Kの思索(付録と補遺)

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インフルエンサー特有の呟きが気持ち悪くなってきてフォロー外しまくったら僕の世界への影響が消えた~ Kの思索(付録と補遺)vol.129~

最近、インフルエンサーと呼ばれる人たち特有のつぶやきの型ーーこれは本人たちにとっては無自覚なーーが見えて来た。

それがどんなものかはまだ十分言語化はできないものの、一つ言えるのは、インフルエンサーは自分が特別で、そうでない人は自分より劣っているし、人生が幸せでないと決めつけている。

そういう見下しがすごく気持ち悪くなって、どんどんインフルエンサーのフォローを外していったら、その人の名前を僕の世界で見かけなくなった。

つまりフォロワーが何十万いようが、フォローを外せば、存在ごと消える。その程度のものだったということだ。

彼らがどう生きようがどう主張しようが、僕の世界にはなんの影響もない。

 

 

 

空間的にも時間的にも、常に必要十分でありたい。必要以上であっても十分以上であっても警笛が鳴る状態が理想だと思っている。

細い糸が常にピンと張られた状態だ。過剰に持っていたく無いし、持たなすぎるのもダメだ。

そういう性格である以上、やたらと色々なところにムダを見つけてしまう。

ところが「ムダだ、変えねば、楽にせねば」と思っても、実際それをやる側は、やる前より仕事が苛烈になる。

終わったら、その楽さを享受するのはやらない側であって、やる側はまた次のムダを見つけてそっちに移ってる。

「あれ、本人の仕事はいつ楽になったんだ?」

と思うけど、楽にはならないのが真理だと思う。

ムダな仕事を削ぎ落として価値のある仕事の部分だけを残すのは、他人の部屋を掃除して金を貰うのに似ている。

よく、掃除はどういう価値がありますかとか、断捨離するのになんの効果がありますかとか聞かれるけど、こう聞くってことは、なるほど、根深い問題だ、と思うのだ。

その辺に置いてある方が便利だと思っているか、いつか使うかもしれないから持っておく、という考えなのかもしれない。

絶対にどこかで物が見つからなくて困ったことがあるはずなのに、しかも何度もあるはずなのに、物を無くすのは自分の特性だから、と思っている。

日頃あらゆるところで身の回りの整理をそういうやり方でしているってことなのだから、そりゃなくすわ、ということである。

ムダなものを削ぎ落とす行為は、何がムダと思うかによって、得意不得意がでる。

捨てられない体質の人は、どこまで行っても突き抜けられない。

「大学時代のノートとか教科書は社会人2年目でほぼ捨てましたね」って言ったら上司が少し引いてた。

必要なものを必要なときに必要な分だけ持つと簡単にいうが、「この必要なもの」が当人の中にどれだけ少ないかによって、才能と言えるかもしれない。

もちろん、コレクター的性質は多かれ少なかれ誰もが備えている。

持っている、そのことへの価値は皆にある。

その物が棚にあり、その物を眺めることで、幸せになる、これは僕にもある。

この幸せを僕はまったく否定していない、ということだけは知っておいてほしい。

しかしそれとゴミが転がってるのは違う。

別にそれを見て幸せじゃないなら、はやく捨てろと言ってるだけである。

 

 

 

養老孟司先生の話が面白く、最近は動画を見ながらメモとして要約するのが趣味化している。以下は、すべてその時のものだ。

 

【感覚と論理】

ガリレオピサの斜塔からボールを落としたのは、感覚に訴えるためである。頭で考えると、重い方が先に落ちると思ってしまう。

そこで当時の教会(頭のいい奴らが頭のみで散々議論している)がガリレオを弾劾裁判にかけ、しかも教会の丸天井を騙し絵にし、「逆に感覚は当てになりませんよ」ということを訴えた。

感覚vs論理の、丁々発止のやりとりである。

さて都市社会、すなわち文明が発展してくると、必ず同時に芸術が発達することは歴史を見てもわかる。

文明の発展とは概念化、論理化の進行と同義であり、それによって、あらゆることが一括りに「同じ」とされてしまう。

本当は自然は何一つ同じではないのに、それが同じとされてしまうことに、我々人間の本能は抗おうとする。

この概念化・論理化への抵抗が芸術を生むのであり、「何一つ同じでない」ということを全身全霊の感覚を持って訴える行為の先が、芸術にぶつけられる。

 

【頭が良すぎるというのは、一種の病気】

統計による正規分布を血圧で取れば、150とかは高血圧になる。

一方で東大医3に入るものは、センター試験だと970点以上を取っていると言われるが、彼らを血圧で表せば300とかになるだろう。

血圧、すなわち身体の場合は病と言われるのに、頭の場合は、祝福されるのである。

高学歴すぎることを「頭に偏る病」と表現しても、上記の理由から言えば間違いではない。

そのような人間だけが集まった社会というのは、正規分布の中央値から大きく外れた、頭だけの社会になるだろう。

 

【脳の無意識的な活動を意識すること】
脳は意識的活動と無意識的活動がある。

無意識的活動が「たしかに有る」と思わなければいけない。

睡眠はその最たるもので有る。

意識的活動でどれだけ考えても解けない謎、そういう棘を、脳に刺しっぱなしにしておく。

そうすると、ある無意識的活動でその謎が急に解けるときが来るのである。

このような例は、ベンゼン環のヒントを夢にみたアウグスト・ケクレのようや天才だけに限らない。

トイレやお風呂に入っているとき急に閃いたり、熟睡して起きた時にはスッと謎が解けていたりする経験は我々にもあるだろう。

古事にも「三上」という言葉が残されているほどである。

意識は無秩序であることは出来ない。無意識である時にのみ無秩序であることが出来る。

秩序を生み出したら、必ず同じ数だけ無秩序の皺寄せが来る。

我々が寝なければならないのは、それゆえである。

もし意識がある状態だけ続けるならば、人間の脳は壊れてしまう。

覚醒剤の常用で脳が壊れるのはそういうことである。

 

【自然には本来、何一つ同じものなど無い】

概念で捉えているうちは全てのリンゴは同じリンゴになる。

しかし感覚で捉えるならば、全てのリンゴは別のリンゴになる。

言葉の使用と、ものの区別は切り離すことが出来ない。

自然を、言葉という概念で切り分けることが、何故か人間には出来てしまったのである。

しかし自然界には本来、何一つ同じものなどない。少なくとも動物はそう考えている。

猫にとっては、今日採れたサンマと、それから3日経ったサンマは別物なのである。なぜなら臭いが違うからである。感覚で判断するとそうなる。

概念で判断せず、感覚だけで判断するなら、自然界に何一つ同じものはない。少なくとも自然に生きる動物はそうなっている。

何一つ同じものがないとすれば、言葉は生まれようがない。だから動物は言葉を話せないのである。

しかし人間は何故か概念を生み出せる能力があった。これをカントは「知性」と名付けたのだった。

しかしそう名付けたところで、何故、そのような知性を持ちえたかの説明にはなっていないのである。

 

【言葉を話すことの本質】
正しい言葉というものは、あるようで、ないのである。

例えば字は、あらゆる人で形が違う。発音も、人によって異なるだろうし、声帯も違う。

それなのに、何故、言葉が伝わるのだろうか。

「それがそうだと分かるから」としか言いようがないのである。

我々は生まれてから今までそれを経験でもって訓練してきたから、分かるのである。

つまり、正しい言葉なんてものはないのだから、「分かるように伝われば良い」ということのほうがむしろ言葉の本質なのだ。

逆にいえば、100%正しい発音みたいなものがあると信じきり、ヒリヒリとビビりながら意識しているうちは、いつまでも外国語を話せるようにはならない。

例えるなら、我々は64角形を見た時に、それを「円」と認識するだろう。

しかしそれは厳密には64角形なのである。128角形でも同じだ。つまり、完全な円などは、概念にしか無いのである。

反対に、16角形くらいになれば、それは円ではないと言い出す人が増えてくるだろう。

言葉の使用もこれと同じなのだ。

訛りが強すぎれば、それをそれだと認識される精度が落ちるだけのことである。

 

 

 

日々の雑記、大放出~ Kの思索(付録と補遺)vol.128~

寝たきりの人が周りにどんな価値を与えるか。

それは彼の態度によるのである。

もし寝たきりの人が毎日を楽しく生きているとしたら、周りの人間は何か大きな感動を覚えざるを得ないだろう。

生きるということの最終的なものが何たるかを考え、そこに希望めいたものを感じることもあるかも知れない。

 

 

 

意識は無秩序であることは出来ない。意識のある時にランダムなことは出来ない。

無意識である時にのみ無秩序であることが出来る。

また秩序を生み出したら、必ず同じ数だけ無秩序の皺寄せが来る。

我々が寝なければならないのは、それゆえである。

もし意識がある状態だけ続けるならば、人間の脳は壊れてしまう。

覚醒剤の常用で脳が壊れるのはそういうことである。

 

 

 

「場」は一つの用意段階であって、場それそのものは、ただ「在る」という意味しか持ち得ない。

しかしそもそも場がなければ、以下のこともやはり生じ得ない。

つまり、場に引き起こされる諸現象である。

その諸現象のうち、何らかの目的を場に対して施すこと、それは「座」と呼ばれるだろう。

 

 

 

なぜかYouTubeでシラス漁の動画を再生したけど面白かった。

・黒光りした見るからに使える筋肉の漁師のあんちゃんが、半端ない運動量の働きをして、シラスを漁る。

・そのあと、漁れたての半端ない量のシラスを、1.5合くらいの飯にバシャっとぶっかけ、ワサビ醤油でガツガツと掻き込む。

こんなバキバキ体循環の生活してたら、常人とはかけ離れた最強の身体になるわね。

ただ職場に漁師の息子がいて、彼に「漁師ってやっぱめっちゃ健康なの?」って聞いたら、

「いや、体力はあるんですけど、健康かと言ったら、そこは微妙っすね」

との回答。

「え、あんだけの運動して、鮮魚食いまくってんのに?」

と聞いたら、

「それはそうなんすけど、アイツらみんな、酒の量が半端じゃ無いんですよ…」

なるほど、明確な理由だった。

まぁその半端ない量の酒飲めるのも、日頃のバキバキ体循環で鍛え上げられた内臓の強靭さゆえだろうが。

 

 

 

人間関係世界と、自然の世界が断絶している。人間関係で苦労したら、自然の世界を、それも生きている動物を見てみると良い。

彼らは生きる目的とかを考えない。ただ、生きているだけだ。自分の苦労が馬鹿みたいに思えてくるだろう。

猫とか見てると「こいつ、何のために生きてるかとか、絶対考えてねぇなぁ」と思う。

虫とかだと余計にそう思う。

「ただ生きている」、自然世界に従えばそれだけでしかない。そしてそれで良いとか悪いとかもない。

だってそれが自然なんだから。

動物の睡眠を見ていると面白い。

彼らは「寝ようと思って」寝ることをしない。

寝るタイミングなど、考えて寝てはいない。

まぶたが徐々に落ちてくるが、懸命に目覚めていようとする。

しかしついには耐えきれず、眠りに落ちる。

彼らの睡眠は常に「寝落ち」なのだ。

寝ることすらも、頭でなく、身体の本能的な自然の欲求に任せきっているのである。

「いや、犬を飼っていると分かるが、寝たくなったら決まった場所に赴き、寝にいく」

というような疑問もあるだろう。

これは余談になるが、当然、動物には知性の段階がある。

この睡眠の例も、犬より猫を見た方が分かりやすいし、猫よりも爬虫類を見た方が分かりやすい。

知性がある動物ほど、人間に似た行動を取れるようになる。決まったところに排泄するなどがそうだ。

それは、そう言う人間環境を、人間が整え、与え、躾けるから、そうなれる。

知性のレベルにより、人間の作った人工的環境に動物が合わせにいくことが可能になっているだけである。

そういう人間らしい動物の行動が、野生という本来の意味での自然的行為にあたるのかどうか。

余談が長くなった。

自然世界を見ることを忘れて、人間世界だけに傾くと、途端に幸せの基準が人間関係の善悪や利益になる。

頭で考えた幸福になる。

「成功するためには」とかインフルエンサーが良く言うけれど、成功って何だ?

よくよく考えてみると、そんなものに実態なんて無いことがわかる。

散歩をして、風を感じる、風景の移り変わりを感じる、月が綺麗だと感じる、こんなところに花が咲いてるんだと見つける、鳥が朝を知らせるように鳴く。

そういう花鳥風月は、身体で幸福を実感する。頭では無い。

現代人は人間世界ばかりを見つめるために、自然世界があるという当たり前を忘れがちになっている。

 

 

 

自分のやりたい無駄なことを存分にするために、それ以外のあらゆる無駄を削るのだ。

生産性のないことを存分に楽しむ時間を作るために、それ以外のことの生産性を上げるのだ。

生産性を上げることは、生産性をあげることそのものが目的じゃない。

それはただの機械であって、人間を捨てることである。

 

 

 

人は死を経験しない。自分が死んだことは分からないからだ。意識ができなければ、経験もない。死とはそういう性質のものだ。

さて、自分が死んだことが分からないなら、自分は永遠に生き続けているのかもしれない。

たとえば多世界解釈をするなら、自分が死んだ瞬間に自分が生きている世界へと意識が接続され、自分の死は無かったことになる。

たとえ寿命で死んだとしても、次の接続先の世界法則では、平均寿命が300歳の設定かもしれない。

世界のチャンネル切り替えに対して違和感を与えないような世界設定の調整と連続性が神によって完璧に図られているかもしれない。

今の自分は、もう何千、何万、何億回と死んだあとの、別世界に接続された自分の意識かもしれない。

もっと自由度を上げるなら、次のチャンネルの接続先は、自分じゃなくてもいい。

他人の自意識に接続されるかも知れない。それは神の自由であり、その変化に気付くことは決してない。

神の御業のもと、自分はいつまでも同じ自分だと思い続けるしかないのだ。

ニーチェ永劫回帰とも違う、永劫永続とでもいうような死生観である。

 

 

 

「本を読んでも、本当の意味で分かることは無い」ということを分かるために、本を読むんだろうと思う。

つまり、「はやく実践しなきゃ」と、自らをいてもたっても居られなくするために、本を読むのだ。

 

 

 

仕事で分からないことがあるのは、当たり前なのである。

何故なら、我々はそれまでの背景を知らないのだから。

生まれた瞬間、世の中に出るものは全員が遅刻してきている。

先生が偉いというのは、そもそもはそういう意味である。

その遅れを必死に取り戻そうとするのが、仕事なのである。

 

 

 

この人とは価値観があわない、という人は、例えばその人の誕生日知っているだろうか?好きな食べ物はどうだろう。

本人の本人たる部分は、仕事の意見どうこうよりも、まず最初にそういうところを知らずには、分かるわけが無いのではないか。

 

 

 

科学はなぜ意識を説明出来ないのだろう。

それは、そもそも科学が意識の中に包括されていることに起因している。

意識がないと科学は出来ないだろう。意識が無ければ、言語もなく、ニュートンの法則も生まれ得ない。

全ての人間がいなければ、科学的法則にどのような意味があるのか。

意味は、意識がつけるのである。

意識あっての科学であって、逆はあり得ないのだ。

 

 

 

読書をしている間は誰にも追われないのである。

何故なら、こちらが先人を常に追う時間だからだ。

 

 

 

生きているとは何か?ということが分かるには、生き物が作れるようになって初めて分かるだろう。

 

 

 

いつも物を考える人というのは、いつも自分と周囲の折り合いが付いてないから、考えを止めることが出来ないのである。

 

 

 

緊張しやすい人は、自己信頼度が高い人らしい。

というのも、「それが確かに出来るだろうか?いや俺ならやらなければならない」という不安に襲われるからである。その不安が緊張に繋がる。

反対に、60点を取れば良いや、自分そんなに凄くないし、と心から思ってれば、緊張しないことになる。

 

 

 

傷をつけた時の治りは、老人よりも子供の方が早い。

つまり子供は、体験の1サイクルが早いと言えるだろう。

この肉体の体験サイクルは、当人の時間の感覚というクオリアに直結しそうである。

そうなると、一年ということを基準にした時、一年の体験サイクルを子供の方が多くこなすことになる。

子供にとっての一年があれほど長く感じたのは、そういうことかもしれない。

 

 

 

文章を要約して簡潔に伝えることが、本当に全ての場合で良いと言えるだろうか?

例えば、あえて猿にでも分かるように細々と文章を連ねたメールを送ればどうだろう。

相手はそれを要約する必要があるが、あえてそうさせることで、相手は自分の頭の良さを感じ、気持ち良くなりはしないか。

このことによって、最初から自分で要約をしたメールを送るよりも物事が簡単に進むことがあるかもしれない。

 

 

 

プレゼンや起案を通すのに、事前の話をしつこくやって置くことが99%の成果を決めることになる。

反対に、ジャストアイデアの提案をいきなりしても、だいたいエレベータートークになる。

そんな話を初めて聞いて、1発OKなんてことは殆どないだろう。

その上、ケチをつけたい役回りの人もいる。

そういう懸念事項を事前に時間をかけてプチプチ潰す根回しをすることで、いざプレゼンになった時、何事もなかったかのように話が通るのである。

小泉進次郎構文を分析するという思索遊び~ Kの思索(付録と補遺)vol.127~

小泉進次郎構文って、結局どういう構文なんだ?と思ったので、うんうん考えていたら、以下の文章を書くのに1時間半もかかってしまった。なんて無駄な時間の使い方をしたんだろう。せっかくだからブログに放出する。

「今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。」

つまり、「aである、だからこそxは、aである」。

これは、同じことを繰り返しているからおかしいというよりも、むしろ【だからこそ】を使う意味がない。

「aである、だからこそxは、bである」と言わなければ、三段論法にならないので、意味がない。

 

「反省しているんです。ただ、これは私の問題だと思うが、反省をしていると言いながら、反省をしている色が見えない。というご指摘は、私自身の問題だと反省をしている」

つまり、「aである、しかしaであると言うものの、aのように見えないと言うご指摘をいただく。これはxということだとaしている。」

これは要約すると、「aしているように見えないという指摘にaしている」ということであり、文章的には間違ってない。

しかし大幅に要約できる。わざわざ噛んでふくむような内容は存在していない。

 

「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べてるというわけではないです」

つまり、「aしたいと言うことは、aしているというわけではない。」

そりゃそうだ。願望と行動は違う。わざわざ言う必要がない。

 

「約束は守るためにありますから、約束を守るために全力を尽くします」

つまり、「aはxのためであるから、aをxする。」

前半は、aというものの存在価値が、xにあるという。

後半は、aの存在価値を成立させるために、xするという。

これも文章的に間違ってはいない。

しかし、こと約束の性質を説明する場合、前半はわざわざ断っておく必要がないくらいに倫理的に自明であり、わざわざいう必要がない。

 

総合すれば、構文というものじゃない。構文は見つからない。

そうではなくむしろ、

「自明すぎること、言わなくても分かることを、(時に同じワードを繰り返し使いながら)何か新しい発見があるかのように語る」ということだ。

これが小泉進次郎構文のように見えたものの本質だ。

そう捉えれば、他の彼のセリフも、上記の本質から生まれているものだということが分かってくる。

小泉進次郎の他の語録を以下に並べておく。理解が深まった読者には味わい深いだろう。

「私の中で30年後を考えた時に、30年後の自分は何歳かなと、発災直後から考えていた」

「プラスチックの原料って石油なんですよね。意外にこれ、知られていないケースがあるんですけど」

「スプーン有料化でこれからは無料でスプーンが出てこなくなる。レジ袋有料化の発展版だ」

また、この本質を利用したもので、私が仮に小泉進次郎語録を作るとすれば、例えば以下のようなものなどいかがだろうか。

「服を着るというのは、着たい服がある為に着たい服を着るパターンと、服を着る必要があるために服を着るというパターンがある。」

じっくりと味わっていただきたい(ちなみに私は、どちらかというと小泉進次郎が好きなほうである)。

 

 

 

 

養老孟司先生が森について語る動画が面白かったので、そのとき書いたメモを以下に公開する。………

 

小学生が方程式を解いた結果、a=bになった。彼はそれに納得できなかった。だって、aとbは違う文字じゃないか。それが同じだって?そしたら、何でもありじゃねぇか。俺はそんな汚いことは出来ねぇ!

こういう小学生に対し、「a=bって方程式が示してるでしょ??」といった風に押し付けると、結局のところ全体最適を理由に、倫理が無視されていくようになる。

りんご=みかん=果物なら、果物が食べれる人はどんな果物でも食べれるでしょ?と割り切られてしまう。

実際はそこに幾つかのりんごアレルギーを持っている人がいるかもしれない。

学歴が得られ、普通に出世しやすいのは、素直にa=bが飲み込めた人間である。

しかしそれは倫理をやすやすと無視できる人間が社会のルールを構築する危険もあるのだ。

ある一般の場合だけにおいてa=bが成り立つことを知っておかなければならないし、俺は納得できねぇという感覚も持っていなければならない。

イコールにするというのは、人間の機能である。だからこそ自然に行ってみなければならない。同じものなど一つもない。ただ人間が同じとしているだけである。

りんごとみかんが分別できるのは、食べれば感覚でわかるからである。食べると言う身体性で持って、感覚の世界に戻せるのである。

しかし正義とか公正というのは、食えない概念であり、感覚による分別ができない。そんなものの対立を切った張ったやるのは馬鹿である。出来るわけがないのだ。

概念だけで、頭だけで、抽象だけで、論理だけで考えていくと、どんどんコンピューターに近づき、それは個々人の倫理を無視するものになる。その限りなくコンピューターに近づいた人間を昔は、「官僚」と呼んだ。

個々人の倫理が失われることはすなわち、個人の生存のための合理性や生産性だけが重んじられることに繋がり、その結果、人間らしい社会は確実に失われる。

端的に言えば、子供が作られない問題であり、そんな社会が長く保たないことは、歴史が証明している。

我々は、頭という論理のパーツと、身体という感覚のパーツをもっとバランス良く融合する必要がある。

一言でいえば、身体で考える必要がある。………

 

私がいつも散歩しながら思索するのは、この養老先生の語ることに近しいものがある。

家に篭って思索し、文章を書くと、必ず具合が悪くなってくるのだ。

健康でないという心身の叫びだ。

 

 

 

 

「そんなに難しく考えなくても」と色んなとこで非常によく言われるのだが、その言葉を聞くと本当に、アイデンティティごとぶっ壊される感覚がある。

何故なら私はむしろ「どんだけ簡単に伝えるか」を自分なりに考え抜いた上で、一つ一つ平易な言葉を選んで発信発言をしてるつもりだからだ。

アイデンティティくらいは使うけど、アウフヘーベンとか、蓋然性みたいな言葉は極力使わないようにしている。

例えば仏教のことは仏教用語で語った方がニュアンスは正確だし情報は圧縮されているけど、それは万人に絶対伝わらない。

仏教のことを、仏教用語を使わずにどれだけ伝えられるか。

 

 

 

 

本来は感覚であるものを100%言葉によって伝えることはできないが、それを全て諦めることもまた自然ではない。

人間が言語というものを便利に使用する一面において、感覚を言語に乗せたというのは確実にあるからだ。

例えば臭いという感覚を言語に乗せた。

ではどう臭いのか?卵の腐ったような臭いだ。

という風に、言葉を積み重ねることで、出来るだけ感覚が言葉によって伝わるようにした。

たとえば三島由紀夫は、「ニュアンスや感覚といった微妙なものまで、正確な言葉の使用によって伝え切ろうと努力するのが、文章を書く者の使命である」と言っている。

 

 

 

 

最近、文章を書く際における助詞の連続に筆を止めることが多い。

これを防ぐ手法は確立してるのだろうか。

例えば上の文章だって、あえて下手に書けば

【最近(は)、文章を書くとき「は」、助詞「の」連続に、筆「の」止まること「は」多い。】

としても、まぁ意味は伝わるのである。

ただ、あきらかに見苦しい。

一方で、助詞を連続させた方が、本当に伝えたいニュアンスをダイレクトに伝えられるパターンも確かに存在する。

例えば上の文章なら、

【筆「が」止まること「が」多い】

と書いた方が、こちらの伝えたい気持ちは正確だったりする。

 

 

 

 

QOL向上のための観点は単純で、以下のように行う。

・まず日常で自分が最も時間を費やすのは何かということを挙げる

・その時間をより豊かにするためには、どうあれば良いかを言語化する

・その言語化を実現するための方法を検討する(例えば便利な道具を買ったりする)

ちなみに私がこれをやった結果、買ったものは「冷酒器」であった。

 

宗教の発生とその本質を6行で示すとこうなる~ Kの思索(付録と補遺)vol.126~

要するに宗教とは、

①この世界から本質的なものを抽象化して取り出し

②その抽象を真理的な概念へと転化し

③その概念で持って体系的論理を構築し

④その中で必ず決定的矛盾が生じるものの、非言語的である事によってのみ超克可能な超体系が存在するとし、

⑤上記の論理によって構築した超体系の真理を「経典」という教えに秘奥し、

⑥その教えを実践させることで、悟りを体験で持って得さしめる過程

といえる。

「論」と「経」の違いも、上記のことを知れば、理解が進むだろう。

論は、「〜ゆえに、〜であるから、〜せよ」という。

それに対して経は、「〜をせよ、そうすれば悟れるだろう」としかいわない。

経を論じるということは起こり得る。しかし、本質ではない。宗教はその本質として、言語的な体系を超克しているはずだからだ。

経に関しては何も語れず、経は「ただ教え通りやること」以外の一切から独立している。ただそのことのみが経なのである。

 

 

 

わたしのApexランクはシーズン8でダイヤであるが、実はCRカップを生で見たことがないのだ。

しかし切り抜きで見てわかるのは、騎士道的な面白さである。

CRは個人の実力が定量化されて、一定のポイントの中でチームを揃えなきゃならない。

それゆえ、どうしたってそのチームでの実力ダントツトップが司令塔になって、実力の劣る他を導かなきゃいけない。

チーム内実力トップの動き、連携技術自体は別にどうでもいい。だって当然のことを当然やっていて上手いんだから。言うことがないのだ。

しかし他の弱い2人をどう導くかというのは、極めて競技的な部分だ。

そしてこれもまた当然のことながら、トップがどう頑張ったって、他メンバーは先に落ちてしまう。

Aqexというゲームは、チームの一人でも落とされてしまうと勝率が殆どなくなってしまう性質を持つ。

ゆえにチーム内実力トップのものが、最後に一人残されてしまった時、それはもはや絶望なのである。

他チーム員は泣きたくなる悔しさを抱え、総大将という最後の希望に全てを託すことになる。

ここをもって、ついに騎士道が閃光する。

これまでの練習で、自分たちを圧倒的実力でもって導いてきた師が、チームの全責任を背負って、今からたった一人で戦うのである。

その中で繰り広げられる1vs3の絶望感、そして向こうの総大将との究極の技術のぶつかり合い。

ここにCRカップ特有の熱さがある。

普通の大会だと、当然ながら化け物実力のプロ同士でチームを組むので、こういう「単独で他を率いる、他を背負う」という騎士道の閃光のような熱さはあまり現れない。

 

 

 

親方的な人に仕えると「言わなくても分かれ」を求められる。逆に言えば、そうなるまでは未熟者扱いされる。とにかく、察する能力が高くなくてはならない。

同時に、余計な口数、無駄口を惜しまなければならない。

なぜ現場では口数を惜しまなきゃならないか?という問いには、キチンと理屈がある。

まず現場は基本、大きな音が鳴ってるため、声が聞きとりにくい。ゆえに神経を集中させて聞き取らないといけない。それが無駄口だと非常に煩わしい。

次に、無駄口が多いと本当に重要なことを伝えるときに、耳が馬鹿になっていることが多い。現場作業において重要なことの聞き間違いは命に関わることもあるため、無駄口に対してピリつくのである。

そして残念ながら、親方気質の人は、こういう現場特有の作法における理屈を、いちいち言語化しない。自ら悟らなければならない。

混乱を加速させる例もある。

こういう親方は、音がない環境における作業だと、めちゃくちゃ雑談をしてきたりするのだ。

その雑談に乗って、作業の手を止めると、

「馬鹿野郎おまえ、手は動かすんだよ」

と怒鳴られたりする。

要するに、素人からすれば「知るかバーカ」というような、状況ごとに異なる作法を、言語化して教えられないまま、自ら気づくまで怒鳴られて覚えるという風な「合理がある」ということだ。

実際、作業が始まると言語化してる場合じゃないことが良くある。

ゆえに現場作業では「察する能力の高さ」が重宝されるのである。

無意味の意味について~ Kの思索(付録と補遺)vol.125~

本を読んで面白いと思うこと、そしてそれが時に苦労して学び取ったと思うことも、片っ端から忘れていく。

ゆえに、その瞬間にだけ意味があったことになる。

ではその後ということになると、あるいは意味がないともいえるのかもしれない。

「たとえ全てを忘れたとして、それでも自分の中に残っている何かがあるのだろうか」と、考えることが多い。

その「何か」は総合的すぎて言語化され得ない。

であるなら、そこに意味があたえられていると、ほんとうに言えるだろうか。

言語化されない意味があり、そういったものが実は本質であるとするなら、「総合的な無意味」の中にこそ、本質的な意味があるーーと何やら詭弁のようなことが言えるのかもしれない。

いつかそういう無意味へと変遷する、今の瞬間のためだけの面白さがあり苦労があると捉えれば、そこに泡沫夢幻を観じざるをえない。

 

 

 

 

究極のところ、全てが運であるとバッサリ言い切ってしまっても良い。

あらゆる努力も、運に内包され、同時に外延されている。

「僅かな期待値を上げるための努力」と言う場合も、いやそれすら、努力を正当化しなければ落ち着かないために、無意識下の本心に反して言っている感覚がある。

とはいえ、あらゆる努力を止めてしまうことは単純にダサいことだろうし、きっとそこには虚無しか残らない。それに、あまりに不自然である。

「では努力に寄りかかってみよう」ーーそれもまた不自然だ。

それに上記したように、本来、努力は幻のように心許ないものだから、寄りかかれるほどしっかりしたモノではないと考えている。

さて我々は運がもたらす結果について、「なぜ」そうなるのか、と言うことに対し、絶対に回答を得ることができない。

とするとこの心許なさ、掴みどころのない虚無はどうしたことだろう。

明るく言い換えるのならば、本質的に幻なのである。であれば、何をしても、何をしなくても、意味なんてそこには本来、無いのだ。

いまふと、「人事を尽くして天命を待つとき、その人事は自分の中で自然であったか」ということを考えている。

不自然なことをして、天命が思うようにならなかった時、恐らく圧倒的自然である運を恨むことになる。

「私はここまで努力したのに、なぜ最後の最後で、神は私を突き放すのか」ーーと。

最初から自然であれば、「ここまでやった」という考えは恐らく出てこない。

「自らがやることを、ただただ自然にやった」だけになる。

そういう人であれば、最後に天運が見放したとしても、「しゃーない」とカラリ笑って、次の自然的行動に移行するだけだろう。

自分が自然だと思うことをやっていく。それをたとえば「圧倒的努力」などと言っているうちは、きっとまだ不自然な部分が残っているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「〜すべき」というのは、結局、個々人の正義の観念のことだ。

そのような個人の観念に正義を置いた「べき論」を多用する場合、かれは現実と事実よりも、観念的な正義を優先することになる。

結果、優先順位とか工程感とかいう現実と事実を配慮できず、ただ「正義だから」という観念でのみ優先順位をつけることになる。

結果、周りにとってはまったくもって小さな、いやもしかすると問題にすらならない「その人だけの懸念」が、その人の権力如何によっては最優先事項に繰り上げられ、部隊が潰乱することになる。

ちなみに上記の理由から、「べき論」に「べき論」を返すことは、個々人の正義論を戦わせることであり、危険である。

それはすなわち神学論争なのだといえる。

 

 

 

コンピュータは原理的に0か1しか判断しないのだが、人間にもこういうタイプがいる。

例えば、「物事は全てベストかワーストか、正義か悪か、正解か間違いか、である」というようなタイプのことである。

こういうタイプは0か1かの機械的な仕事に向いているが、それ以外の仕事をすると、噛み合わなさすぎて喜劇的な面すら表れてくる。

ちなみに現実問題は、0でも1でもある時の方が多い。

ベストでもワーストでもなく、ベターを取るしかない時。

一方の正義が、一方の悪である時。

正解か間違いか、あとになってみないと分からない時など。

上記の具体例は現実において事欠かないほど挙げられるだろう。

 

 

 

 

 

【良いASMRとは何か?】10年以上ASMRのファンをやってきた私がASMRの歴史とオススメの作り手を紹介する~ Kの思索(付録と補遺)vol.124~

10年以上前から、ASMRを推してきた私である。

今となっては、たとえば芸人チョコレートプラネットが全然ASMRを活かさないASMR動画をギャグとして上げたり、またアマチュアでなくプロ声優を起用した作品が同人界隈で販売されるほど、メジャーなジャンルになった。

www.youtube.com

ASMRの代表例に耳かきがあるが、適当にどの動画を漁って聴いても、本当に耳かきをされている様な触覚さえ感じるほどに、ハイレベルであることがわかるだろう。

だが10年前当時のそれは、当然ながら今ほどにハイレベルなものではなかった。それだけでなく、バイノーラル風ではあったが、厳密にはバイノーラルですらなかったのである。

私がASMRの導入を受けたのは「秋葉よいこ」さんという同人声優であった。

この方は今となっては伝説的な同人声優であり、当時のDLsiteランキングを見ても、この方をASMRというジャンルの先駆けの一人と数えて語弊はない。

それとほぼ時を同じくして、アダルト界隈で伊ヶ崎綾香さんという同人声優が現れる。

アダルトというのが、どんなジャンルにせよその分野を一気に広める効果があるのは否定できないとはいえ、彼女の圧倒的な研究・働き量がASMRという業界を大幅に発展させたことは間違いない。

彼女が偉大だったのは、「音を研究したこと」である。耳かき音を初めとして、どんな音が人間を気持ちよくさせるのかということを研究し、大量の作品にそれを盛り込んだ。

しかもその研究音の使用を(引用を明示することを条件に)配布した。

このことがASMR界隈全体の音質向上に大きな影響を与えたのである。

ちなみに伊ヶ崎綾香さんは今でも現役バリバリであり、古参であれば彼女を知らない人はいないほどである。

そのあと非アダルトの分野で「とみみ」さんという方が現れ(現在は引退)、数多くの同人声優を起用しつつ、今聴いても劣らない作品を無料で大量にニコニコ動画で公開し、売る作品はどれも数千ダウンロードを記録した。

このことで一気にASMRというものがアンダーグラウンドなジャンルからメジャーなものになったのである。

今ではASMRというジャンルが海外まで及んでいるし、くりかえすようだが音質は10年前と比較にならない。

トップの有名な作り手の方なら、みなKU100と呼ばれるバイノーラルマイクを所持しているか、KU100が置いてあるスタジオで収録することも多いようである。なおこのKU100の値段は、その名前のとおり約100万円する。

ASMRに関しても、時代の変遷には驚くばかりである。今までVtuberに一切興味のなかった私だが、「周防パトラ」というVtuberがとんでもないレベルのASMR配信をしているのを聴いて、大ファンになった。

さて、よいASMRとは何かということに関して、個人的な意見を多少語ってみたい。

ASMRは、基本的に音の気持ちよさを体感するジャンルであると思っている。

とはいえこの音の気持ちよさというのは非常に複雑であり、一括りに語ることが出来ない。

例えば先にあげたように、耳かきの音がASMRでは最もメジャーである。

しかし実際に聴いてみれば、たしかに気持ちの良い音ではある一方で、そこに加えて多少のくすぐったさ、ゾクゾクした心地の存在することが分かるであろう。

この心地が「気持ちよさ」に寄与しているのは疑いようのないことである一方で、「くすぐったみ」というものは普通、リラックスとは相反するものである。

ここに良いASMRを作る上での難しさがある。

すなわち「気持ちの良い音」であっても、それが「リラックスできて入眠できるような音」であるとは限らないのだ。

簡単に言えば、あまりにくすぐったい音すぎてもリラックス出来ないし、かといって、くすぐったさの無い音は気持ち良くないのであって、要するにこのバランスを極めることがASMRの本質ということである。

またASMRには音声、すなわち話し声が入ることが多い。この話し声もASMRにとっては非常に重要であり、癒される声質、美しい声質を持っている方の配信や作品が有名になるのは偶然でない。

その恵まれた声質を持って、基本的には聴き手が入眠できるように囁くのであるが、ここに良いASMRを考える上で必ず着目しなければならない点がある。

入眠するためには、脳の活動が穏やかになる必要がある。しかし普通、人間の脳は何かを語りかけられると活動が活発化する。

だから、ASMRにおいて「囁きかける」という行為は、ともすれば脳を活発化させかねず、よって入眠を妨げる要因にもなりかねないのである。

雑談耳かき配信が、たとえ囁き声であっても眠りにくいことがあるのは、上記の理由による。

つまり、語りかけられたり、質問されたりすると、自然に聴き手の脳は活発化し、何事かを考えてしまうのである。

このことを逆に言えば、よいASMRにおける囁きというのは、「人間が考える余地を持たない囁き」であると結論される。

「では、どのような囁きが上記の条件に当てはまるのか?」ということを具体的に挙げるならば、例えば以下のものである。

・擬音(ゴシゴシ、カリカリ、スリスリ、など)

・単なる状況説明(〜をマッサージ、〜を拭き取って…など)

・聴き手の心情描写(気持ちいいね、眠いね、など)

・慰みのある語りかけ(いつでも寝ていいからね、リラックスしてね、大丈夫だよ、偉い偉い、など)

例えば先にあげたVtuberである周防パトラが凄いのは、上記の脳を活発化させない囁き条件を見抜いているとしか思えず、しかもそれを、たとえ3時間に渡る長時間配信であったとしても、徹底して貫き続けているところである。

長々と書いてきたが、この記事を通じて、ASMRの魅力にハマる読者が増えてくれれば、嬉しく思う。

最後に、私のオススメするASMRの作り手の方々の動画を紹介して、締めくくることにしたい。

(なお順序に優劣はない。すべて、著者が第一級と思う作り手の方々である。)

 
【周防パトラ】

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【浅見ゆい】

 

www.youtube.com

 

【高倉むき】

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【伊ヶ崎綾香】

www.youtube.com

 

【かの仔】

www.youtube.com

 

【秋葉よいこ】

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グレーゾーンの線引きについて(これはブラックか?それともホワイトか問題)~ Kの思索(付録と補遺)vol.123~

やる仕事がめちゃくちゃあって、「いやーもうこれ以上は無理やろ」ってなってるところに

「ごめん忙しい?頼みたい仕事あるんだけど」

と、来ることがある。というより、忙しい時ほどこうなる。

その時に、

「いや別に、暇っすよ」

と答えてしまうことが重要である。

(パソコンとその人を切り替え切り替え見ながら)

死ぬ気で生産効率を考えるならば、パンクする恐れをヒリヒリと感じるスケジュールに身を投げる必要がある。

そんで、「あぁもうこれ、エクセルの関数どうのこうのみたいな、小手先じゃダメだわ。

仕事のやり方そのものを変えないと」

ってなった時に、社内政治が始まる。

例えば私が入社一年目の時にやった体験談を話そう。

認印の上申欄が5つくらいある書類を、まず最初に一番偉い人に持っていってしまおうと考えた。

この時、前提条件として、

・一年目(だから大抵のことは許される)

・一番偉い人の人柄

を考慮している。

つまり、5つも上申欄があると、コメントがあるたびに最初から差し戻りになって、ウザいわけだ。

この点、最初から一番偉い人の印鑑を貰えれば、その他の下は、安易なコメント返しが出来なくなる。

(来るとしても、本気のコメントだけ残る)

結局、

「僕だから許すけどねぇ、他の人だったらこうはならないよ」

って言われた上で、一番上からの承認印を貰うことに成功した。

もちろん、下からはコメントがつかなかった。

(これじゃ、脅しみたいになってるよ→サーセンw の流れはあったが、そこは1年目の素晴らしさである)

さぁこれは、社内のルールを逸脱しているだろうか?

上申印を一番下から貰えなんて「常識」は、当たり前すぎてルール化もされていない。ということは、ルールではない。

結局、生産効率が正義で、それだけが価値であり、それを極めなければパンクするとなれば、

会議中にも自分の仕事を進めなきゃならなくなるし、私用のスマホも活用せざるを得なくなる。

社内文化的にはブラック寄りのグレーであっても、その文化に生産価値がない場合、グレーはホワイトに変わる。

最初のファーストペンギンが叩かれることを恐れず、結果として生産効率が高まっていることが明らかなのであれば、「いいなぁ、それが許されるなら、俺もやろ」となって、あとの2人目からは簡単に同じことをやりだしていく。

こういう流れで、みながグレーと思っていたものが、みながホワイトと思うようになる。

いわゆるこれがコンプライアンス問題の本質であり、どんな企業も、常にこのコンプライアンスと生産効率価値との境界の難しいせめぎ合いで成り立っている。

どこまでがブラックで、どこまでがホワイトなのか。

明確な法令遵守よりも広い意味でのコンプライアンスは、ここに難しさの本質がある。