Kの思索(付録と補遺)

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所有という概念の発生と、その使用における文脈の重要性 他〜Kの思索(付録と補遺)vol.95〜

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15夜の月と秋の雲

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人工灯に照らされた夜の緑が好きだ

 

2019/9/14(土)

【お金はどのように使うべきか?】

お金というのは淡々と合理的に使うべきで、あまりお金に意識を持っていかれないようにしたい。

 

私もストレスがたまっているときなどはついつい何かを買ってしまったりもするが、良くないと思っている。そういう罪悪感にかられがちな人間なので、基本は倹約に努めるタイプだ。

 

だが倹約もやりすぎると良くない。

 

倹約そのものが目的になってしまえば、それもまたお金のある貧しさというものだろう。なぜといえば、それもまた、お金に意識を持っていかれているからである。

 

例えばせっかく友人が飲み会に誘ってくれたのに、倹約のために断るというのは、美しくないと私は思う。むしろそういう機会のために、普段から淡々と倹約するのが本末の区別がつくということではないだろうか。

 

必要な時ケチでないために、誰にも不快感を与えない範囲でケチである姿勢ともいえよう。

 

また、例えば日常のなかで最も自分が用いるツールーー例えば寝具やスマホなどは多くの人が当てはまるのではないかーーには、その使用頻度に乗じたお金を払っても良いと私は思っている。

 

そうしてQOLをぐんと引き上げたら、あとは上記したような楽しい機会や成長のチャンスのために、日々淡々と倹約していく。そして「最後の優先順位として」万が一の時にも倹約にて備える。

 

すなわち万が一の時とは、万が一なのであるからして、99.99パーセント起こらないともいえる。それに過剰に備えるのもまた本末転倒であるから、優先順位は最後なのだ。

 

万が一に備えるためにその他すべてを犠牲にしないよう心がけたい。

 

また万が一に備えるために本当に有効なのはお金を貯めることよりも、普段の生活に注意を払うことだろう。

 

たとえば「車の加害事故を起こしてしまうかもしれないからお金を貯めておこう」ではなく、「そうなるのが絶対いやだからちゃんと運転しよう」が美しいと私は思うのだ。


【合理と非合理の営みにどう線引きするか?】

人間は合理と非合理の両方の世界で生きている。合理だけの世界で生きるとすれば、それは法と規律と効率と生産性に縛られた、ロボットのような営みを強いられることになるだろう。だから時には遊びやおふざけのような、非合理で生産性や効率など関係のないことをしてストレスを発散するのだ。

 

かつて人間が遊牧民族から定住民族へと変わった時、そこに「変化の少ない」コミュニティが発生した。そういうコミュニティはだんだんと効率化され、規律が生まれ、飽き飽きとして、だんだんと人間らしさが失われていった。

 

そうすると決まって争いが発生した。

 

それを解決するため人間は「祭り」というシステムを生み出したのだったーー余談。とはいえ、非合理的な営みしかしなくなれば、社会というコミュニティにいれなくなるだろう。私は常に合理と非合理のバランスが重要だと思っている。

 

ではどういうバランスであれば良いのかと考えてみると、これがなかなかに難しい。しかし基本は合理である方がいいはずだろう。ではどんな場合に非合理であるべきか。

 

たとえば自炊をする、というのは合理主義的な人間からすれば、「どんだけ時間を無駄にしてるんだ、非合理的だ」と言われるかもしれない。しかし、自炊をすること自体が楽しい!というのであれば、それを止めさせる理由はなにもないだろう。

 

なぜといって、誰にも迷惑をかけず自分の時間を払って自らの人生が楽しくなること、それが価値でなくてなんなのか。

 

感情的かもしれないが、同時に非常に合理的な理由ではないだろうか。

 

それに対して、「やりたくもないのに自炊をしている」というのは本当に、まったくもって、何の価値もない非合理だろう。そういう場合は、その状況を脱するために自らの頭で考えて合理性を追求しなければならなくなる。

 

こう考えてみると前者は「非合理の合理」があり、後者は「非合理の非合理」があることになる。こう考えることで、抽象的だが一つの線引きができるのではないだろうか。

 

2019/9/15(日)

【所有という概念はどう発生したか?】

歴史的には、「所有」という概念の確定的な出来事は土地から発生した。

 

狩猟採取かつ遊牧的生活をしていた古代人には、所有の概念が現代人よりも圧倒的に希薄だった。個々人で生きており共有がないので所有もないからだ。

 

ところが古代人は耕作を覚え、土地を持つようになった。定住である。耕作によって安定的に食が得られるようになったため、子供が増えた。子供が増えると、耕作量をさらに確保しなければならない。こうしていつしか狩猟採取への後戻りは出来なくなり、耕作量は豊かさそのものになった。

 

そこで彼らは土地をなんとしてでも守らなければならなくなった。土地が他者に侵されることは豊かさの崩壊を意味するからだ。そして所有という概念が確定的になる。

 

ある男が自らの土地の周りに線引きをして、「ここからここまでは俺のモノだ」と宣言したのだった。

 

最初はみな「こいつは何を言ってるんだ?」と思ったのだった。「俺のモノ」という意味が理解できないのだ。

 

そして当然、人々は反発する。

 

「お前のいう【お前の土地】から耕作物を採ってはいけない理由はなんなのか?」

 

それに対して男が答えた理由はとても単純明解なものだった。

 

「この土地は、俺が昔からずっと手をかけ汗水たらして大事に育ててきたものだ。俺の努力、俺の仕事が、この土地には昔からあるのだ。だからここは俺のモノだ。」

 

つまり「所有」という概念は、土地に対して「彼の仕事がそこにある」という理由によって最初に確立されたのだった。

 

人の才能が同じであれば良かった。しかし土地の耕作においても才能が影響した。上手く仕事を出来る人もいれば、そうでない人もいたのだ。仕事が出来る人は土地を拡大し、ますます豊かになった。だが反対に、生活に事欠くものもいた。

 

そしてここが重要なのだが……土地には限りがあった。

 

結果、限られた土地において、仕事が出来る人はその土地をどんどん拡大し、優位性を確立した。反対にそうでない人は、もはや自分のモノとして拡大できる土地が周りになくなり、子供が増えると生活に困窮した。結果、彼らは豊かな地主に対して土地を借りる形で奴隷のように働かざるを得なくなった。

 

そしてこれが人間の不平等の全ての起源なのであった。

 

【「俺の女」は所有か?「私の妻」は所有か?】

例えば英語であれば、my〇〇は所有格という。マイフレンド、マイワイフのように。しかしながら、かといって上記の使用を「所有」であるとか、所有でないとか言い切るのは危険だろう。単に定義した人の訳が粗末だっただけかもしれないのだ。

 

そのため、所有という文脈上の「使用」にたいする違和感を分析しなければらない。

 

つまり、タイトルのテーマに線引きをするためには、どういった使用においては所有といわれ、またそうでないのか、といったことを分析してみなければならない。

 

とはいえ何か取っ掛かりが欲しい。ズボラな私はまず所有という単語で検索してみた。すると以下のような説明がもっともしっくりきたのだった。

 

「所有とは優先してモノを扱う権能のことである。」

 

なるほど、ソクラテス的にはまだまだここに疑いを投げかけれるだろうが、一先ずはなかなかに説得力のある説明だと思われる。

 

そしてこの「モノ」がカタカナである以上、人にも当てはまるのだろう。であるならば、例えば〇〇の女という使用の場合、その文脈において明らかに互いの立場がフェアでない場合において、それは所有という概念になると言えそうだ。

 

対して、例えば「〇〇の友達」という使用の場合は、友達という語に含まれる「互いの立場のフェア感」が「優先してモノを扱う」といったような所有の定義を打ち消す。

 

所有格ではあるが、所有の定義には当てはまらない。

 

これが言語の使用における混乱を招くと言えるのではないか。だから「立場の上下」という点で難しい言語使用の境界において、この混乱は加速する。

 

例えば「私の妻」はまだフェアだろうか?「私の彼女」はどうか?「俺の女」までいくと明らかにフェア感が失われ、所有のニュアンスが出てはこないか?所有はこのように明確に境界が引けるものではなく、連続的に移りゆくものといえそうである。

 

この話を友人にすると、「この場合は一人称も影響してるのでは?」という、更にいい指摘を貰った。

 

つまり「私の友達」と言った場合、「友達」という語に含まれるフェア感と、「私」という語に含まれる謙虚感の両方が、この文を所有の使用でないと示すのだ。

 

対して「俺の女」と言った場合は、「俺」も「女」も何か上記と逆の、フェア感の無さによって所有の使用であると示すのである。

 

【製品の引き算の美学に栄光を見る】
家から東芝の95年製の非常に汚くなった自動コーヒーメーカーが発掘されて試験運転。まず普通に動くのが驚異的だ。さすが黄金時代の東芝の製品だ。

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そして写真をみても分かるように、一つのダイヤル操作しかない。説明書なんて要らないくらいシンプルだ。「コーヒーを淹れるのに必要な機能とは何か?」を突き詰めている。

 

しかも間違った組み立てが出来ないような構造設計になってるから、失敗のしようがない。

 

まさに引き算の美学だ。

 

ジョブズiPhoneにこだわった禅の思想を見るようである。栄光時代の日本の製品に感動したのであった。