「やりがい」「やる気」「モチベーション」の他力本願〜Kの思索(付録と補遺)vol.105〜
「やりがい」「やる気」「モチベーション」こそが真に人生に重要な価値観で、それが得られなければ不幸極まりないというような、地獄みたいな価値観を押し付けられる令和社会を見ている。
僕はべつにそれが絶対的な価値でも、生き方の真理でもないと思っている。
一時的に時代性が過渡期を示していて、声の大きい人がやたらとそれを声高に叫ぶので、それが文化として形成されつつあるように見えるけれど。
たぶん人生は、そんなに単純じゃない。夢が叶ったところで完璧完全に幸福とはいかない。
僕は、そういうやる気とか、やりがいとか、モチベーションとか、そういう諸々が、結局ことばの上の概念にすぎないと思っている。
きっと、真に我々に湧き上がるのは、ことばではなく、快楽か苦痛のそれだけなのだ。
そしてこの世は、残念だけど苦痛の方が多い。
我々が何かを食べるという行為を見ても、食べられる側の、すなわち殺される側の苦痛が、食べる快楽より少ないなんてことはないだろう。
そういう次第であるから、自分の気分が上がる刹那は、ただただ大事だ。
しかしながら、無限に降りかかるありとあらゆる雑多な「それ以外」にも乗って、川の流れのように揺蕩い、文字通り自分も流れていくことが自然だ。
なんて言ったらいいか、うまく言語化できない。
けれど、自分が楽しいって思うコトって、もっと貴重で尊いものだと思う。しかも刹那的であるはずだ。だから大切に慈しむ。すぐに無くなってしまうからだ。
本来そういう性質であるものが、人生の全てであろうとすると、色々と誤解するし、いつまでも手に入らないし、苦しくなるだろう。
集中しようと思うほどに集中出来ないように、「やる気」「やりがい」「モチベーション」も、それを得ようともがく程に得られなくなるはずだ。
僕は、それらが、色んな要因のもとで、結果的に「与えられるもの」という感覚を持っている。
すなわち、自力ではなく、他力の本願。
だから感謝しなければならないと思う。
もしくは、ただ自己が欲する動きに任せる感覚。
そしてそれが楽しめたり、集中できたら、とてもありがたい。そんなのは、たまにしかないからだ。
反対に、欲すると思っていた動きが、実は単なる「欲するべきだ」という義務感からくる欺瞞かもしれない。僕はそういう経験の方が多い。
そういう欺瞞にいかに惑わされず、またそれ以外のあらゆる雑多にも優しくなれるかどうか。
雑多の苦痛を容認できて、たまに訪れる快楽を慈しみたいと思う。
結局は全てが人生であって、人生でない部分など、一瞬たりともありはしないはずだから。