Kの思索(付録と補遺)

日々の思索です。Twitterはこちら。https://mobile.twitter.com/k0sisaku インスタ→https://www.instagram.com/yushak_satuei

子供に対する言語教育の危険論~ Kの思索(付録と補遺)vol.83〜

f:id:yushak:20190622233513j:image

 

  昨今の「頭のいいエリートな親の子供が何故?」というようなニュースを見、子供の教育について少し綴ってみたいと思う。

 

  今の日本で一般的に「頭のいい」とされている大人は、優れた情報処理能力がある。


  おそらく子供の頃、学校の成績が良かったに違いない。数学も国語も出来たろう。

 

  しかし実は、そんな賢い親の教育ほど、彼の子供の精神に非常に良くない作用をもたらす可能性がある。それは何故かをこれから語っていく。


  さて、数学に超えがたい才能の障壁があるのと同じくらい、国語の読解にもそれがあるのだ。


  ただし読解は、日常会話に親しみがある分、ただ文章を何となく追うことは出来るので、数学に比べるとそこまで才能の断絶を意識する人は少ないかもしれない。


  しかしながら、言語も数学と同様、一つの記号配列である。「数学は言葉です、計算じゃない」と言った予備校の先生もいた。両者は似ている。


  数学は「概念を記号化、一般化したもの」だ。それに対して、言語は「事実を記号化、概念化」したものである。


  しかしこんな面倒なことを言わなくても、言ってることの意味は大体おかりだろう。


  我々は、だれしも赤子の時「主語」「動詞」という記号の並べ替えからスタートしたのだ。


  さて言語の誕生について、もう少し掘り下げてみよう。


  我々はまずこの世界を直観し、あれこれのことを感ずる。


  そのあれこれを感ずるということそのもの、これを徴(しるし)と呼ぼう。


  我々は、その徴に対して、子供のうちから、また社会全体の中で、必要なものから概念化し、そこに言語という記号を与えた。


  すなわち、徴(しるし)を発音という記号に変換し、それを組み替えて概念を伝えようと発明されたのが言語だ。


  だからまずは我々はもともと、ごくごく当然すぎて忘れていることだが、言語で伝えられたことよりも、感覚でもって正しさを判断する生き物である。


  優先順位は、正論よりも、感覚的な正しさが先である。


  感覚よりも言語での正しさを判断できるのは、大人になって理性が発達し、分別がつくからである。


  子供にはそれが出来ない。なぜなら、自分のこの感覚に勝るほど説得力のある言語など、子供にとっては存在しないからである。


  言語を知らなければ、彼は何も知らないのだろうか?彼の脳には何の働きも起こらないのだろうか?そんなことはない。


  彼は近くで何かが爆破すれば、その揺れと轟音に逃げるという動作を取るだろう。クマが手を広げる行為に威嚇を感じ取るだろう。


  赤子でも親が怒っているのは分かって泣く。それを、あくまで言語を覚えたあとで「プンプン」などと表現する。


  犬ですら、飼い主が怒ると腹を見せて許しを請うような態度を見せる。動物は言語がない分、その雄弁な振る舞いで語っている。


  徴(しるし)と表現するべきそれで、言語よりも雄弁に会話している。


  動物に近い子供らは、言語を通じて概念を識る前に、すでに感覚として多くを知っている。そのような態度を取るべきであると、感覚でしっている。


  子供らには、どれだけカエサルが勇猛果敢に戦ったかを弁論により語ったところで仕方がない。


  カエサルの死体を直接目の当たりにする徴の雄弁さにはかなわない。


  おそらく、なまじっか賢い人ほど、子供を赤子のうちから言語という記号で教育する。


  言い間違えを訂正したり、教訓を伝えようとする。


  歴史を学ばせたり、論理的に語ることを教えるかもしれない。


  数学をやらせようとするかもしれない。


  だがこれらは、子供の精神の正しい成長を狂わせるだろう。必ずや拒絶反応が起こるだろう。


  子供は徴のほかは何も分からない。覚えた言葉も、大人が思うほどに理解しておらず、覚えたてならばそれが正確に何を意味するか分からない。


  子供は生きていく体験の中で、言語の意味を、さまざまな関連の中から「徐々に」正確に決定づけてゆく。この「徐々に」というのがどれだけ重要であるかしれない。


  子供に対し、何の徴もなしに、言語だけを叩きつけることで、なぜ概念が狂わないと考えられよう。

 

  繰り返すが、彼らは正確な意味を知らないのだ。不正確な概念を瞬く間に浴びせかけられて、正しく基礎がつけられるわけもない。


  試しに童話を子供に読ませ、その教訓を言わせてみるがいい。しばしば、大人が予想しない感想が返ってくるだろう。


  ウサギとカメの教訓は何だろうか?と聞けば、彼らはまず「ウサギが寝なければカメに勝てたのに」と答えたりするだろう。


  子供らは起きた出来事を語ることはできる。それは単なる徴の描写だからだ。


  しかしそれが「どうだったか」という概念を構築する段階になると、上記の理由によって途端に殆ど何も言えない。


  だがここで、「カメのように足の速さに才能がなくても、コツコツと頑張り続ければ~」などと子供に語ったところでどんな意味があるだろう。


  彼らは概念をまだ知らないのだ。それなのに、教訓が正確な意味をもたらすとなぜ言えるのか。


  ゆえに子供は言語で何かを示されることに猛烈な拒否感を持つ。子供には常に徴で語らなければならない。


  大人が子供の教育を思って「何々せよ、何々のためだから」といっても、言語化された概念の分からない子供に、それが何の役に立とう。

 

  何々のためだから、と言われても、そんな経験を子供である彼はまだしていない。ならば当然、大人の正論よりも自らの感覚の方が優先度は上だ。

 

  子供は自らの感覚の世界が世界の全てである。それ以上の世界は存在しない。だから大人の世界は存在しない。理解できない。

 

  もっと悪ければ、大人の世界を誤って理解し、不安だけを募らせ、大人になる前に動けなくなることもある。


  このようなことだから、子供は、親がひたすらに語って推した全てのものを嫌いになる。逆に、親の背中で徴として語ったものだけに興味を持つ。


  もし残念なことに、記号の中でしか教育されず、ほとんど徴のない中で育った子供は、現実の情報が処理できなくなるだろう。簡単に言えば「生きていく力」がなくなってしまう。


  子供には常に直観させる出来事を、徴をもって雄弁に語るがいい。教科書を読む前に実験させるが良い。


  失敗しない教育よりも失敗させるがいい。正しい教育とは、知識を身につけることではない。

 

  正しい教育とは、彼のどんな挑戦であろうと死なない程度の失敗に出来る方法を身につけさせることである。そしてその解決を考える力を身につけさせることである。


  その強烈な学びをもって、不死鳥のように成長していくことである。それが現実の、生きた教育であると私は思っている。


  END.