Kの思索(付録と補遺)

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ミスターガラス~ Kの思索(付録と補遺)vol.79~

 

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 ミスターガラスはM・ナイト・シャマラン監督ワールドの「アベンジャーズ」であり、すなわちキャラクターもののヒーロー集合映画であり、シリーズとして3作目にあたる。そのため、登場するメインキャラクター3人の事を詳しく知るためには、過去の2作を見る必要がある。


 過去2作の「アンブレイカブル」「スプリット」はどちらも傑作である。

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 どちらも是非とも観て欲しいが、ここではミスターガラスを解説する上で最低限必要な世界観だけ紹介しておくことにする。

 
 アンブレイカブルの主人公は、ブルースウィリス演じるグリーンマンである。ヒーロー活動をする時に緑のレインコートを着ることからその名が付いた。

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 さて、グリーンマンはどんな能力をもつのか?この映画の非常に独特な点として、ヒーローものにありがちな圧倒的なパワーの発揮というものが見られないという所がある。グリーンマン「どうやら自分は不死身かもしれない」と思っているが、そう思う理由として


・普通なら死んでいる大事故から奇跡的に無傷で生還している
・今までなんらの風邪や病気にもかかったことがない
・しかもバーベルが160kgも持ち上がる


 という3点が挙げられる。

 
 …いやいやとはいえ、自分が不死身のヒーローであると確信するためには、何とも説得力に欠ける微妙な理由達ではなかろうか。バーベルを上げるのもかなり辛そうにしている。このグリーンマンが、少しガタイの良い強盗を、物凄く頑張ってチョークスリーパーで失神させるというシーンをメインバトルにして、アンブレイカブルは幕を閉じる。

 
 何が言いたいかというと、一応はキャラクターヒーローものなのに、それにしてはやってること、起きていることが物凄く地味であるということだ。

 
 結局アンブレイカブルでも、グリーンマンは本当にヒーローなのかどうか微妙なままだ。もしかしたら、ただ凄く健康で、ちょっと力の強い男なだけかもしれない。不死身とまでは言い切れない。それが面白いのか?と言われると、それはもう面白いのである。「何故こんな微妙なヒーローの描き方をしているか」というのに、明確な理由があるからだ。 (理由は後述する)。

 
 それに、昨今の「如何に画面を派手に見せるか」というヒーロー映画を沢山観ている方ほど、アンブレイカブルの地味さに、むしろ新しさを感じる筈だ。こんな描き方をしたヒーロー映画がかつてあったのかと(アンブレイカブル公開は2000年)。

 
 そして時は流れ2016年、スプリットという映画が作られた。この映画は公開前、誰しもが一本の「独立した」映画だと思った。まさか16年前に作られたアンブレイカブルの続編だとは思いもしなかったのである。

 
 この映画は、多重人格のサイコパス「ケビン」に、少女達が誘拐されるところから始まる。そして物語の最終部まで、如何にケビンから逃れ脱出するかという「サスペンスホラー」として描かれる。

 
 だが最終部になると、ケビンの多重人格の中でも最も深遠で、凶悪な人格である「ビースト」が現れる。ビーストは鉄格子を素手で折り曲げ、ショットガンを食らっても生き残る。うちに秘めた自らの苦悩ゆえに、この世全てへの怒りの人格が生まれた。それが肉体の限界をも変化させたのだ。

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 このようにして、スプリットは物語の終盤にして「サスペンスホラー」からまさかの「モンスターパニック」ものへと変容する。頭の中は混乱するが、それはそれで物凄く面白い。この「どんな気持ちで観たら良いのか分からなくなる」という独特の体験も、シャマラン作品のシャマラン節なのである。


 そんなスプリットに「一本の独立した映画」として大満足していると、エンドロールであのアンブレイカブルグリーンマンが登場するではないか。多重人格サイコパスであるケビンが起こした一連の犯罪を、グリーンマンがニュースで目撃するのだ。


 ここで観客はざわつく。つまりこれは、アンブレイカブルを通しての一連のシリーズであったと。そして私は、この時じつはアンブレイカブルを未見であったので、何故観客がざわついたのか分からなかった。「確かにブルースウィリスが出れば騒つくだろうけど…」くらいに思っていたものだ。その後ようやくアンブレイカブルを観て、とんでもないシリーズが生まれたと思ったのだった。

 
 そして2019年、いよいよ「ミスターガラス」が公開された。アンブレイカブル、スプリットから続く、シリーズの完結編である。

 
 ミスターガラス というタイトルにピンときた人間はどれだけいたのだろう?ミスターガラスというのは、アンブレイカブルにおけるグリーンマンの対極に位置する存在であり、バットマンに対するジョーカーのような存在である。つまり永遠の宿敵である。

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 彼は、出産からしばらく泣き止まなかった。母は不思議に思った。そして医者は蒼白した。骨が何箇所も折れていたのだ。それゆえに母も号泣した。

 
 彼は生まれつき骨が弱く、少し転んだだけで骨が折れてしまう。その生は苦悩に満ち溢れたものだった。もはや何十回と骨折し、車椅子の上で生活する時間の方が長かった。しかし母がくれたヒーローコミックが救いとなり、大人になった。そして彼は自らを「ミスターガラス」と呼ぶようになった。

 
 彼の苦悩に満ちた人生の目標は、いつしか「本物のヒーローを探す」というものへと決定づけられていた。それは何故か。ヒーローが好きだからではない。自らの生に意味付けを持たせるためである。


 どういうことか。もし自らのガラスのような肉体とは逆の「不死身であるような肉体」をもつヒーローが存在すれば、自分のような存在は、彼等と対極にある存在、すなわち宿敵であろう。ヒーローがいれば、ヒーローが倒すべき宿敵が存在する。正義と悪は常に同時に発生する。自分がたとえヒーローの敵であろうとも、悪であろうとも、構わない。この世界に自分の存在が決定的に意味付けされるのであれば。そして悪は正義にもなるのだ。自らもヒーローになりうるのだ。


 そうしてミスターガラスは大量の殺戮を繰り返した。彼は生まれつき肉体は弱かったが、その代わりずば抜けて頭が良かった。用意周到な計画で、様々なテロを原因不明の大事故に見せかけた。それはひとえに、ただ不死身の者を探すためだった。時には列車事故も起こした。その中ではグリーンマンだけが無傷で生き残ったのだった。

 
 ここに、ミスターガラス 、グリーンマン、ビーストという3者の宿命の、神話的とも言える関係が生まれたのだ。

 
 しかし彼等3人はまとめて精神病棟にぶち込まれる事となる。つまり彼等はヒーローでもヴィランでもなく、「ただ自らの心身の特異性を過剰に解釈する凡人」であると公的に判断されたのだ。だってそうだろう。彼等は全員、ある意味では特徴を持つが、人間からの超越性という観点でみると、どうにも確証がない。

 
 今までの話を全て踏まえても、ミスターガラスは骨が折れやすいだけだし、グリーンマンも不死身か分からないし、ビーストだって火事場の馬鹿力ということもあるだろう。ショットガンで生き残ったのも散弾銃の拡散が原因かも知れない。

 
 彼等は、なんのことはない、ただの精神異常者なのだ。だから、そのような勘違いした人々は社会から隔離しなければならない。

 
 しかしミスターガラスはそんな否定論を断固として認めない。医者が判断したとか、公的に否定されたとかはどうでもよいのだ。ただ彼は、自ら、自らの特別性を信じている。それを証明するために、今までの人生をかけてきたのだ。彼は自らの使命に目覚めている。それをより確固たるものにするため、他の二人にも目覚めて貰わなければならない。故にミスターガラスは、同じ「悪役」としてビーストと共闘関係を結び、「ヒーロー」であるグリーンマンとの直接対決を望むのであった。

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 シャマラン監督作品は最後にどんでん返しがあると言われる。しかしただエンタメ的にどんでん返しするのではなく、シャマランの偉いところは、どんでん返しにテーマへの強烈なメッセージ性を持たせていることだ。


 もちろんそのどんでん返しの内容に関してはここでは書かないが、つまりはこの映画に貫かれている一本の筋が、ようやく結実するのだ。ひいてはシャマラン監督自身の思いが最もよく現れるのがこのどんでん返しなのだ。だからこそ意味があるのだ。シャマラン監督自身のテーマ性が実現すれば、まさに生きる個そのものがひっくり返され、引いては世界そのものがひっくり返される「恐れ」がある。

 
 何故ヒーロー映画でありながら、その超越性の確証を、それこそアンブレイカブルの頃から、ひたすら曖昧にするような地味な描き方をしてきたか。その理由がここにおいて決定的になる。すなわち「個々人のもつ特異性」への排斥を、普遍的なメッセージにする必要があったのだ。


 どういうことか。世の中の多くの人は自らの使命に目覚めることが出来ないでいる。いや、より悪いことに、世界を動かすポテンシャルを秘めた人物ほど、社会から排斥されるのである。目覚めを必要とする人物ほど、抑圧を受けるのである。そして大抵の場合、そのまま消耗して文字通り消え去ってしまう。

 
 「お前は凡人であり、いやむしろ異常者であり、社会の害悪であり、隔離される必要がある」と言われ続けるうちに、本人も本当にそう思ってしまうのである。それは彼が大抵の場合「特異」だからである。それは何において特異かは色々あるものの、特異なものを排除する集団本能のようなものが人間社会にはある。

 
 しかしシャマラン監督はむしろ、そういう人をこそ激励しているのである。だが、このような人々が目覚めることによって、世界がどうなるかも歴史が証明している。すなわち血が流れるのである。

 
 もちろんそのことは監督自身、百も承知である。なぜならば、劇中で語られる「正義があるから悪が生まれる」ということや「特異なものを排除することで社会の安定を保持する」ということや「善も悪も相殺する」という形で、特異なものが目覚める危険性を何度となく描いているからである。

 
 しかし、そんなことは知ったことではなく、「いいから目覚めよ」というメッセージの筋を貫くシャマラン監督もまた異常者である。この映画を観た人の一部からは「何いい感じに終わってんだ」という批判もあるが、全くもって的外れである。シャマラン監督は「多くの人が目覚めた社会」で起き得る悪をも全てを見越した上で、このテーマを描いている。

 
 裏話をすると、シャマラン監督は「ミスターガラス」を作るための制作費が無かった。その制作費を融資して貰うため、自らの私有地を担保にした。そして前作の「スプリット」で稼いだ自らの金も制作費に当てた。そんなリスクを背負って作った映画が、このような公に対して言うに憚られるテーマであることに、私は心が震える。もっと派手に、純粋なエンタメ映画にすることだって出来たはずだが、あえてそうしなかった。映画を作り、自らの特異な信念を打ち出すだけでなく、それを現実でも実践している。これがシャマラン監督である。シャマラニストと呼ばれる熱狂的なファンがいるのも納得というものであろう。

 
END.