Kの思索(付録と補遺)

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無意味の意味について~ Kの思索(付録と補遺)vol.125~

本を読んで面白いと思うこと、そしてそれが時に苦労して学び取ったと思うことも、片っ端から忘れていく。

ゆえに、その瞬間にだけ意味があったことになる。

ではその後ということになると、あるいは意味がないともいえるのかもしれない。

「たとえ全てを忘れたとして、それでも自分の中に残っている何かがあるのだろうか」と、考えることが多い。

その「何か」は総合的すぎて言語化され得ない。

であるなら、そこに意味があたえられていると、ほんとうに言えるだろうか。

言語化されない意味があり、そういったものが実は本質であるとするなら、「総合的な無意味」の中にこそ、本質的な意味があるーーと何やら詭弁のようなことが言えるのかもしれない。

いつかそういう無意味へと変遷する、今の瞬間のためだけの面白さがあり苦労があると捉えれば、そこに泡沫夢幻を観じざるをえない。

 

 

 

 

究極のところ、全てが運であるとバッサリ言い切ってしまっても良い。

あらゆる努力も、運に内包され、同時に外延されている。

「僅かな期待値を上げるための努力」と言う場合も、いやそれすら、努力を正当化しなければ落ち着かないために、無意識下の本心に反して言っている感覚がある。

とはいえ、あらゆる努力を止めてしまうことは単純にダサいことだろうし、きっとそこには虚無しか残らない。それに、あまりに不自然である。

「では努力に寄りかかってみよう」ーーそれもまた不自然だ。

それに上記したように、本来、努力は幻のように心許ないものだから、寄りかかれるほどしっかりしたモノではないと考えている。

さて我々は運がもたらす結果について、「なぜ」そうなるのか、と言うことに対し、絶対に回答を得ることができない。

とするとこの心許なさ、掴みどころのない虚無はどうしたことだろう。

明るく言い換えるのならば、本質的に幻なのである。であれば、何をしても、何をしなくても、意味なんてそこには本来、無いのだ。

いまふと、「人事を尽くして天命を待つとき、その人事は自分の中で自然であったか」ということを考えている。

不自然なことをして、天命が思うようにならなかった時、恐らく圧倒的自然である運を恨むことになる。

「私はここまで努力したのに、なぜ最後の最後で、神は私を突き放すのか」ーーと。

最初から自然であれば、「ここまでやった」という考えは恐らく出てこない。

「自らがやることを、ただただ自然にやった」だけになる。

そういう人であれば、最後に天運が見放したとしても、「しゃーない」とカラリ笑って、次の自然的行動に移行するだけだろう。

自分が自然だと思うことをやっていく。それをたとえば「圧倒的努力」などと言っているうちは、きっとまだ不自然な部分が残っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「〜すべき」というのは、結局、個々人の正義の観念のことだ。

そのような個人の観念に正義を置いた「べき論」を多用する場合、かれは現実と事実よりも、観念的な正義を優先することになる。

結果、優先順位とか工程感とかいう現実と事実を配慮できず、ただ「正義だから」という観念でのみ優先順位をつけることになる。

結果、周りにとってはまったくもって小さな、いやもしかすると問題にすらならない「その人だけの懸念」が、その人の権力如何によっては最優先事項に繰り上げられ、部隊が潰乱することになる。

ちなみに上記の理由から、「べき論」に「べき論」を返すことは、個々人の正義論を戦わせることであり、危険である。

それはすなわち神学論争なのだといえる。

 

 

 

コンピュータは原理的に0か1しか判断しないのだが、人間にもこういうタイプがいる。

例えば、「物事は全てベストかワーストか、正義か悪か、正解か間違いか、である」というようなタイプのことである。

こういうタイプは0か1かの機械的な仕事に向いているが、それ以外の仕事をすると、噛み合わなさすぎて喜劇的な面すら表れてくる。

ちなみに現実問題は、0でも1でもある時の方が多い。

ベストでもワーストでもなく、ベターを取るしかない時。

一方の正義が、一方の悪である時。

正解か間違いか、あとになってみないと分からない時など。

上記の具体例は現実において事欠かないほど挙げられるだろう。