Kの思索(付録と補遺)

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映画「PERFECT DAYS」感想〜完璧な日々とは〜

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【あらすじと概要: Wikipediaより引用】

『PERFECT DAYS』(パーフェクト・デイズ、原題:Perfect Days)は、2023年に日本・ドイツ合作で制作されたドラマ映画。キャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。

ヴィム・ヴェンダース監督が役所広司を主役に迎え、東京を舞台に清掃作業員の男が送る日々を描く。

第76回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、役所が日本人俳優としては『誰も知らない』の柳楽優弥以来19年ぶり2人目となる男優賞を受賞した。本作は同映画祭でエキュメニカル審査員賞も受賞している。

 

【感想】

平山のように生きて死ぬおっさんは今後増え続けるだろう。それは果たしてほんとうに完璧な日々なのか。「こんなふうに生きていけたなら」、本当にそうであろうか。

 

役所広司演じる主人公の平山は、几帳面で真面目で無口な性格の男だ。その生活スタイルは極めて生産的、効率的なものに整えられており、完璧なルーチンが構築されている。

まずは以下、少し長くなるが、感想のためには必須であるので、その完璧な生活ルーチンを以下に示す。これが平山にとっての「パーフェクトデイズ」である。

 

隣人が掃くほうきの音で朝目覚めると、しっかりと布団をたたみ、歯を磨いて髭を整え、顔を洗い、そのあと花に水を遣る。

仕事着に着替え、玄関から車の鍵と朝コーヒーのための小銭を握りしめ、玄関をでた先にある自動販売機でいつもと同じBOSSの缶コーヒーを買って飲む。落ち着く。1日の始まりだ。まだ日は完全には昇っていないが、良い気分である。

お気に入りのカセットテープを車でかけながら、ようやく昇ってきた朝日を浴びつつ、仕事場に向かう。

トイレの清掃員といっても、芸術的なトイレばかりであり、「荒れ果てた公園のボットン便所」みたいな場所は自らの担当にはない。

ここは東京。スカイツリーが建っている。疲れ果てたサラリーマンやOLがそこかしこにいる。今にも死にそうな人もいる。命がけ、ギリギリで生きていて大変そうだ。

自分の仕事は自分1人で完結するし、誰から叱られるわけもなく、淡々とやれば終わる。いつもと同じルーチンでいつもと同じようにやればいいのだ。ただし手は抜かないことだ。まぁ、だらしのない後輩がいたりするが、そいつも悪いやつじゃあない。

仕事の昼休みはお気に入りの神社でサンドイッチを食べる。見上げると、いつもと変わらない木があり、木漏れ日が気持ちいい。記念にフィルムカメラで撮っておこう。

完璧に仕事をこなしたあとは、銭湯に入って身体をさっぱりとさせ、場末の居酒屋に入ってプレーンのチューハイ。つまりタコサワーがルーチンだ。軽く引っ掛けたのち、家に帰ろう。

寝るまではお気に入りの本をしっぽりと読む時間だ。本が支えられなくなってくるほどに睡魔が耐えられなくなったら、諦めて寝る。これで朝までぐっすりである。

休日がきた。まずは日々のフィルムカメラを現像しにカメラ屋に行こう。溜まった洗濯物はコインランドリーに入れるだけ。

さて古本屋に寄って良さげな小説を買おう。古本屋の店主は流石に詳しい。何を買ってもその作品についてひとこと添えてくれる。

帰ったら写真の選別だ。これはイマイチと思ったものは破り捨て、良いものだけを残して押し入れに保管。言葉よりも写真が俺の日記なのだ。少し昼寝でもしようか。

そろそろスナックに行って、お気に入りのママに会おう。俺は結婚をしない主義だ。だがママに会うことで十分満たされている。

おや、顔馴染みの客がギターを弾きだしたぞ、これはママお得意の歌が聴けそうだ。でもまだちょっと早いんじゃないか…

まったく良い休日だった。そろそろ明日の仕事に備えて寝るとしようか。いつもと変わらない日々。木のように安定した人生。ストレスのない生活。これが俺の完璧な日々。パーフェクトデイズである。

 

未婚おっさんが自分に最適化されたルーチンの生活になることをよく表している。平山にとっては、そのルーチン化された生活こそが平穏の証であり、パーフェクトデイズだと思っている。

 

しかしどんなにルーチンだろうと、「完全な」ルーチンではあり得ない。

 

劇中における平山の完璧な生活ルーチンの中にも、どうしたって「ルーチンでは無い出来事の数々」が差し込まれていく。平山にとっては大事な「平穏」を壊すものかも知れないが、それらはルーチンよりも輝く思い出のように見えて仕方がない。

 

このことは、映画の幕引きに「木漏れ日」として定義される。

 

すなわち毎日同じように見える木も枝葉も、細部を見れば必ず違いがある。風がそよぐだけでも、その形を変える。その瞬間・瞬間にこそ、影があり、光がある。この大切さが「木漏れ日」である。いつも通う古本屋の店主は「毎回同じなのに、何故こんなにも違うのかしらね」と添えて、本を渡してくれた。そこが良いところだと。これも木漏れ日である。

 

ラストシーンで役所広司(平山)が凄まじい「泣き笑い」の演技をみせるが、当然ながら泣きと笑いにはそれぞれ意味がある。

 

劇中で平山が笑うのは、木のようになった(自分と同質の)人と接する時か、または木になれず苦しむ(平山が意図的に降りたであろう)資本社会の人間を見る時だ。

例えば、劇中で意味不明なポーズをしながら太陽に向かって手をかざすホームレスは木であり、公園で酔いから目覚めてフラフラで歩き出すサラリーマンは資本社会の人間である。

 

対して平山が泣くのは、彼が降りた資本主義社会との接点が戻りかける時、その生活が呼び覚まされる時である。いわゆる「普通の幸せな生活」であろう。

だが「普通の幸せな生活」には、平山の求める完璧なルーチンは無い。植物のような暮らしもない。彼も過去は「そちら側」の人間であったためか、その生活の輝き(と闇)を完全に払拭できていないのだ。

 

観客は、日々の光も影も、結局はルーチンにない「揺らぎ」の中に見え隠れしていることを見る。決して平山の夢想する「パーフェクトデイズ」には「木漏れ日」がないことを見る。

ゆえに彼の部屋は、輝きもせず完全な闇でもない、紫色の光が常に灯されている。植物を育てるための紫外線である。

 

古本屋の店員はさらに言う、「恐怖と不安は別のものだ」と。恐怖は「今」、不安は「今度」にある。この「今」と「今度」というキーワードは本記事サムネイルのシーンで繰り返し言われるが、本記事の中で最も重要なものである。

 

平山の生活に恐怖はないだろうが、しかし決定的な不安がある。なぜなら、「今」はパーフェクトデイズであるが、「いつか」(今度)は必ずやってくるからだ。

たとえ自分が変わらなくても、風景は無常に変わっていくのだ。なんだかんだ良くしていた後輩も急に仕事を辞めるし、あのビルも今はもうない。

 

サムネイルのシーンで姪っ子は「この河の向こうに海があるの?海を見に行こう」と平山を誘う。しかし平山は「今度」といって避ける。これはとりも直さず、平山が今を見る人間であり、今度を避ける人間であることを意味している。簡単に言えば将来を見据える不安を避け、今のパーフェクトデイズだけを見ているのだ。

 

そういった暗喩である海を見ることを一度は避けた平山であるが、ある出来事(これもルーチンではない)が起き、ヤケ酒タバコを喫するために海に行くことになる。酒はいつものプレーンではない。「色がついた」ハイボールである。タバコはピース、むろん意味は「平和」である。これは全くもってチグハグであることに気づくだろうか。ヤケになったはずなのに、そこはモノクロではない。

 

平山の撮る写真も(平山の見る夢も)、結局はモノクロの生活だ。色調というものがない。

写真というのは時間がなく「今」が切り取られるだけである。ゆえに写真には、作中で定義された「木漏れ日」はあり得ない。時間の流れがあってこそ木漏れ日があるからだ。

時間の流れが止まるほどにルーチン化された平穏。切り取られたモノクロの美しさ。それも良い写真以外はビリビリと破り捨てるように選別された生活。それが平山のパーフェクトデイズ。これが平山という人物なのである。

 

木々が生の暗喩なら、海は死の暗喩であろう。彼はそこで末期がんの人間に出会う。がん患者は、「影は重なっても濃くならない」というが、平山は頑固に反対する。そんなわけがないじゃないか、と。

 

影を避け続ける(捨て続ける)事でパーフェクトデイズを実現できると思っていた平山と、影を背負ってきたがん患者の対比が描かれるのだ。そこで行われるのは影踏みゲームである。むろん説明するまでもなく、踏まれようとする「影を避ける」ゲームである。

 

このがん患者との対話で、「今度」について考えることを避けてきた平山は、否応なく自らが死ぬ場面を想起しただろう。あのアパートで、モノクロの中に孤独死する場面を。

もはや疑いようもなく、平山の実現したかった「パーフェクトデイズ」の土台が崩れ始める。果たしてそもそも、そんなものはありえたのか、と。

あの姪っ子が泊まりにきた時間こそ、窮屈で快適ではなかったものの、輝きのあった日々ではなかったか。

 

人生の難しさはそういうところにあるだろう。何が正しいかというわけではなく、この映画は疑問を問いかけるだけだ。

そもそもそんな「正しい生活」「正しい人間」なんてあるのかと。本当にそれが「パーフェクトデイズ」なのかと。

逆の立場の目線も書いておくと、人生の難しさが際立ち、よりフェアな言及になるだろう。

すなわち、姪っ子は平山の仕事ぶりを「動画」で撮影していた。むろんモノクロではない。

これまでの話を理解してくれている読者であれば、このことが何を意味しているかおわかりだろう。

姪っ子にとっては、平山の生活ぶりこそ「木漏れ日」に見えているのである。

 

平山のようになる人間がこれから圧倒的に増えていくであろう世の中に、痛々しいメッセージを発した傑作である。それは平山のように言葉にならない人間に、言葉にならない人生と、どうしようもない泣き笑いが同居するということである。