Kの思索(付録と補遺)

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死に向かう華々しき弱者の生の肯定~ Kの思索(付録と補遺)vol.69~

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 今回は少しばかりシリアスに、タイトルの件について考察を深め、ある種の死生観について、思索してみたい。

 

 自分の生き方に自分で決定権を持つ。みなその概念自体は「そりゃそうだ、重要な事だ」と思っている。しかしながら、多くの意志の弱い皆が感じているように、これは通常の社会の中では、簡単に実現出来るものではない。親だったり、上司だったり、同調圧力だったり、己より強い何者かが、自らの決定権を奪うのが常である。

 


 何故ならば、意志の弱い人間は、自らの決定権を行使する前に「嫌われたらどうしようかな、仕事しづらくなっちゃうな、学校に来づらくなっちゃうな」等々と、周りの誰かの目を気にしてしまう傾向にある。このような思考ならば当然、自らが主導権を握るポジションに、そもそもいれるはずがない。そして残念ながら、このように万人に嫌われずにすませようと考えている人間ほど、かえって万人から嫌われるているのは、よく見られる光景である。

 

 


 さらに言えば、他の人の評価を気にして、その人に嫌われたら何も出来ないというのは、その人に頼らなければならないということ、すなわち自らの力の無さを示してしまっていることに他なるまい。だから、そんな人は周りから舐められて当然ではないだろうか。

 


 強い人間(動物的生命力のある人間)は、はなからこの世界が生存競争であるということを、無意識的にそなえており、ポジションを取る事を自然にしてきた。だが弱い人間(理性に生命力を奪われた人間)は、道徳や合理が先行し、生存競争として肉を狩る狩られるの戦いの場、すなわちドロドロバチバチしたこの世界の在り方そのものを嫌悪する傾向にある。世界の在り方をそのもの嫌悪すると、世界から消える事を選ぶという選択をするのは当然である。

 


 これが自殺の本質である。このような人にとっては「生きていれば良いことあるよ」「死ぬくらいなら逃げたらいいじゃん」等のセリフは、チリ一つほども心に響かないはずだ。彼はもはや、自らがこの世界に存在し続けるということ、それそのものが耐えられないのである。

 


 だったらもう死ね、という話で終わってしまうのだが、それだとあまりにさみしいので、前向きな話を書いてみたい。

 

 そのような理性に生命力を奪われた人間の中にも、何らかの機運で、自らの理性を活用し、ポジションを取ることが出来るようになる人がいる。この機運は非常に多様なもので、一概に法則性のようなものを言えないが、とにかくずっと前から蒔いていた種が、機運により芽吹くのである。

 


 面白いことに、そのような本来は社会的に弱者だった人間も、一度ポジションを取る事を覚えると、この世界が結局生存競争である事を見抜くのである。こうしてかつての弱者は消え、あとはマウントポジションを取ることに集中するのである。だから弱者であればあるほどに、本来は最初から「いかにしてポジションを取るか」に集中しなければならないと言える。

 


 そしてそのためには、先程述べた通り、種を蒔くのが有効である。しかし、何が芽吹くか、いつ芽吹くかは分からないし、法則性はない。頑張ったからと言って結果が出るわけでもない。楽しく夢中にやってたら、いつのまにかそれでポジションを取れていたという事もある。だから私はそれを「機運」と呼ぶのである。

 


 もしそれもダメで、遂にいよいよ、この世界の生存競争を否定するのであれば、華々しく英雄的に自らの命を手放すしかない。そこで、そのような辛苦の果てには、次の様な教えを持つ宗教が生まれる。

 

 すなわち、幸福になる「ために」生きることを捨て(これには必ず悪と戦闘が伴う)、幸福になるに「値する」人間であるように生きるのである(たがこれは悪から利用される)。だからこれはつまるところ、現世を捨て、来世に希望を託した考えである。某世界的宗教もこれを実践する。

 


 だがこのような教えは、適切に学ばれないと、歪んだ生の中で「自らの命を捨てる」という事に歪んだ解釈を持ちこみ、その結果、自爆テロや、自らの死刑を狙った無差別殺人が起こるのである。そして犯人は「誰でも良かった。」などと宣うのである。彼にとって敵は、この世界の全てなのであった。そして、この思考プロセスを理解出来る人と、出来ない人の間には、絶望的なまでの断絶が存在するのである。

 


 結局理性で考えれば考えるほどに、この世界の構造が、生命が別の生命を永遠に喰らい続ける悪、すなわちアンラ・マンユである事が浮き彫りになり、絶望感を持ってしまうかもしれない。だがそれは善を考察していないからである。周りを見渡せば、たしかに悪は限りなく、善よりもはこびっているかもしれないが、それでも善は存在するであろう。無償の愛も、永遠ではないかもしれないが、人は持つのである。そしてその善は何から生まれているかと言えば、合理や理性とは対照的に、道徳に対する信念から生じるのである。

 


 だが道徳や信念は、悪に対して脆くて弱いものであるから、それを、そもそも弱い人間に、これから講義的に施してどうなるわけでもない。またそれらの概念を「幸福に生きるために活用していこう」という説教のために使うのだな?と思われた方は、理解が逆であるので、もう一度最初から読み返してしい。

 


 そうではなく、最も弱い人間は、その自らの道徳における善の信念を貫いて死ぬために、そのような「死の為に生きる」ということでのみ、自らとこの世界を肯定できるのである。

 


 このように死を見つめて生きること、死を強烈に意識していることは、歴史に思想家として名を残すような人物であれば、必ず通ってきた道である。そしてそのような思想家ほど、社会的には不適合者であったり、弱者であったり、未婚であったり、孤独であったことは、歴史が証明している。多くの彼らの人生は、控えめに言っても幸福とは呼べなかった。だが、この死を意識した生の爪痕が、次に名を残す弱者への、普遍的な道しるべとなるかもしれない。それは彼の死後、彼にとっての「慰め」と呼ばれる。

 

 END.