インフルエンサー特有の呟きが気持ち悪くなってきてフォロー外しまくったら僕の世界への影響が消えた~ Kの思索(付録と補遺)vol.129~
最近、インフルエンサーと呼ばれる人たち特有のつぶやきの型ーーこれは本人たちにとっては無自覚なーーが見えて来た。
それがどんなものかはまだ十分言語化はできないものの、一つ言えるのは、インフルエンサーは自分が特別で、そうでない人は自分より劣っているし、人生が幸せでないと決めつけている。
そういう見下しがすごく気持ち悪くなって、どんどんインフルエンサーのフォローを外していったら、その人の名前を僕の世界で見かけなくなった。
つまりフォロワーが何十万いようが、フォローを外せば、存在ごと消える。その程度のものだったということだ。
彼らがどう生きようがどう主張しようが、僕の世界にはなんの影響もない。
空間的にも時間的にも、常に必要十分でありたい。必要以上であっても十分以上であっても警笛が鳴る状態が理想だと思っている。
細い糸が常にピンと張られた状態だ。過剰に持っていたく無いし、持たなすぎるのもダメだ。
そういう性格である以上、やたらと色々なところにムダを見つけてしまう。
ところが「ムダだ、変えねば、楽にせねば」と思っても、実際それをやる側は、やる前より仕事が苛烈になる。
終わったら、その楽さを享受するのはやらない側であって、やる側はまた次のムダを見つけてそっちに移ってる。
「あれ、本人の仕事はいつ楽になったんだ?」
と思うけど、楽にはならないのが真理だと思う。
ムダな仕事を削ぎ落として価値のある仕事の部分だけを残すのは、他人の部屋を掃除して金を貰うのに似ている。
よく、掃除はどういう価値がありますかとか、断捨離するのになんの効果がありますかとか聞かれるけど、こう聞くってことは、なるほど、根深い問題だ、と思うのだ。
その辺に置いてある方が便利だと思っているか、いつか使うかもしれないから持っておく、という考えなのかもしれない。
絶対にどこかで物が見つからなくて困ったことがあるはずなのに、しかも何度もあるはずなのに、物を無くすのは自分の特性だから、と思っている。
日頃あらゆるところで身の回りの整理をそういうやり方でしているってことなのだから、そりゃなくすわ、ということである。
ムダなものを削ぎ落とす行為は、何がムダと思うかによって、得意不得意がでる。
捨てられない体質の人は、どこまで行っても突き抜けられない。
「大学時代のノートとか教科書は社会人2年目でほぼ捨てましたね」って言ったら上司が少し引いてた。
必要なものを必要なときに必要な分だけ持つと簡単にいうが、「この必要なもの」が当人の中にどれだけ少ないかによって、才能と言えるかもしれない。
もちろん、コレクター的性質は多かれ少なかれ誰もが備えている。
持っている、そのことへの価値は皆にある。
その物が棚にあり、その物を眺めることで、幸せになる、これは僕にもある。
この幸せを僕はまったく否定していない、ということだけは知っておいてほしい。
しかしそれとゴミが転がってるのは違う。
別にそれを見て幸せじゃないなら、はやく捨てろと言ってるだけである。
養老孟司先生の話が面白く、最近は動画を見ながらメモとして要約するのが趣味化している。以下は、すべてその時のものだ。
【感覚と論理】
ガリレオがピサの斜塔からボールを落としたのは、感覚に訴えるためである。頭で考えると、重い方が先に落ちると思ってしまう。
そこで当時の教会(頭のいい奴らが頭のみで散々議論している)がガリレオを弾劾裁判にかけ、しかも教会の丸天井を騙し絵にし、「逆に感覚は当てになりませんよ」ということを訴えた。
感覚vs論理の、丁々発止のやりとりである。
さて都市社会、すなわち文明が発展してくると、必ず同時に芸術が発達することは歴史を見てもわかる。
文明の発展とは概念化、論理化の進行と同義であり、それによって、あらゆることが一括りに「同じ」とされてしまう。
本当は自然は何一つ同じではないのに、それが同じとされてしまうことに、我々人間の本能は抗おうとする。
この概念化・論理化への抵抗が芸術を生むのであり、「何一つ同じでない」ということを全身全霊の感覚を持って訴える行為の先が、芸術にぶつけられる。
【頭が良すぎるというのは、一種の病気】
統計による正規分布を血圧で取れば、150とかは高血圧になる。
一方で東大医3に入るものは、センター試験だと970点以上を取っていると言われるが、彼らを血圧で表せば300とかになるだろう。
血圧、すなわち身体の場合は病と言われるのに、頭の場合は、祝福されるのである。
高学歴すぎることを「頭に偏る病」と表現しても、上記の理由から言えば間違いではない。
そのような人間だけが集まった社会というのは、正規分布の中央値から大きく外れた、頭だけの社会になるだろう。
【脳の無意識的な活動を意識すること】
脳は意識的活動と無意識的活動がある。
無意識的活動が「たしかに有る」と思わなければいけない。
睡眠はその最たるもので有る。
意識的活動でどれだけ考えても解けない謎、そういう棘を、脳に刺しっぱなしにしておく。
そうすると、ある無意識的活動でその謎が急に解けるときが来るのである。
このような例は、ベンゼン環のヒントを夢にみたアウグスト・ケクレのようや天才だけに限らない。
トイレやお風呂に入っているとき急に閃いたり、熟睡して起きた時にはスッと謎が解けていたりする経験は我々にもあるだろう。
古事にも「三上」という言葉が残されているほどである。
意識は無秩序であることは出来ない。無意識である時にのみ無秩序であることが出来る。
秩序を生み出したら、必ず同じ数だけ無秩序の皺寄せが来る。
我々が寝なければならないのは、それゆえである。
もし意識がある状態だけ続けるならば、人間の脳は壊れてしまう。
覚醒剤の常用で脳が壊れるのはそういうことである。
【自然には本来、何一つ同じものなど無い】
概念で捉えているうちは全てのリンゴは同じリンゴになる。
しかし感覚で捉えるならば、全てのリンゴは別のリンゴになる。
言葉の使用と、ものの区別は切り離すことが出来ない。
自然を、言葉という概念で切り分けることが、何故か人間には出来てしまったのである。
しかし自然界には本来、何一つ同じものなどない。少なくとも動物はそう考えている。
猫にとっては、今日採れたサンマと、それから3日経ったサンマは別物なのである。なぜなら臭いが違うからである。感覚で判断するとそうなる。
概念で判断せず、感覚だけで判断するなら、自然界に何一つ同じものはない。少なくとも自然に生きる動物はそうなっている。
何一つ同じものがないとすれば、言葉は生まれようがない。だから動物は言葉を話せないのである。
しかし人間は何故か概念を生み出せる能力があった。これをカントは「知性」と名付けたのだった。
しかしそう名付けたところで、何故、そのような知性を持ちえたかの説明にはなっていないのである。
【言葉を話すことの本質】
正しい言葉というものは、あるようで、ないのである。
例えば字は、あらゆる人で形が違う。発音も、人によって異なるだろうし、声帯も違う。
それなのに、何故、言葉が伝わるのだろうか。
「それがそうだと分かるから」としか言いようがないのである。
我々は生まれてから今までそれを経験でもって訓練してきたから、分かるのである。
つまり、正しい言葉なんてものはないのだから、「分かるように伝われば良い」ということのほうがむしろ言葉の本質なのだ。
逆にいえば、100%正しい発音みたいなものがあると信じきり、ヒリヒリとビビりながら意識しているうちは、いつまでも外国語を話せるようにはならない。
例えるなら、我々は64角形を見た時に、それを「円」と認識するだろう。
しかしそれは厳密には64角形なのである。128角形でも同じだ。つまり、完全な円などは、概念にしか無いのである。
反対に、16角形くらいになれば、それは円ではないと言い出す人が増えてくるだろう。
言葉の使用もこれと同じなのだ。
訛りが強すぎれば、それをそれだと認識される精度が落ちるだけのことである。