Kの思索(付録と補遺)

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小泉進次郎構文を分析するという思索遊び~ Kの思索(付録と補遺)vol.127~

小泉進次郎構文って、結局どういう構文なんだ?と思ったので、うんうん考えていたら、以下の文章を書くのに1時間半もかかってしまった。なんて無駄な時間の使い方をしたんだろう。せっかくだからブログに放出する。

「今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。」

つまり、「aである、だからこそxは、aである」。

これは、同じことを繰り返しているからおかしいというよりも、むしろ【だからこそ】を使う意味がない。

「aである、だからこそxは、bである」と言わなければ、三段論法にならないので、意味がない。

 

「反省しているんです。ただ、これは私の問題だと思うが、反省をしていると言いながら、反省をしている色が見えない。というご指摘は、私自身の問題だと反省をしている」

つまり、「aである、しかしaであると言うものの、aのように見えないと言うご指摘をいただく。これはxということだとaしている。」

これは要約すると、「aしているように見えないという指摘にaしている」ということであり、文章的には間違ってない。

しかし大幅に要約できる。わざわざ噛んでふくむような内容は存在していない。

 

「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べてるというわけではないです」

つまり、「aしたいと言うことは、aしているというわけではない。」

そりゃそうだ。願望と行動は違う。わざわざ言う必要がない。

 

「約束は守るためにありますから、約束を守るために全力を尽くします」

つまり、「aはxのためであるから、aをxする。」

前半は、aというものの存在価値が、xにあるという。

後半は、aの存在価値を成立させるために、xするという。

これも文章的に間違ってはいない。

しかし、こと約束の性質を説明する場合、前半はわざわざ断っておく必要がないくらいに倫理的に自明であり、わざわざいう必要がない。

 

総合すれば、構文というものじゃない。構文は見つからない。

そうではなくむしろ、

「自明すぎること、言わなくても分かることを、(時に同じワードを繰り返し使いながら)何か新しい発見があるかのように語る」ということだ。

これが小泉進次郎構文のように見えたものの本質だ。

そう捉えれば、他の彼のセリフも、上記の本質から生まれているものだということが分かってくる。

小泉進次郎の他の語録を以下に並べておく。理解が深まった読者には味わい深いだろう。

「私の中で30年後を考えた時に、30年後の自分は何歳かなと、発災直後から考えていた」

「プラスチックの原料って石油なんですよね。意外にこれ、知られていないケースがあるんですけど」

「スプーン有料化でこれからは無料でスプーンが出てこなくなる。レジ袋有料化の発展版だ」

また、この本質を利用したもので、私が仮に小泉進次郎語録を作るとすれば、例えば以下のようなものなどいかがだろうか。

「服を着るというのは、着たい服がある為に着たい服を着るパターンと、服を着る必要があるために服を着るというパターンがある。」

じっくりと味わっていただきたい(ちなみに私は、どちらかというと小泉進次郎が好きなほうである)。

 

 

 

 

養老孟司先生が森について語る動画が面白かったので、そのとき書いたメモを以下に公開する。………

 

小学生が方程式を解いた結果、a=bになった。彼はそれに納得できなかった。だって、aとbは違う文字じゃないか。それが同じだって?そしたら、何でもありじゃねぇか。俺はそんな汚いことは出来ねぇ!

こういう小学生に対し、「a=bって方程式が示してるでしょ??」といった風に押し付けると、結局のところ全体最適を理由に、倫理が無視されていくようになる。

りんご=みかん=果物なら、果物が食べれる人はどんな果物でも食べれるでしょ?と割り切られてしまう。

実際はそこに幾つかのりんごアレルギーを持っている人がいるかもしれない。

学歴が得られ、普通に出世しやすいのは、素直にa=bが飲み込めた人間である。

しかしそれは倫理をやすやすと無視できる人間が社会のルールを構築する危険もあるのだ。

ある一般の場合だけにおいてa=bが成り立つことを知っておかなければならないし、俺は納得できねぇという感覚も持っていなければならない。

イコールにするというのは、人間の機能である。だからこそ自然に行ってみなければならない。同じものなど一つもない。ただ人間が同じとしているだけである。

りんごとみかんが分別できるのは、食べれば感覚でわかるからである。食べると言う身体性で持って、感覚の世界に戻せるのである。

しかし正義とか公正というのは、食えない概念であり、感覚による分別ができない。そんなものの対立を切った張ったやるのは馬鹿である。出来るわけがないのだ。

概念だけで、頭だけで、抽象だけで、論理だけで考えていくと、どんどんコンピューターに近づき、それは個々人の倫理を無視するものになる。その限りなくコンピューターに近づいた人間を昔は、「官僚」と呼んだ。

個々人の倫理が失われることはすなわち、個人の生存のための合理性や生産性だけが重んじられることに繋がり、その結果、人間らしい社会は確実に失われる。

端的に言えば、子供が作られない問題であり、そんな社会が長く保たないことは、歴史が証明している。

我々は、頭という論理のパーツと、身体という感覚のパーツをもっとバランス良く融合する必要がある。

一言でいえば、身体で考える必要がある。………

 

私がいつも散歩しながら思索するのは、この養老先生の語ることに近しいものがある。

家に篭って思索し、文章を書くと、必ず具合が悪くなってくるのだ。

健康でないという心身の叫びだ。

 

 

 

 

「そんなに難しく考えなくても」と色んなとこで非常によく言われるのだが、その言葉を聞くと本当に、アイデンティティごとぶっ壊される感覚がある。

何故なら私はむしろ「どんだけ簡単に伝えるか」を自分なりに考え抜いた上で、一つ一つ平易な言葉を選んで発信発言をしてるつもりだからだ。

アイデンティティくらいは使うけど、アウフヘーベンとか、蓋然性みたいな言葉は極力使わないようにしている。

例えば仏教のことは仏教用語で語った方がニュアンスは正確だし情報は圧縮されているけど、それは万人に絶対伝わらない。

仏教のことを、仏教用語を使わずにどれだけ伝えられるか。

 

 

 

 

本来は感覚であるものを100%言葉によって伝えることはできないが、それを全て諦めることもまた自然ではない。

人間が言語というものを便利に使用する一面において、感覚を言語に乗せたというのは確実にあるからだ。

例えば臭いという感覚を言語に乗せた。

ではどう臭いのか?卵の腐ったような臭いだ。

という風に、言葉を積み重ねることで、出来るだけ感覚が言葉によって伝わるようにした。

たとえば三島由紀夫は、「ニュアンスや感覚といった微妙なものまで、正確な言葉の使用によって伝え切ろうと努力するのが、文章を書く者の使命である」と言っている。

 

 

 

 

最近、文章を書く際における助詞の連続に筆を止めることが多い。

これを防ぐ手法は確立してるのだろうか。

例えば上の文章だって、あえて下手に書けば

【最近(は)、文章を書くとき「は」、助詞「の」連続に、筆「の」止まること「は」多い。】

としても、まぁ意味は伝わるのである。

ただ、あきらかに見苦しい。

一方で、助詞を連続させた方が、本当に伝えたいニュアンスをダイレクトに伝えられるパターンも確かに存在する。

例えば上の文章なら、

【筆「が」止まること「が」多い】

と書いた方が、こちらの伝えたい気持ちは正確だったりする。

 

 

 

 

QOL向上のための観点は単純で、以下のように行う。

・まず日常で自分が最も時間を費やすのは何かということを挙げる

・その時間をより豊かにするためには、どうあれば良いかを言語化する

・その言語化を実現するための方法を検討する(例えば便利な道具を買ったりする)

ちなみに私がこれをやった結果、買ったものは「冷酒器」であった。