不要なものに、不要な投資しないためにはどうすればいいか。
そのためには、どんなサービスが永続するのか、その判断基準は何かということを考えれば良い。
もう名前にも上がらなくなったが、バリューという、人が人に投資するサービスは、結局上手くいかなかった。
これからはこういう時代が来る、だからこのサービスはいけるはずだ!という予測が、いかに脆いものかが分かる事例である。
予測の際の基盤は、まずはせめてテクノロジーにおくべきである。なぜならテクノロジーは利便性を持つ可能性が高いからだ。
結論。「それは多くの人に便利か?」を問え。
利便性が良くわからなければ、そのサービスは廃れる可能性が高く、不要な投資になる可能性が極めて高い。
会議の価値とは何であるか?その成果物は何か?
結論からいえば、それは煩雑に飛び交う情報の、整理された加工である。
またそれによって、何かやるべきアクションが決まることである。
情報が加工された瞬間のみ「働き」である。だから、議事録を書く人の「働き」が実は馬鹿に出来ない。
つまり良い議事録には「ペラペラペラペラいつまでも話すこの人は、要するに何が言いたいのか?」ということの本質が、常に一文に表現されている。
それが情報の加工というわけであり、良い働きなのである。
逆に、発言をそのまま書くのは、ダメな議事録の典型だ。
それならわざわざ議事録にせず、ボイスレコーダーで録っておけば良いだけである。
そして、問題を深掘るだけ深掘りして、アクションが決まらないのは、「会議のやってるフリ」だ。
「漢文やらせるくらいなら、市役所の使い方を教えた方が良いと思う」
一方で、
「生活の中において気づくという手法で学習するのには、限界がある。例えば虚数の概念は、その方法では発見できない。」
どちらも同一人物の発言だが、妙にモヤモヤしたので、意味のある情報にまで落とし込みたい。
一つ目は、漢文よりも市役所の使い方を教えた方が、生きるために役立つということだ。
つまり、「生きるために役立つか」を学習価値の最優先に置くということだ。
となると2つ目はどうなるか。
虚数の概念を学ぶよりも、その時間を、生きるために必要なことに特化した学びに当てた方が良いということになる。
虚数よりも、生きるために必要な学びはあるか?それはあるだろう。
あるだろうが、何が生きるために必要な学習かは、人それぞれなのだ。
例えば、藤井聡太みたいな天才は、高校を中退して、将棋一本でやっていくことを決めた。
CMのギャラで一生食っていける金も稼いだ。
高校を中退したので、それ以上の数学の概念は、学習できない。
だが藤井聡太は、それで困らない。
学習というのは、結局、いずれはどこかで取捨選択をすることになる。
全ての資格を持ってる人間はいないし、全ての学問分野をおさめ切った学者もいない。
もちろん、それが不可能だからだ。
取捨選択は、その天才性によって鋭さが決まる。
自らの天から与えられた才が、例えば藤井聡太のように、判明しきっているのであれば、その時点で、それ以外を切り捨てても困らないのである。
むしろ切り捨てなければ害になる可能性もある。
だが逆にいうと、何者になるのか全くわからないーー何の天才性の持ち主なのかわからないーーうちには、取捨選択する材料がないということになる。
何を取って何を捨てればいいのか、判明してないのだから、当然のことだ。
ところで天才は、数が少ないから天才なのである。
「みんな天才である」というような言葉の使い方はしない。凡人がいるから天才がいるのだ。
だから、多くの凡人には、鋭く取捨選択できるための判別材料など、そもそも無いということになる。
さて天才とは、時代のニーズによって変わる。
時代のニーズが求めた価値を、その分野で最も良く為した人間が、天才と呼ばれるのである。
例えばYouTuberが時代のニーズであれば、そのトップは天才と呼ばれるだろう。
しかし20年後、YouTuberが時代のニーズである可能性は、限りなく低いのではないか。
だから天才も、多くの場合、運で決まるのである。
(学問分野や競技分野や芸術分野での天才は、最初から枠が用意されているという意味で、特例なのだ。この枠はほとんどの場合、時代のニーズでいかようにも変化する。)
自らが天才ならば、もしくは天才として時代に選ばれる運を信じるならば、ハイリスクハイリターンの鋭い取捨選択をすれば良いだろう。
反対に自分が天才でないと思うなら、ローリスクローリターンの鋭さの欠けた取捨選択をすべきということになる。
結局は、自身の、自身による、自身への決断の問題ということになるのだ。
自分の人生に責任を取るのは自身しかいないという、驚きのない、つまらない結論が得られてしまった。
自らの影響力の大きさの、真の意味での指標は、なにか。
それはすなわち、自らの意志で、何人の手が動くかということにある。
実際に、「手が動いて」なければならない。
またその動く手の連鎖が何次まで続くかということである。
外食をほとんど毎日してると、どうなるか。
実体験だが、何を食っても外食の味で、全然ありがたみがなくなるのだ。
表現が難しいが、外食自体そんなにバリエーションがあるわけじゃないと気付くのである。
いつしか、給食感覚になってしまうといえばわかりやすいだろうか。
外食みたいに、美味しい信号が脳に直接ガツンと食るような味は、特別な日に酒でも飲みながらパーっと食ってストレス発散するような合法ドラッグ的扱いが、ちょうどいいのかもしれない。