Kの思索(付録と補遺)

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日々、雑記したこと~ Kの思索(付録と補遺)vol.115~

焼肉は、油がないものほど、さっと焼いて食べたほうが良い。

厚くて脂の多い肉は、余熱を考慮して中に火を通す。また表面が少し焦げるくらいが、脂の重さに肉の香ばしさが負けない焼き加減になる。

最初から高級な肉を食べると、満足感が出過ぎてしまうから、最後の方で食べた方が良い。

 

 

 

組織のトップオブトップを目指す人、全員に課すべき最高の教育は、「論じず、人を動かしてみよ」という縛りを設けることだと思っている。

そもそも論破は、人の矜持をいたずらにを傷つけ、彼には絶対に従わないと決意させてしまうシロモノである。

また何かを論じ続けるうちは、大衆を行動にうつさせるような、爆発的な感情の動きを呼び起こすことはできない。

 

 

 

コミュニケーションが取れるか取れないかは、その人への興味があるか否かの影響が大きい。

人に興味があれば、それだけ色々と話すことも出てくるだろうが、自分にしか興味がなければ、人から何かを聞こうとは思わない。

止まらない自分語りの原因は、つまりこうである。

彼は他人に興味がなく、聞きたいこともなく、とはいえ他人を側にしながらずっと無言でいるのも居た堪れないので、自分のことを語るしか、場を保つ方法がないのだ。

 

 

 

車の走行距離が、2年で、一日2.7キロ平均であった。

これなら必要がない。自転車でいい。維持費ばかりがかかってしまう。

本当に必要がある時は、タクシーでもカーシェアでも頼めばいい。そちらの方が安上がりである。

こうして物が減っていく。

必要十分の最適化を進めるほど、他人から見るとミニマリストにしか見えなくなる。

 

 

 

歌は、人生をただの舞台とし、自らをただ数ある物語の一部にしてくれる。

歌は、人生の断片に慰めのある虚飾を彩り、現実から一歩引いた視座で自らを俯瞰させることができる。

 

 

 

もし株の保有銘柄を整理しなければならない時は、淡々と、一番うまくいってないものから切るのが良い。

間違っても成果が出ているものから売ってはいけない。

それがたとえ「予想以上の成果が出た」と感じるものでもだ。

更なる予想以上の成果が生まれないと、どうして分かるのか。

 

 

 

睡眠はそもそもフレキシブルなものであるという本能に立ち返って考えた方がよい。

すなわち、動物の睡眠時間は、「暇さ」に比例する。

能動的な作業では、眠気はほとんど襲ってこない。だから、能動的活動時間の長さで、睡眠時間が決まる。

その生理的理由は、逆にもしやることがないのに活動したら、ケガするリスクが高まるだけだからである。

安全確保とムダの低減のため、睡眠する。

逆に活動する必要があるのに睡眠してたら、野生の世界では死んでしまうので、よほどでない限り、眠気は去るように出来ている。

 

 

 

社会学者の宮台教授による講義。

「Aすると、Bという得がある、だからAする」=条件プログラム的行為。

この多くは、人間らしさを失って、入れ替え可能な自動機械=「クズ」となる。

対して「Aしたいから、Aする」=目的プログラム的行為。

これが損得勘定のない行為者=マトモと呼ばれる。

鬼滅の刃ではこのマトモが煉獄さんと紹介している。

では、「悪いことしたいから悪いことする」も、マトモになってしまうのか?もちろんそうではない。

損得勘定を考慮しないとは、基本的に自己犠牲の形を取る。

特に自らの命を他者のために放り投げる自己犠牲が生命体としての極地である。

上弦の鬼である猗窩座と、煉獄さんとのセリフのやりとりが象徴的である。

「鬼にならなければ死ぬ、それでいいのか?」

「価値基準が違う、鬼になるより死ぬほうが良い」

古代ギリシアで広がったこの目的プログラム的行為=倫理による絶対的命令は、その背景に暗黒の時代があったからである。

そこで彼らが学んだのは、「善人ほど早く死ぬ」し、「善行が報われるとは限らない」ということであった。

一方エジプトでは、ヤハウェ信仰が起こっていた。

その信仰では「世界がこのようにデタラメなのは、人間が神の言葉に従わないからだ」とし、聖典を学んだ。

これをギリシャ人は「アホか」と軽蔑した。

ギリシャ人に生まれた信仰は「善人ほど早く死ぬ、だからどうした?」という倫理だった。