Kの思索(付録と補遺)

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他人の思考は脳に負荷をかける 他〜 Kの思索(付録と補遺)vol.88〜

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2019/7/20(土)

・4時まで夜更かししたせいで起床が10時に。そのまま友人に誘われエーペックス 。コントローラのスティックがギシギシしていたので、シリコンスプレーを買ってきて吹きかけて治す。しかしそこから2時間後、急にスティックの上入力操作がかかりっぱなしになる事態に。結局壊れてしまった!買い直さなければならない。コントローラが高くて笑える。ゲオで購入しようと思い、株主優待割引券を使おうとしたが、セカンドストリート系でしか使えないと言われる。流石に意味がわからない。


・自然が作った男女の身体の構造を見るだけでもわかるように、人は自分にない部分を相手にみると、そこに違和感をもって、惹かれることになる。ただし全てが自分にとっての違和感でできている存在は怪物という認識になり、かえって離れることになる。惹かれ合う存在というのは、ほとんどの点で自分と似ているが、適度に違う点がある。全く違うパズルのピースはどうやっても重なり合わないが、一部が欠け、一部が同じように尖ったパズルは重なることができる。


・DJ社長の炎上商法は凄い。ネットメディア時代のプロモーションとして一つの完成形である。ただし取り扱っているネタがパワハラ・セクハラなので、これを凄いというとパワハラセクハラをネタにするモラルを承認するのか」という解釈をする人が出てくるのは当然だろう。そのような解釈をする彼らは、それが「ネタがどうか」と言うこと自体は関係なく憤っている。では何に憤ってるか?それは、「これに誤って影響されたモラルの低い人が似て非なる事をし、その被害が自分に向くかもしれない」ということに憤っている。もしくはすでにそういう事を経験してしまっている人は憤らざるを得ない。そういうモラルがまかり通って承認される世の中に向かっていくことが憤りなのだ。例えばレペゼン地球の動画は全てネタであるが、ともすればイジメを助長しかねない過激な内容も含まれている。彼らはそういうグレーゾーンをいくことに対するプロ集団である。グレーゾーンがグレーゾーンだという、そのアウトとセーフの境界がわかるには、モラルが必要なのである。それを誤用する大衆は似て非なる愚を「イジメではなく遊びのつもりだった」と言いながら起こしてしまう。そして今回の件が果たしてグレーで済むのかどうか注目である。

 

2019/7/21(日)

・選挙に行ったことがない人は「どんな感じで投票するかわからなくて不安」というハードルで行かないこともあるのではないかと、ふと思った。「投票の仕方がわからずあたふたする様子を見られるのは大人として恥ずかしい」という理由だ。それが投票におけるデスバレーとなっている人も多いのではないか。大人になればなるほどその恥ずかしさはますます上がっていってしまうのだが、彼らは一生選挙に行かないのだろうか?実際は受付に促されるままやるだけなのだが。


・DJ社長の炎上と吉本の炎上で、ネットメディアとマスメディアの時代感が交差するSNS


・脳は、自分で考えることは負荷が少なく、他人の考えを理解しようとすることは負荷がかかるように出来ている。あなたの頭はあなたの型なのだから、他人の頭の型を自分の型にはめ込もうとするのは自然ではないのだ。だからSNSやニュースサイトにおいて、炎上等でさまざまな意見が飛び交う時、それを漫然と眺めて他人の意見を脳に入れまくる行為は非常に脳に負荷をかけていることになる。そういう漫然としたネットサーフィンで具合が悪くなってきた人はいないだろうか?情報の過剰な供給は、普通の脳なら脳疲労を引き起こすものだ。あなたの周りの頭が回る元気はつらつとした人の中で、スマホを片時も離さずSNSを眺めている人がいるだろうか?さらに、そういう様々な意見の大量のインプットはとても賢くなったような気がするものだが、実際には頭を悪くしてしまう。他人の頭が考えてくれたことがパーツとなって自分の意見の全体を形作る人の、どの部分が頭が良いと言えるのか?そこに彼の頭はあるだろうか。もちろん、世の中には天才を帯びた意見もある。しかしそういうものですら、自分の意見の説得力の補助以上に使用するものではない。


・思想家は理想を論理的に体型立て、その実現に奔走するものの、最後にはそれを後の世に祈る者になる。かれはいつも自分の理想、自分の格率に追いつけない。しかし革命家はしばしばその理想を実現するものとして世に現れる。例えば吉田松陰高杉晋作の関係がそれである。


・アニメが好きな人であれば衛宮切嗣衛宮士郎の関係とでも言えば、上記のことも伝わるだろうかなんて思う、余談。


・天気の子を再鑑賞。初回鑑賞では10点満点中4点だったのが、再鑑賞で9点に変わる。こんなに自分の見方が変わるなんて映画って不思議だ。待ち受ける臭みはクセへと変わり、奥にある味わい深さが見通せるようになった。良い映画だ。

 

2019/7/22(月)

・仕事をする。改善の機運だ。時代が追いついてきた。「いかに技術を伝承するか」という思考では、もはやこの流動性高く人手不足の時代に企業は生き残れない。「生産性はそのまま、いかに技術をなくしていけるか」という方向へとシフトしなければいけない。そしてこれは同時に、技術を持った人からの強い抵抗を受ける事でもある。


アニメは実写と違い、画に偶然に入り込む情報というのは極限まで減っている。真っ白なキャンバスにゼロから画を書き込んでいくものだからだ。実写ですら、ふとしたワンカットにも作者は何らかのメッセージを込めているものなのだから、アニメを映画という大画面で観るのであればなおさら、その事を意識しておくと審美眼が研ぎ澄まされる。映画というのは画を映すと書く。

 

2019/7/23(火)

友人とのハイライト

K「俺も『赤髪のシャンクス』『麦わらのルフィ』みたいなカッコいい呼び名が欲しい。」

S「意味がわからん。」

K「なんか案ないんか。」

S「お前の小学生の時の格好から『半そで短パンのK』でいいっしょ。」

K「カッコいいやつって言ってるだろ。『半そで短パンのルフィ』って嫌だろ。それが事実としても。」


・サ道の2巻が発売されたので早速読む。すごく面白い。1巻に引き続き、サウナ→水風呂→休憩で心身が整う、というとてつもなくミニマムな内容が書かれている。しかしそれがまるで人生哲学そのものであるかのように広げられていくから不思議だ。これだけ「やってみたい」と思わせる漫画もないだろう。そして私は「サウナトランス」も「ロウリュ」も既に経験している。サ道を読まなければ出会えなかった素晴らしい体験達である。日々のストレスが高い人にほど薦めたい漫画だ。


・哲学を哲学することに興味はない。哲学書は原文で読まなければ、という人がいるが、そういうのは哲学を研究する行為だと私は思っている。哲学に向き合うとき、私は研究者であるよりも、自分で哲学を構築したいと思う。ところで彼の哲学の言い回しにおける多少の変化を理解したとして、それが彼の哲学の全体の理解に、決定的な影響を及ぼすものなのであろうか?岩波文庫を読む人は全て、間違った解釈をしてしまうとでもいうのであろうか。もちろん正しい言い回しの理解を知ることで、彼をより正確な文脈で理解できることは否定しないが、そういう人は彼の思索の海に沈んだまま一生出てこられなくなるだろう。そしてその彼一人の理解に時間を取られ過ぎて、他の誰かの彼に対する決定的反論すらも知らないまま、一生を終えることになるだろう。そういう人は、自分以外の哲学者の事をよく知ってはいるが、自分自身の哲学を全く知らない人になる。そして自分自身の哲学は一切世に出ないことになる。過去の哲学を学ぶ理由は常に、自分がいつか、一本スジが通った自分だけの哲学を構築するためにこそあるべきである。だから、過去の偉大な哲学者の思想も、自分にとっては所詮は材料に過ぎないし、研究者ではなく哲学者になりたいのならば、そうあるべきである。自分自身の思索というものは常に、自分の中で発酵した知識から産まれる。そして発酵したものは常に、発酵に用いられた環境によって異なる独特の匂いを放つのだ。

 

2019/7/24(水)

・夕食に中華を食いまくる。おこげが一人前じゃない。絶対に3人前はある。器が完全に鍋だ。

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・いつもと比較すると鬼のような業務量をこなす。苛烈でギリギリな状況に置かれて初めて削れるものが見えてくる。削れるものを見出さなければ終わってしまう状況下というのは、たまには重要かもしれない。


・「これまでのやり方」は常に見つめ直さなければならない時代感だが、そういう見つめ直しは長期的な区切りでやるほど億劫になっていく。その上「これまでのやり方」に慣れている人が年を重ねるごとに増え、元来変化を嫌がるのが人間というところもあって、ますます伝統を変えづらくなる。だから一つ重要なのは、見つめ直すスパンを短くすることだ。そしてそれを習慣にしてしまうことだ。それでも変化を嫌がる人は置いていくという方向性をトップが取らねばならない。しかしトップでない多くの我々は?どうして人は変化を嫌がるのか?変化しなければ楽であり「やり方を知っている」というポジションを取っていられるからだ。それを「知りもしない人」の「ジャストアイデア」で覆すのは殆ど不可能だ。中には果敢に立ち向かう若手もいるが、そういう人は「意識だけ高い」などと嘲られ、多くは潰れて消えていってしまう。だがそういう精神性がなければ、この閉塞感も、停滞感も、疲弊した空気も、何も打ち破ることができない。歴史のどこを見ようと、何かを大きく変えた者はいつも強い迫害を受けていた。潰されてしまった何千人にならず、奇跡的に生き残った1人だけがそうなる。そして我々は今後そのどちらに含まれることになるのか、今の時点では知る由もない。

 

2019/7/25(木)

・昨晩の麻婆豆腐の辛さで胃がやられたためにギリギリまでトイレにこもって仕事へ。人間の尊厳か、仕事か。どちらも大事なのだ。その後、全力疾走してギリ間に合うも、今日はもう閉店の気分だ。滝のような汗というが、いまの僕は汗のような滝だ。


・自分が書き残した過去の記述を読むと、いまの自分とは違った考えを持っていたり、まるで別人のように感じたりするが、様々な経験を通して事実それだけ違う人になったのだろう。自分と他人は当たり前に区別をするが、自分と自分も時間をおけば他人と同じくらいに区別されるものかもしれない。


・喫茶店で休憩。ケーキセットがあるとチーズケーキを頼む率が高め。

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・久々にぶっ続けの座学を受ける。しかしコンサルというのは、本当に禅問答のような分析を永遠とこなしている。実際屋とは折が合わなそうだ。実際屋は原因の分析は一言でよく、「で、どうすりゃいいんだ?」という話を単刀直入に聞くだろう。

 

2019/7/26(金)

・現実家同士はお互いに現実的なところに着地させるように落とし込もうとするし、本気で対立しても物事がスムーズに進まないことが分かっているので、そのやり取りは概ね緩やかだ。しかし反対に、理想家同士のやり取りは過激だ。現実というより概念に生きている彼らは、現実的な人の感情やその他実際に「興味がない」ため、それを無視するからだ。そのため客観的には、異常者同士が暴走し激突しているように映る。


・理想家と現実家は反対である。そのため、理想家は現実と折り合いをつけにくいという傾向をもつ。ときに「狂った世界」などと表現する。彼らは現実に対する慰めを必要とする。ところで、音楽を狂ったように聴くというのは理想家としての傾向の徴となる。なぜなら音楽は常に現実をなんらかの形で慰めるものとして人類の営みに発生するからだ。また、もっと広く「現実に対する慰めとしての虚構に没頭する」のが理想家の徴と言ってしまっても良いかもしれない。


理想家が上記のような慰めとしての虚構だけに依存する状態こそ、もっともその個人を精神的に頽廃させていく。慰めほど依存しやすく、かつ気付かないうちに人間を弱くしていくものはない。反対に、理想家が慰めを捨て去り、現実の方に目を向けたときには、彼は実際にその心身を強く犠牲にしながら、それでもなお自分の本性である理想の中へと現実的に存在することになる。