」になる~ Kの思索(付録と補遺)vol.119~

本物の思想を持った書き物というのは、いつも一本の強烈な主題で貫かれているものだ。そしてその主題は一言で表すことができ、読者を強烈に啓かせるものを持っている。

その他の言葉は全て、その主題への補完に集中する。

すなわち、その主題へ確信を与えたいがために、ただその目的だけのために書き重ねられ、本が厚くなっていく。

プラトンであれば、「この世界で唯一根源的な真なるものはイデアである」という主題。

カントであれば「人間の直観形式では、物自体に至ることは出来ない」という主題。

ショーペンハウアーであれば「物自体は意志である」という主題。

ニーチェであれば「意志を肯定し続け、超人に至る」という主題。

ソシュールであれば、「言語は、世界において価値あるものを区別するために発明される」という主題。

ウィトゲンシュタインであれば、「言語は、その使用活動の中でのみ真に意味づけられる」という主題。

アドラーであれば「人間の心理は全て、本人自身がそうなりたいという目的のもとに、起きている」という主題。

荘子であれば「万物斉同」という主題。

仏教であれば「色即是空」という主題…などなどだ。

 

 

 

料理研究家土井善晴先生の著作「一汁一菜でよいという提案」が、とても素晴らしかった。

f:id:yushak:20210410000120j:image

まず、タイトルの「提案」が良い味をだしている。

謙虚さと少しのユーモアが同居しており、思わず手に取ろう、読んでみようかという気持ちになる。

また、「提案」とすることで、ガチガチに守る必要もなく、時には一汁一菜でなくても良いという自由のあることが暗にわかり、軽い気持ちになる。

もしこれが「一汁一菜でよい」というタイトルだったらどうだろうか。

多くの人の脳内に「いや、良くは無い」という拒否反応が真っ先に出るだろう。

さて前回の記事である、「全てを味噌汁にぶち込め」は、実のところこの本の影響を受けて書いたものだった。

老荘的な「自然に身を任せ、自分に身を任せる」思想に、ミニマリズムが同居している。

私もその思想があるので、刺さりに刺さる本であった。

一応、料理メニュー的な内容もあるが、ごく軽い紹介程度に留まっている。

これは料理本ではない。料理に対する…いや、食というものに対する思想書である。それを示すように、殆どが文字である。

なんでもそうだが、その道一流の人の思想は面白い。

そもそもの日本人の食とはなんだったのか、その原点と本質に立ち返らせ、あらためて生活というものに真摯に向き合わせてくれることにより、生きることへの救いを与えてくれる内容であった。