Kの思索(付録と補遺)

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「高杉晋作と吉田松陰」後半 天才へ受け継がれた狂の思想 高杉晋作の生涯~ Kの思索(付録と補遺)vol.110~

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画像:高杉晋作

 

前回の記事はこちら↓

「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~ - Kの思索(付録と補遺)

 

才気甚だしい者がいる。


そういう人間を、一般的な人々が養われるような画一的で、柔軟性の欠けた、小さな器で受けることは不可能である。


才気甚だしい者とは、ここでいう高杉晋作であり、小さな器とは、彼の通う学校であった。


晋作は言う。


「かれらはただ重箱のすみをつつくように字義の解釈のみをやっている。それになんの意味があるのか」


「思想というのは、字義の解釈を知り、道理を述べるだけでは意味がない。その道理に電光のような力が備わり、聞く相手を痺れされるものでなければならない」という。


思想は言葉であるが、その言葉に力があればこそ初めて、聞く相手の脳の電気信号を発火させ、行動を変えさせ、そこで初めて実際的なものを変化させる事ができる、ということであろう。


そういう意味で、晋作は実際家であった。結果として行動に現れなければ、どんな観念を勉強したところで、意味をなさないという思想があった。行動教である。


さて前回の記事で、吉田松陰の「狂い」は、彼の行動教にその原因の一端をみる事ができると記した。


ゆえに晋作を受け止めきれる「大きな器」こそ、前回の記事で紹介した吉田松陰であり、彼の開く松下村塾だったというのは、自然の流れであろう。


なお、吉田松陰を晋作に紹介したのは、晋作の学友であった久坂玄瑞である。かれは既に松下村塾の塾生であった。また当時の晋作の最大のライバルと言って良いほど優秀な人物である。のち、吉田松陰の妹を妻にし、蛤御門の変で死ぬ。

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画像:久坂玄瑞


そんな久坂が松下村塾入門のさいに書いた志願文書は、現下の日本を憂い、幕府の意気のなさを嘆き、なぜこうしないのかと自らの理想を延々とつらねる内容であった。


これに対して吉田松陰は以下のように評する。


「君の議論は浮薄で、思慮は粗雑である。ゆらい議論というものは、うちなる真心が外にあらわれ出るものでなければならない。君のはとうてい、至誠中よりするの言にあらず。結局、世の流行の慷慨をよそおっているだけある。それならば名利を求める者とすこしもかわりがない。僕深くこの種の文を悪み、最もこの種の人をにくむ」


凄まじい酷評である。


そこかしこで流行する評を物知りのように述べておけば、賢く見られるだろうという久坂の態度を見透かし、激しく罵倒している。おまえ自らの思いはどこにあるのだ、という。


吉田松陰という人物は、あらゆる人間に対し、おそろしいばかりの優しさをもった人物である。しかもその優しさと聡明さをもって人の長所を神のような正確さで見ぬき、在獄何十年という囚人をすら人変りさせてしまったという人物である。


もちろんこの久坂への罵倒はわざとであった。吉田松陰は内心、小躍りしていた。


少し解説しなければいけない。吉田松陰は師匠と弟子という関係を避けていたことはすでに述べた。


要するに松陰は、塾生と対等の関係をもち、自らも教えられようとしていた。そういう自らを教えてくれそうな久坂という大器が入塾してきたことに心躍り、思わず挑戦したのである。


その証拠に、この酷評の翌日、友人に対し


「久坂生の志気は凡ならず。なにとぞ大成せよかしと思い、力をきわめて弁駁を書き、それを送った。久坂がもしこれで大いに激し、大軍が襲いかかるようにして僕方に襲来してくるならば、僕の本望これにすぎるものはない」


と書かれた手紙を送っている。


面白いことに、久坂も獅子のように反撃文を送ってきた。松陰の意、ここに得たりと言わんばかりであった。松陰も嬉しくなり、さらに反撃文を重ねた。


ついには「久坂玄瑞はわが藩の少年第一流」と述べ、入門を許した。


いずれにせよその久坂から聞いた吉田松陰に、晋作は興味を持つ。18歳であった。かれは28歳で死ぬ。ここからの10年が、彼を歴史に刻みつけることになる。


晋作を見た吉田松陰は「奇士が二人になった」と思った。


松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人増えたと思った。


神の如き人物眼を持った松陰は「久坂の方が優れている」と晋作を煽った。これもわざとである。

 

晋作のような自負心のつよい男は一度その「頑質」を傷つけて破らねばならぬとおもった。ここで晋作の競争心を煽ることで、必ず非常の男として世に立つことになると見抜いた。


晋作も負けずに「どこが劣っていますか」と聞いた。いい加減な言い方を許さない男であった。具体的に指摘してほしいと詰め寄った。


松陰はいよいよ面白く、大いに指摘した。しかも、その言い方は非常に平易であった。シンプルに、まっすぐな言葉で伝えた。


晋作は欠点を指摘されているにも関わらず、聞くほどに高揚した。


これにより、晋作も松陰の師としての評価を確固たるものにした。


松陰の松下村塾は後世に名を高く残しているが、信じられないことに、その存続期間はわずか3年である。


松陰は江戸の獄中に送られた。いよいよ決定的な判決が下るのであった。


このブログでも繰り返し述べてきたことではあるが、今一度述べておきたい。


革命の初期は、卓越する思想を持った理想家が現れ、かならず非業に死ぬ。松陰がそれにあたる。


革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作がそれに相当し、この危険な事業家もまた多くは死ぬ。


それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能なかたちで革命の世をつくり、大いに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれである。


そして歴史の教科書に載るのは、多くはこの処理家たちであり、革命の途中で死んだものはことごとく、その名を忘れ去られていく。


我々は、吉田松陰が死ぬことを知っている。判決は死罪であった。大老井伊直弼による、いわゆる「安政の大獄」である。

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画像:井伊直弼


松陰の死生観を遺しておくには、ここが良いだろう。


「武士は守死であるべきだ。守死とはつねに死を維持していることである」


「死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。

生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」


辞世の句は、


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂


晋作は後に松陰の死を知り「師の思想を継ぎ、世を変える役目を果たすのは自分しかいない」と思った。


高杉晋作とは何者であろうか。


松陰は思想家であったが、晋作は思想家ではない。先も述べた通り、事業家であり、現実家であり、実際家である。


思想というのは要するに論理化された夢想または空想であり、本来はまぼろしである。それを信じ、それをかつぎ、そのまぼろしを実現しようという狂信狂態の徒が出てはじめて虹のようなあざやかさを示す。


松陰はその晩年、ついに狂というものを思想にまで高め、「物事の原理性に忠実である以上、その行動は狂たらざるをえない」といった。


思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松陰は知った。


そういう松陰思想のなかでの「狂」の要素を体質的にうけついだのは、晋作であった。


晋作は思想に酩酊するような性質ではなかったし、この時期は自らの狂いを懸命に抑えていた節すらある。だが、結果的には、後世の歴史的立場から彼を見たとき、その様は狂であったといえる。


だが、この時期の晋作は、まだ自分というものがわからなくて苦しんでいる。


天才であろう。しかしなんの天才であるかがわからない。ゆえに、何をやればいいのかわからない天才であった。


高杉晋作は後にこう語っている。


「およそ英雄というものは変なき時は非人乞食となって潜れ。変ある時に及んで龍の如くに振舞はねばならない。死すべきときに死し、生くべき時に生くるは英雄豪傑のなすところである。」


変なき時である今、そういう時の彼は、「放蕩放埒」という言葉をあたかも擬人化したかの如きありさまであった。酒とタバコに溺れた。


そして、女に溺れた。あたかも自らの生命を維持するためかの如くに必要とした。もし婦人と十日も接しなければ、晋作は自分の精神が正常でありつづけることに自信をうしなうほどであった。「英雄、色を好む」というが、晋作は正にそれであった。


このような有り様であるから、「自分は何事もこの世で為すことのない不能の人物ではないか」というおそれと不安と懐疑とが、晋作を、叫びだしたいような心境にさせた。


明確な才能としては、詩があった。


だが、詩文の世界よりもさらに革命という、詩を現実化するほうにその才能があったとは、晋作自身、この時期はあまり気づいていない。


1862年高杉晋作は海をわたって上海へ「洋行」した。当時の日本人にとって、驚天動地といっていいほどの重大事件である。鎖国は幕府の祖法であり、晋作の師である吉田松陰は、ある種、洋行を試みたために死んだのだ。


ただし晋作の場合は幕府からの派遣使節として、すなわち正式な認可を得た形での洋行である。これは晋作が上士の出であったことがまず一つの理由としてある。どんなに人物が偉大でも、その人物に相応しい馬でなければ、大きくは動けまい。晋作の場合は、その馬が「上士」という立場であった。


そして運のいいことに縁が巡り、洋行の人事を担う周布政之助に海外を見るにふさわしい眼力があると認められた。それがいま一つの理由だった。


そもそも日本の歴史にとって、洋行というのはそれ自体が異変でありつづけている。思想が一変し、文化までが変化した。遠く最澄空海が唐へ行ったがために日本の文化状況が一変したことでもわかるであろう。


ともあれ晋作ら一行をのせた「千歳丸」が長崎港を抜錨出港したのは、1862年4月29日の早暁であった。目的は貿易調査である。当時の幕府はすでに通商条約は結んでいたが、まの抜けたことに肝心の貿易実務がわからないのだった。それを実地で見てくるのである。


上海港では、日本中を震撼させたあの黒船が無数に停泊していた。晋作は改めて「西洋」というものの富力の大きさ、文明の発達度に衝撃を受けた。


結局、晋作は2ヶ月上海にいた。


この間、商館の外国人から「幕府が通商したがっているのに、大名が反対しているために事が運ばない。日本では幕府よりも大名が強いのか?」というような質問をされたりした。


そういう外国人から見た対日観に触れた晋作は「なるほど幕府というのは、藩を集めて押せば倒せてしまう、朽木のようなものではないか」という実感を得た。彼はこのとき「革命」を生涯の事業とすることを決意した。


さて晋作は上海から帰ってきて早々に、革命の大戦略を立てた。


長州藩は滅んでも良い」ーーそれが骨子であった。自らの藩を滅ぼすことと引き換えに、革命を成そうとした。肉を切らせて骨を断つーーどころではない。骨を切らせて骨を断つ、死中に活路を見出すやり方であった。


結局、のちに長州藩は滅亡寸前まで追い込まれることになる。だが坂本龍馬薩長同盟などもあり、晋作も龍馬にはだいぶ無茶なお願いをして、結果として革命は成る。しかしすでにこの時点で、滅亡の覚悟を持って作戦を構想していた。そういう人物は晋作以外にいないだろう。


彼は戦略家であると同時に、戦争家であった。戦争が好きであった。そういう血の騒ぎを、常時は放蕩放埒を持ってなんとか沈めているような男であった。彼のような男には「日常」や「普通」が理解できないだろう。


まずは外国を怒らせる。そして戦争に持ち込む。万人が侵入軍と戦うだろう。既成の秩序は壊れ、幕府も何もあったものではなくなる。そういう攘夷戦争の中から、民族としての統一を生み出し、新国家を樹立する。それをやってのける以外、その他全ての革命理論は、たんなる抽象論にすぎないと思っていた。


英国の植民地だったアメリカは、英本国と決戦することによって人心が団結し、ついに砲煙のなかでアメリカ合衆国を成立させたが、晋作はそれをやろうとしている。


この時期から彼の行動は、後年、伊藤博文が晋作の碑に碑銘をきざんだように「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」というようになる。


まず外国公使を襲撃すると決めた晋作は、手始めに脱藩する。藩に迷惑をかけないためであった。と同時にこの当時、脱藩というのは捕まれば死罪に値する行為である。


そのような身で、自らと志を同にする「死士」を集った。「御楯組」という攘夷決行の決死団である。二十二人を得た。ほとんどが松下村塾の門生あがりであった。


彼らとともに、晋作は御殿山の英国公使館に火を放って燃やした。その後、幕府は長州人の仕業らしいというところまで調べをつけたが、政治的対立を恐れて、それ以上に踏み込まなかった。これにより、晋作はいっそう幕府という権威の弱まりを実感した。


どうもこの男は自分の命を賭け金にして、幕府の権威を確かめるという博打をしている節がある。


次に行ったのは、師、吉田松陰の改葬である。この安政の大獄大老井伊直弼より直々に死刑を受けた公儀の大犯罪者は、小塚原の刑場に埋められていた。


その遺骨を御楯組の手で掘り起こし、行列で連れ立って、世田谷村若林の大夫山にある毛利家の別荘地へ埋めなおそうという試みである。堂々たる幕府への挑発である。


もちろん晋作は、博打を打つにしても、絶対に負けるという勝負には張らない。


井伊直弼はすでに桜田門外の変で斃されている。これによって政情が大いにかわり、幕府の態度は軟化していた。朝廷は幕府に対して、安政の大獄で罰したものについての大赦を行えと沙汰していた。

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画像:桜田門外の変


晋作は、もしこの改葬を幕吏が邪魔をすれば、問答無用に大槍で突き伏せるつもりであった。ただでは済まないだろうが、天下が騒げばそれでいいと構えていた。


途中、「御成橋」という神聖橋に差し掛かった。将軍が寛永寺に参拝するときにかぎり、将軍ひとりのために用いられる橋である。当然、橋向こうには番所が置かれ、役人が詰めていた。


その神聖橋を目前にした葬列に、晋作は、


「真ん中を渡れ」


と言った。


日当でやとった六人の甕かつぎの人夫は仰天し、「あの橋を渡れば首を刎ねられます」と叫んだ。


しかし晋作は人夫のえりがみを掴んで「渡れと言ったら渡れ」と引っ張りながら、ついに馬蹄を橋にかけてしまった。


番士が驚き、飛び出てきた。しかし正月であったため、一人であった。番士は「この橋が神聖橋であることを知らぬか!」と喚いたが、晋作は大槍を掲げて「どけ!」と一喝した。


そうこうしているうちに、見もの衆が群がって、数百人になった。それを見計らい、「勤王の志士、吉田松陰の殉国の霊がまかりとおる。担い手は長州浪人、高杉晋作である。」と言って、ついに橋を渡り切ってしまった。


幕府の大罪人の、しかも死骨を運んで、将軍一人のためにある神聖橋を渡るなど、暴挙そのものあった。もちろんこの騒ぎはすぐに幕閣へ届いたが、これほどの事件でも幕府は不問にした。


幕府に対する晋作の挑発は続く。


1863年3月11日、京にて行幸が行われた。晋作はその見物衆の中にいた。天子の籠が通る時、この男は大刀を傍に置き、ひざまずき、長々と拝礼した。これは天子を地上で最高の価値とする松陰の教えであった。


さてこの行列に、将軍、徳川家茂もあった。

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画像:徳川家茂

 

当時の幕府の作法で、将軍の顔というのは大名でも見ることができない。上目で見ることすら非常な非礼とされていた。よって、ひとびとはみな土下座し平伏している。


が、晋作だけは顔をあげていた。そして、


「いようーー 征夷大将軍。」


と叫んだ。


晋作は、幕府が手を出せないことを知っていた。彼の戦略眼がよくわかるエピソードである。


この行列は、あくまでも天子の行幸であり、晋作の無礼は天子に対する無礼ではない。だから幕府にそれを咎める機能はない。しかも誰もが天子の行幸を乱すわけにはいかないと思った。それこそ非礼の極みであろう。すべて晋作の計算どおりであった。


だが、晋作という男はまことに不安定な男である。上への振れ幅が大きいほど、下への振れ幅も大きいものだが、このあと程なくして「出家する。坊主になる」といい、庵に籠ってしまった。


晋作の狂いが鎮静に向かったのと引き換えにするかのように、今度は長州藩そのものが狂った。


攘夷を決行するため、米国の貿易船ペンブローク号に対し、藩の艦砲と沿岸砲をもって砲撃したのだ。これが第一戦であった。たかだか日本の一藩が世界中に向けて宣戦布告をしたようなものであった。


続いてフランスの通報艦キァンシャン号へ砲撃し、水兵4人が死んだ。続けてオランダ軍艦メジュサ号へ砲撃した。


さて、このようなやりっぱなしが長く続くはずがない。まずはアメリカの軍艦であるワイオミング号が復讐にきた。惨敗であった。


ここまで4戦1敗である。だが1863年6月5日、5度目の戦いで、フランス巨艦2隻に大敗北する。これは長州藩の自信を根こそぎ削ぐものであった。


人々は英雄を待望した。もはやなりふり構ってはいられないだろう。長州藩主は晋作のもとに使いを走らせた。庵に籠る晋作に対し、使いは藩主の命令を伝えた。


「かつての脱藩の罪をゆるすとのお言葉でござる。いそぎ山口へ参るようにとのこと。火急でござるぞ」


晋作は下関防衛の司令官となった。運命というものはまことに想像ができないものだ。かつて、脱藩し、その後幕府を大いに挑発し、つい先日まで坊主になっていた男が、今や対外戦争にて長州防衛を背負う指揮官となっている。


この時、晋作24歳である。この若造に指揮権を預けねばならぬほど、すでに長州藩は逼迫していた。


晋作は下関に向かいながら、どうするかと考えた。結論としては「新たに一軍を起こすしかない」ということであった。


今回の下関、馬関海峡での戦争で得られた重大な事実は、もはや上士階級の者どもに胆力が無くなっており、みな腰が引けていることであった。徳川政権の長期安泰の中で、家禄だけを継いで暮らしてきた者どもである。当然であった。


比べて、勇敢に戦ったのは足軽階級以下の者達だった。上士になればなるほど命を惜しんで逃げたがった。つまり、


「無差別階級の兵団を創設したほうが強い」


これが晋作の有名な「奇兵隊」である。志が強い者であれば、階級は問わない。この封建社会にあって、この身分を問わない軍隊を成立させること自体、一つの革命であった。

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画像:奇兵隊


下関海峡は、長州藩によって封鎖されている。米仏蘭は「この封鎖を解除しなければ、我々の軍事力によって排除するしかない」と脅してきた。


藩はそれを蹴った。戦略論としては、誰が見てもまったくもって無理無策である。いま、長州に体力はない。それなのに米仏蘭と戦って勝てるはずがない。


だがこういう場合、幕府を含めた政治的なパワーバランスが絡んだがゆえに、通常考えるとあり得ないような意思決定が行われているものである。今回もそれであった。が、その内容は本筋から離れるため今は書かない。


結局さらに英を追加する形で、英米仏蘭という四ヵ国、十七隻の連合艦隊が長州にやって来ることになった。これではどうしようもあるまい。結局、長州藩は艦隊によって逆封鎖され、沿岸は敵の陸戦隊の占領下に置かれた。もはや、どうにか講和するしかない。


よほどの胆力の持ち主でなければ、この大役は務まるまい。この長州藩代表の講和使に、晋作が選ばれた。臨時の筆頭家老まで引っ張り上げられた形である。


アーネスト・サトーという人物がいる。イギリスの駐日公使として、通訳官を務めた。彼は自らの仕事を通じて、明治維新の政治的風雲を広い視野で眺めることができた。彼の書いた日記は、明治維新を知る上で第一級の資料となっている。

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画像:アーネスト・サトー


そのサトーが、今回の晋作と四ヶ国艦隊との講和の模様を日記に綴っている。晋作の様子については、


「魔王のように傲然とかまえていた」


と描写している。


晋作は藩から託された講和書を提出した。司令長官のクーパーは全くあきれた。降伏するともなんとも書いていないのである。まずは謝罪状を持ってこい、交渉はそれからだ、とクーパーは言った。


ところが晋作は「べつに長州藩は戦には負けておらぬ」と言い放った。これにはクーパーも笑い、海岸の荒れ果てた様子を指差して「あれでも負けてないと言うのかね」と返した。


「魔王」はゆっくりとうなずき、「負けていない」といい、続けて、


「貴艦隊の陸戦兵力はわずか二千や三千にすぎぬではないか、わが長州藩はわずか防長二カ国であるけれども、二十万や三十万の兵隊は動員できる。本気で内陸戦をやれば貴国のほうが負けるのだ、われわれは講和する、しかし降参するのではない。」と高々と言った。


無論、ハッタリである。長州は滅んでも良いと言う覚悟が彼の隠された基底にあるからこそ、このような言が放てるのである。


だがクーパーも司令長官を務める男である。さらに鋭く斬りかかってきた。賠償金である。「三百万ドル」と言った。これは長州藩が50年かかっても払えないほどの巨額であった。


晋作は「今回の攘夷は、幕府と朝廷の命によって行われたものである。よって賠償金については幕府が払う」と言った。「魔王」は、朝廷と幕府の攘夷命令書を持ってきていた。


クーパーは、賠償金を幕府に交渉することに同意した。幕府なら取りっぱぐれがないと思ったのである。というのも、幕府がこれに「ノー」と言えないのを知っていたのだ。


もし幕府が「長州藩の責任」と言ってしまえば、長州藩は独立国家であることになり、解釈を拡大すれば、三百諸侯すべてが独立国家であることになる。幕府が日本唯一の正式政権であるという大前提が崩れるのである(現に、この賠償金については幕府が年賦返済し、幕府崩壊後は明治政府が肩代わりした)。


しかしクーパーは念の入った男である。調印の直前になって「あの彦島を抵当として租借したい」と言い出した。「租借」というのは体のいい言い方で、本心には、いずれ我が国の領地にするという狙いがある。


これに対し、晋作は大演説をやり始めた。古事記日本書紀の講釈であった。これにはアーネスト・サトーという語学的天才でも通訳しかねた。


「そもそも日本国なるは、高天ガ原よりはじまる。はじめ国常立命ましまし、つづいて伊弉諾・伊弉なる二柱の神現れまして……」と延々続くのである。晋作の舌は止まらない。


誰もが呆然としていた。皆が「こいつは狂ったのではないか」と思った。だが晋作の方は、2日間でもこれをやって、ゆえに日本は一島たりとも割譲できないと言うつもりであった。流石のクーパーもこれにはたまりかねて「租借の件は撤回する」と言って、調印した。


さて長州は、もはやこの維新の風雲の火薬庫のような存在になっている。「こいつをこのまま放っておいたら、幕府もろとも吹っ飛んでしまう。いっそ滅ぼしてしまえ」という気分が、幕府の上下にみなぎり始めた。いわゆる幕府の「長州征伐」であった。その先鋒は新撰組である。


維新の資料が豊富であることの理由として、書簡が多く残されているというのがあるが、晋作のこの時期の心境も手紙として残されている。


「生とは天の我れを労するなり。死とは天の乃ち我れを安んずるなり。」


要するにこれが、生の目的とは何か、ということに対する、晋作の答えである。すなわち、


「生とは、天がその生に目的をあたえ、その目的のために労せしめるという過程であるにすぎない。逆に死とは、天が彼に休息をあたえるというにすぎない。」


高杉晋作の人生や、大政奉還を成した直後に散った坂本龍馬の人生を思うにつき、上記の思想はまとこに至言であると思わざるを得ない。事を成す英雄のみ、真に理解できるものである。


この思想においては、自らの命はただ天命に委ねられており、それをどう使うかは天の勝手である、という境地にある。


すなわち事が成り、生き続けることになっても、まだ自らには成す事があるという天命が降っているということである。また逆に命が無くなっても、それもまた天命である。だから命を自らどうこうしようと思わない、生きようが死のうが、天の勝手であるーーそういう境地である。


幕軍が大挙長州へ押し寄せてくる。本当に倒すべき敵は外国であるはずなのに、その解決のためにはまず、内部統治のための戦いに9割を割かねばならない。これは政治の力学と言うべき皮肉であろう。


1866年6月7日、幕府は長州に向かって事実上の開戦をする。「四境戦争」と言った。その名の通り、幕府は長州藩国境を四方面から攻めようとした。


周防大島という、長州藩最大の島がある。幕府はこの島をもって海軍の根拠地にしようとした。6月10日、幕府の艦隊はことごとく集結し、陸兵は全部上陸した。


晋作は兵をかき集めた。が、海軍のことなどろくにわからない壮士たちばかりである。晋作は、こういう連中を軍艦に乗せ、共に幕府艦隊と海戦をしようというのであった。無謀を通り越している。


そもそも機関を焚けるものがいない。晋作は、土佐の浪士である田中顕助を指名した。顕助は驚いた。むりもないだろう、彼は蒸気船にすら乗ったことが無かった。後にこの時のことを追憶談になるごとに語っている。

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画像:田中顕助


顕助が「無理です」と断ると晋作は一喝し、


「汽罐など、風呂屋の下働きでも焚けるのだ」


と言った。やるしかなかった。


そもそも長州の軍艦というのは「丙寅丸」といい、200トンしかない。これに対し、幕府の「富士山艦」は1000トンである。軍艦の強さは、そのトン数に比例するというのは常識であったことからも、晋作の無謀さが際立つ。

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画像:富士山艦


余談であるが、晋作は生涯、「こまった」という言葉を吐かなかった。困った、といったとたん、人間は智恵も分別も出ないようになってしまう。「そうなれば死地となる。活路が見出されなくなる」というのが、晋作の考えだった。


しかも晋作には長考という習性がなかった。その思考は常に居合のように短切で、そのくせ桂馬のような跳ね方をし、常に奇道であった。天性の戦略家と言っていい。


その晋作も、この時ばかりは「長考」した。1時間であった。しかも両足は天を向き、頭を畳の上に転がし両手で支えていた。逆立ちの姿であった。この1時間で晋作は幕府艦隊に対する戦略を思案しきった。


晋作は扇子一本で丙寅丸へ飛び乗り、「軍艦の夜襲をやる」といった。この当時、夜戦とか夜襲とかいう思想はヨーロッパにもない。しかも軍艦に関してはズブの素人群がそれをやるというのだ。


晋作は、「要するに、先手をとって幕府の度肝を抜くのだ。度肝を抜かれた兵というのは、ことごとく大したことがなくなる」と言った。


幕府の艦隊が不用意であったのは、ことごとく汽罐の火を落として寝静まっていることであった。とはいえ、夜襲などという概念がない以上、これは致しかないことでもあった。晋作の戦略が上まわったに過ぎない。


汽罐というのは、一度落としてしまうと、そう簡単に焚き直せるものではない。風呂桶の水でも、湯に成るには相当の時間がかかるのである。


晋作は幕府艦隊へ忍び近づいた。海図もなく、暗礁もわからないのに、ろくな操船技術のない素人群がこれをやってのけたのは、晋作の天賦のカンと、運の良さによったとしか言いようがない。


晋作は幕府艦隊への一斉射撃を命じた。と同時に、各艦への間を機敏に動き回った。砲撃の命中率というのは、敵艦までの距離に比例する。この時の距離は、近いなんてものではなかった。目の前に聳え立つ山という形容がふさわしい。砲撃はことごとく命中した。猛烈な損傷を与えた。


この間、幕艦の乗務員の狼狽ぶりは滑稽というほかなかった。汽罐に火を入れる者、甲板を走る者、砲側にとりつく者など戦い以前の問題であった。しかも丙寅丸は小さく、しかも機敏に動き回っているため捕捉しづらい。ついに幕艦は味方の艦を撃ち、さらに味方に撃ち返すなど、大混乱を極めた。


とはいえ幕艦に本格的な射撃用意が整ってしまえば、丙寅丸などは象に踏み潰されるアリ同然である。晋作は引き際も心得ていた。


晋作はこの間、大刀を杖に、扇子を持って、艦首に立ち続けていた。まるで千両役者の風貌であったと語り継がれている。やがて幕艦から黒煙が出始めたのを見て、即座に闇に紛れ、逃げてしまった。1866年6月12日のことであった。このあと幕府艦隊は大島を捨て、長州藩の海域からも遠く去っていった。


「次は小倉城だ」と晋作は言った。まさに雷電風雨の狂いであった。だが同時に、肩で息をしていた。ときに晋作、27歳である。かれは幕軍の根拠地である小倉城を攻め落とし、その生涯の終止符とするつもりであった。

 

晋作はこの小倉城の攻略作戦を、病のために身を横たえながら総指揮した。肺結核であった。もはや立てないほどに悪化していた。凄まじいことに、この小倉城の攻略作戦をも成功させる。


だが晋作は、これで力を使い果たしたと思った。


1867年4月14日、自らの死を悟った晋作は、辞世の句を書いた。もはや力のない文字であった。


「おもしろき こともなき世を おもしろく」


この上の句を書いた段階で力尽き、筆を落としてしまった。枕頭にいた野村望東尼は、下の句をつけてやらねばならぬと思い、


「すみなすものは 心なりけり」


と書いた。


晋作は「…おもしろいのう」と呟き、息絶えた。


27年と8ヶ月という短い生涯であった。