Kの思索(付録と補遺)

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論理宗教論考~ Kの思索(付録と補遺)vol.59~

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※写真は伊勢神宮。建築芸術を極めるものが辿り着く境地らしい(外国だとパルテノン神殿だそうだ)。一度は行ってみたい。

 

 

 宗教といえば、なんだかスピリチュアルなものを想像するのが普通の日本人だろう。しかし、宗教というのはそんなに生易しいものではない。強靭な精神力と頭脳が、激しく困難な思索を乗り越える必要があるのだ。そうやって過去の賢人が論理を構成した。それが聖典として組み上げられ、今に伝わっているのである。

 

 だから、例えば仏教とキリスト教にはとても多くの共通点がある。キリストも釈迦も、到達した地点が同じであるからだ。それが即ち真理である。ただ教え方が異なるだけだ。それが様々な宗派となって現れたのだ。すなわち、「どの宗教を信仰すればいいか」というのはあまり意味のないことである。どの宗教も目指す場所は同じである。本質を知る者にとっては、やり方なんて好きに選んだら良いだけなのだ。

 

こんな声が聞こえてきそうだ。

 

 「私は『無宗教』だし、『神様』なんて信じていません。人間なんて死んだら無になるだけでしょ?生まれる前に戻るだけ。魂なんてありません。」

 

 恐らく日本人の殆どはこういう考えなのではなかろうか。しかし、この言葉は完全に宗教そのものである。神様とか、魂とか、そういう神秘を具現化せずに信仰しない。とても正しい宗教的姿勢である。計り知れないことを計り知れないと認めること。まずそれが重要であるからだ。

 

 そもそも宗教を本当に持っていない人間はいない。墓を蹴ってこいと言われて、蹴れる人がいるだろうか。蹴れなければ宗教を持っている。先祖の霊の祟りや神の罰を信じているからだ。しかしもし蹴れたとしても、宗教を持っていることになる。何故なら彼は、不用意に魂とか先祖の霊とか祟りのようなものを具現化していない。彼にとってそんなものは、我々が干渉しうる範疇の外にあるもの。そもそもそんなものは人間の作り出した虚構だ。そういう計り知れないことを計り知れないと認める自覚を持っている。それは一段と進んだ宗教である。

 

 すなわち、宗教とは生きていれば持たざるを得ない自覚のようなものだ。「何故人は生きるのか」「意識とは何か」「死んだらどうなるのか」…子供なら一度は抱く疑問。本当に宗教がない人間はこんな疑問を抱かない。平安時代の人間のように「もののあわれ」だけを歌い、泣いてばかりいるだろう。即ち素朴な自然児のように生きるだけである。

 

 対して「もののあわれ」すら所詮は無、そんな超越的思考の持ち主がいるとする。そんな人は、神を信じてなかろうがなんだろうが、完全に宗教に目覚めている。彼にとってはもののあわれ」が「念仏のまこと」に至るかもしれない(この意味は全文を読まずして理解はできない)。

 

 つまり「真理とは何か」に対する姿勢が精神力として現れるのだ。動物は今しか分からない。今目の前にある苦や楽をそのまま受け取る。動物には将来が分からない。だから死を想うのは死ぬときだけである。しかし一歩進んだ精神の持ち主は、この世界の謎を知りたいと思う。この世界はどんな仕組みで構成されているのかを知りたいと思う。そして科学を学ぶ。論理と理論によって、この世界が「如何に」あるかを知る。

 

 しかし更に進んだ精神は、「世界が如何にあるか」では満足できない。それよりももっと根本的問題を知りたいと思う。即ち「何故世界があるか」ということを解明したいと思うのだ。

 

 これを解明しようとするのが哲学である。形而上学とも呼ばれる分野だ。時間とは何か?空間とは何か?…突き詰めていくと、「世界があるということ」そのものが謎の根本なのである。

 

 古代から近代に至るまで、このテーマは激論に次ぐ激論を重ねてきた。「そもそも世界なんて存在するの?」なんてことを言い出す奴もいた。デカルトは「我思う、故に我あり」という有名なセリフを言った。世界で疑えない存在は私だけであるという意味だ。私が消えれば世界も消えてしまうだろうという奴もいた。これが独我論である。私が先か?世界が先か?……世界が先とするのが唯物論である。

 

 「なによりも疑えない私」という絶対的存在が、認識することによって世界があるのか?それともまず、世界があって私という認識がうまれるのか?ではそもそも認識とは何か?これが認識論である。

 

 そんな狂ってしまいそうな認識論の戦いに、一区切りの決着をもたらした哲学者がいる。それが「カント」である。カントについては以下の記事を参照のこと。

 

yushak.hatenablog.com

 

 カントの言うように、世界のホントウの姿は知り得ない。それは物自体である。ショーペンハウアー哲学でいう「意志」である。人間の認識できる範疇を超えた「意志」は「根拠の原理」に従わない。だから意志に対してはその根拠を問えない。世界が「何故あるか」という根拠を問うことは不可能。すなわち、世界が何故あるかという議論は既に200年も前に終わっているのだ。いやむしろプラトンの時代で終わっているとも言える。彼のイデアという概念は、カントの「物自体」、ショーペンハウアーの「意志」と非常に近いものだろう。

 

 しかしこうして「世界の存在」について語りまくっている行為は許されるのか?言語ってそんなに万能なものなの?という哲学者も現れる。それがウィトゲンシュタインである。彼は主著「論理哲学論考」を書いた。言語がどれだけ世界のことを語れるかを示した哲学書である。言語なんて、そもそもこの世界の諸概念の総体から生み出されている。この世界を超えたことを語る言語なんて存在し得ない。語り得ぬものは語れない。語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。

 

 ウィトゲンシュタインは著作の最終付近においてこう述べる。

 

 6.434 世界が如何にあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでも良いことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。

 

 6.44 神秘とは、世界が如何にあるかではなく、世界があるというそのことである。

 

 ここで正しい宗教の姿が顔を出すのである。ともすれば、どの哲学者もみな、一見すると最初の疑問に立ち戻ったように見える。堂々巡りのようにも思える。しかしもはや全く異なる地点に立っている。計り知れないものを計ろうとする無邪気さを乗り越えている。一度否定されて、それが肯定へと戻る。A≠BがA=Bたり得ることを知る。全く論理的ではない。分別のある智では不可能な境地である。しかし論理を積み上げて積み上げて敗れた結果、より真理に近づいている。無分別の智である。

 

 これが即ち大乗仏教の根本原理である。日本で随一の仏教学者であった鈴木大拙のいう即非の論理」なのである。例えば「金剛般若波羅蜜経」には次のように述べられている。

 

 「仏の般若波羅蜜と説くは、即ち般若波羅蜜に非ず、これを般若波羅蜜と名付く。」

 

 まさにA≠B、これをA=Bと名付くのである。この境地には無分別智でしか到達することが出来ない。分別のある智で、何事か語ろうとする行為はナンセンスとされてしまう。だから禅問答では「隻手声あり、その声を聞け」 (大意:両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がするか、それを報告しなさい。)と問われるのである。そんなことは語り得ないのである。

 

 上記のような境地には、体験をもってたどり着くしか方法がない。ではどのようにすればよいのか?まず考えられるのは禁欲である。

 

 この世界は前述したように物自体で、意志である。ならばまずその意志を否定しなければならない。自分が意志の具現化であるならば、それを否定することで個己を捨て、超個己に至ることが出来るだろう。すなわち生きんとする意志の否定だ。食欲や性欲は生きんとする意志であるから、修行僧はそれらを禁じられる鍛錬をするのだ。

 

 キリスト教では右の頬を打たれたら左の頬を差し出せというが、これもまさに意志の否定に他ならない。生きんとする意志が出るならば殴り返してしまうだろう。キリスト教は、知恵の実を食べて生まれた分別(善と悪、羞恥の心)を意志の否定によって消し去り、無分別の智に至ることを目指している。

 

 釈迦においては、禁欲では返って我が生まれてしまう事に気付いた。我慢できてる俺まじ悟りに近い!かっけー!……それでは意志の否定には程遠い。だから釈迦は禁欲を止め、菩提樹の下で瞑想した。そして悟った。

 

 どんな聖典にも、それが聖典であるほど「方便」が隠れている。聖典は真理が、方便と物語に包み隠されている。非凡な境地にたどり着かせるにはそれがまず必要なのである。故に大衆に広がるものの、大衆に誤解されるのだ。最高のものの誤用は最悪なのである。宗教戦争などというものはこれにより起こる。禁欲はまさにその方便なのである。

 

 頭で理解して賢者が悟った境地がどんなものか完璧に説明出来たとしても、何の意味もない。それはただの言語で体験ではないからだ。だからさまざまな宗派がさまざまな方法で悟りを体験させようと試行錯誤する。例えば曹洞宗の開祖「道元」は「只管打坐」をさせた。ひたすら壁に向かって座禅し、瞑想するのだ。

 

 また法然親鸞は念仏をせよと説いた。ただし悟りたい往生したい!と思って念仏するのでは、禁欲の失敗と同じ事になってしまう。我が出ている。すなわち、往生を願い何万遍も念仏するのではない。法然から親鸞へと受け継がれた念仏は、ただひたすら念仏を唱えることが真意ではない。「一心の念仏」なのだ。念仏を唱えて何事かをなすのではない。念仏そのものが何事かを為すのである。つまり「当人が念仏になる」から、その行為も永遠で無限の念仏なのである。

 

 例えば前述した鈴木大拙は、著作「日本的霊性の中で才市という人物を紹介する。彼が悟りの境地を発露しているからだ。彼は膨大な詩を書き残した。だがそれは技巧的でもなければ美的でもない。すなわち芸的ではない。ひたすらに直発的な吐露である。だからこそ、より剥き出しの悟りの境地がありありと表現されていると鈴木は言う。そこには「南無阿弥陀仏」が常に書かれる。才市は念仏となり、念仏が詩を書き、念仏となって詩に現れたのだ。

 

 才市は念仏を「唱える」とか、念仏を「書く」と言わない。念仏に「あたった」と表現する。さらに「わしが阿弥陀になるのでなく、阿弥陀の方からわしになる」という。

 

 才市が才市であるという意識、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏であるという意識、分別。それがある時、念仏に「あたられ」突き飛ばされた。阿弥陀の大風に吹きとばされた。その日から才市は念仏そのものになった。無分別智の世界に往った。そして個己でありながら超個己として、念仏の生活を味わう事になった。この個己でありながら超個己である境地が、鈴木大拙のいう霊性の自覚」である。

 

 親鸞親鸞一人がためにけり」というのも、個己でありながら超個己なのである。釈迦が天上天下唯我独尊」というのも、個己でありながら超個己である例えなのだ。

 

 結局のところ、ショーペンハウアーの「意志」も、カントの「物自体」も、プラトンの「イデア」も、キリストの「三位一体」も、大拙の「霊性」も、釈迦の「色即是空」も、どれも指し示すところの本意は全く同じである。真理に対する名付けの差違でしかないのだ。

 

 この生を否応にも意志せざるを得ないこと。それが欲を生み、苦を生むと仏教が説く。分別が生まれ、真理から遠ざかる。これがキリスト教では原罪と呼ばれる。しかも原罪は恩給によって救われるしかないと言われる。どういうことか。

 

 仏教の悟り、無我の境地では欲するということがない。つまり、悟道の達人は自力で悟ろうとはしない。何故なら、悟ろうと思うのが既に欲だからである。かといって、悟ろうとしてはいけない、と思うのもダメだ。何故なら、悟ろうとしてはいけないとしてはいけない……の無限後退に陥るからだ。

 

 悟ろうとしてはいけない、と思う事自体が悟りへの欲求を内包している。「自力」で悟りを開くのはナンセンスなのだ。悟りは得るのではなく「得られる」。「わたし」がどうこうする問題でない。できるのは待つ事だけなのだ。これが親鸞の説く念仏である。「他力本願」の極意である。キリスト教でいう「恩給」によって救われるしかないことの本意なのである。ここにおいて仏教の「念仏」とキリスト教の「祈り」が完全に一致するのである。

 

 ここにきて親鸞「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と言った意味が完全に分かるだろう。悪人であれば、自力の通用しなさをありありと自己のうちに悟ってしまっている。自分の悪を自覚し、それが自分でどうしようもないことに苦しんでいる。もはや、他力にすがるしかない。善人よりも悪人のほうが他力本願の境地にあるのである。決して「悪いことをすれば往生しやすい」という意味ではないし、他人に頼れば往生しやすいという意味ではない!

 

 だからキリスト教では自分の悪、即ち贖罪を自覚して祈りを捧げるのである。仏教では他力本願の教えのもと、念仏を説くのである。目指すところが同じであるため、説くところの本意も共通するのである。

 

 対して、虚言・妄言の如きスピリチュアルには、論理立てが無い。もっというなら、感情を立脚点とした「感情の論理」を語るのだ。ピュアな心の持ち主は、真・善・美というような崇高なものを持ち出されると、それが絶対的に正しい指針であると信じ込む。だが、本当に論理でもって考えるなら、真も善も美も、それの定義や意味するところを思索していかなければならない。しかしそれがとてつもない迷宮である事に気付くはずだ。

 

 真の宗教的思想にはそのような論理の跡がある。強靭な精神力で、超論理の物事を何とか解明できないかと思索を重ねた傷が残っている。そしてその戦いに敗れている。だがキチンと敗れた賢人はみな、共通の学びを得ている。論理の円環。無限後退。A≠Bであるのに、A=Bでもある無分別の智、色即是空、空即是色。もはや締めくくりにはこの言葉しかない。南無阿弥陀仏

 

 

 END.