Kの思索(付録と補遺)

日々の思索です。Twitterはこちら。https://mobile.twitter.com/k0sisaku インスタ→https://www.instagram.com/yushak_satuei

なぜ我々は論理外の神に共通の概念をもつか?〜Kの思索(付録と補遺)vol.97〜

f:id:yushak:20190929174218j:image

 

我々は真理を見つけようとするときに言語を用いる。しかしながらーーこのブログでもさんざん記載してきたようにーー言語にはそれが語りうる境界があるようだ。

 

例えば歴史的には、我々は言語を用いて神を語ろうとしてきた。しかしその試みはことごとくに失敗した。

 

それは言語で語れる論理の枠外にあるのだった。

 

だがしかしながら、我々には互いに共通認識を持てる事柄もあるのだ。例えば数学という言語において、我々は共通認識を持つことができる。

 

例えば幾何では、正三角形の各内角は全て60度であることが分かる。これは、我々がそれを見て、幾何的な証明から問答無用で理解できることである。

 

数学言語が優れているのは、我々がこの言語を論理外に適用することに対して、インターロックがかかる機構になっていることである。インプットが論理外であれば、アウトプットがエラーとなってくれるのだ。

 

だが一般的な話し言葉、書き言葉の言語使用において、このインターロックはかからない。これはある種、言語に備わる特性である。だからこそ、この意味における言語というのは、恐らく「万能」である。

 

すなわち、我々は言語を持って、論理外のことすら使用を許され語り尽くすことが出来る。そして「説得」や「納得」も与えられうる。ただし、それが真理かどうかは別であり、結局は幻のなかで霞を食べて満足していたのだ。

 

問題は、我々はいつのまにかその霞を食べていることである。

 

どこがその「境界線」にあたるのか、今我々は論理の境界を踏み越えていないか、それが全くもって不鮮明なのである。我々は大体いつも、「いつのまにか」その境界を踏み越えているが、あくまで論理の使用者である自分自身は、確固たる論理の積み重ねによりここに来たと信じているので、それを覆すのは容易でない。

 

数学においてはこのブレーキがなぜかかるかといえば、繰り返すように、それがもともと我々の「直観形式」からスタートしているからである。

(ここでいう「直観」は「直感」とは意味合いが異なるので注意してほしい)。

 

直観形式、つまり我々が世界を認識する形式そのものが共通しているので、その直観形式から構築された数学という言語は、そこから外れた使用を許さないのである。

 

なお、ここでいう我々が世界を認識する直観形式というのは、簡単に言えば「時間と空間」の事である。この辺りの詳しい話をもう少し知りたい人は下記の記事を読んで欲しい。

 

yushak.hatenablog.com

神という概念や、美という概念、善と悪、知識や知恵、人生の意味、幸福論、絶対的な価値、はたまた1という抽象そのもの……これらはこの直観形式に当てはまるものかどうか、非常に怪しい。

 

だが我々人間は、このようなものを「使用すること」は認められている。だがこのようなものが「何であるか」を言語で解き明かそうとすると、全くもって機能不全に陥るのである。

 

この意味で言語と音楽は似ているかもしれない。

 

というのも、我々は「音」を用いて音楽を奏でることが出来る。そしてその音楽が「なんとなく暗い」「なんとなく明るい」「なんかいい曲」とーー言語ほど鋭くなくてもーーその音の使用によって、ある程度の有意味性を得ることが出来る(ただの音のままでは、それはほとんど無意味である。言語も同じで、「あ」というのはただの音であり、これらの使用によって文脈を奏でることで、意味を獲得する)。

 

しかし音楽を奏でることから「音とは何か」を解き明かすことは出来ない。

 

それは物理学の領域であり、聴覚としての信号伝達は脳科学の問題であり、そしてついには意識の問題に至るだろう。

 

そして意識の問題は恐らく、直観形式の境界線である。

 

我々はしかしながら、どうしてもこの境界線、限界に突進していく特性を持つ。哲学者ウィトゲンシュタインは、この特性こそが「倫理学」であると喝破した。

 

我々の理性は、絶対的な真理を見つけるために、概念の背進や統合を続けたがるのである。そしてその結果、「この世界は何なのか」「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、ただナンセンスな問いを与え、それを解こうとするのである。

 

我々にはそのような特性がある。そのような特性が生まれながらに発達するよう、あらかじめ備わっている。だから、それが直観形式の外にある概念だとしても、我々にはその概念を導き出すことが約束されている。

 

だから我々が神という概念を言語で使用しても許されるのは、理性における形式が共通であるからだと言える。

 

直観形式が空間と時間の共通認識の原因だとすれば、理性形式は倫理に対する共通認識の原因であるともいえる。

 

これはつまるところ「我々は何故神を解きあかせずとも、その共通概念をもつか?」「またそれはどのように生まれるか?」ということに対する一つの回答である。

 

ここで更に疑問が浮かぶ。

 

なぜ我々は言語という機能をもちながら、そしてそれを理解する直観形式を持ちながら、この世界の論理内の理すらもいっぺんに知ることができず、なぜ一歩一歩「想起されるように」しか歩めないのか。生まれながらにこの世界を直観しているなら、あらゆることが無限に最初から直観され、「自明」となっても良かったのではないか。

 

しかしそうならないのは、言語使用および思考の働きが時間的な作用であるためだと思われる。

 

例えば我々は「あ」といったところで、それはまだ使用の意味が不明確である。「あい」と言えば、「愛」の事なのか、それとも「あいう」と続くのかと予測していく。ついにそれが「あいにおける」と続けば、ほぼほぼ使用用途が「愛における」であると確定する。

 

このような事は時間的な働きの上で行われる。言語の使用が時間的な流れの上に、徐々に有意味性を確保していくように、我々の「理解」もまた、時間的な働きの上での有意味性の獲得によって行われる。意味がわからなければ正しく理解もできないからだ。

 

だから我々がもし、無限の時間をかければ、もしくは無限の速度で学習できれば、この世界の理は限りなく無限に理解されていたと言えるだろう。