落合陽一著「デジタルネイチャー」を思索~ Kの思索(付録と補遺)vol.56~
ルソーの「社会契約説」やホッブズの「リヴァイアサン」のように、これまでの社会(近代)を、これからの社会(現代)へアップデートするためのリベラルアーツ的思想本が、無意識的に現在の我々の常識的な思想へ影響を与えている。
例えば「人権」や「倫理」という概念を、我々現代人は当たり前のように備えており、それらが侵害されようものなら裁判で訴えるなりなんなりして、強く反発する。それらは生まれながらに与えられた権利であり、今を生きる我々にとっては「常識」である。
しかし「人権」「倫理」というような概念は、そもそも1789年にフランス革命が勃発する前まで存在しなかった。信じられるだろうか?当時のフランスは国民に階級があり、専制君主制であり、奴隷制も当たり前のようにあった。それが常識だった。しかし「そんな常識は全くもっておかしい、もっと理性的に考えろ、生まれながらに人としての格差があるなんてことは、神は決めていないはずだ」というような思想家が現れる。ルソーだ。
フランス革命が起きた原因は、ルソーの「社会契約説」を代表とするところの、理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が国民に多大な影響を与えたからだった。偉大な思索家の啓蒙哲学は、実際に歴史を大きく動かすことがあるのだ。
このことからわかるように、「常識」というのは決して、集団的無意識による最適解などというものではない。社会を管理する側…つまるところ上位層が、その他大勢の国民に「常識」という洗脳をすることで、管理しやすくするために、意図的に、だがそれとわからないように、刷り込むものなのである。
では我々、現代日本人における「常識という名の洗脳」は何だろうか?僕はそれを端的に「量産型人間の創出」であると思っている。このことは既に過去の記事で何度も書いてきている。
上記記事で書いたように、量産型人間の創出は、社会を管理する側…つまり日本政府に都合が良かった。若い年齢層のパイが増え、高度経済成長にあった日本では優秀に機能した。だが今の日本は高齢化する社会であり、縮小・撤退戦の経済である。
量産型人間を創出するための洗脳は、教育を始めとして、幸福感すらも画一化している。これも勿論、その方が政府に都合が良く、安定成長に貢献したからだ。いい大学に入って、大企業に就職して、結婚して、良い車と家を買って、子供を育てる。それらは常識であり、これらを行わないものは今でもマイノリティとして奇異な目で見られる。実情、もうそれほどマイノリティではなくなってきているのにも関わらず。
これらのことは、金持ちだろうと貧乏人であろうと、根暗だろうとチャラチャラしてようと、「万人が実行して当然のもの」なのだ。何故なら、これらをやりさえすれば「誰でも幸福になれるはず」なのだから。逆にこれをやらない人間を、世間は「何故幸福になろうとしないの?」という目で見る。「何か人として問題があるんじゃないの?」と訝しむ。
そんなはずはない!個性が人それぞれである以上、万人に共通の幸福などというものはまったく幻想である。もっとフラットに、先入観なく、自分の頭で考えるべきだ。あなたの幸せが「常識」に洗脳されていないかを。
デジタルネイチャーは、そのような啓蒙思想的側面が重要な本であると僕は思う。つまり理性による常識の裁判。近代とはどのような時代であったか、何故そうなったかを十分に考察した上で、では現代はどうなって行くのか、我々はこれからどう生きていくのかを思索する。近代から現代へのアップデートアプローチ案であり、落合陽一氏のマニフェストとも言える。
デジタルネイチャーとは「計算機自然」という概念だが、これを真に理解するには老荘思想や仏教における東洋哲学、また言語の限界を考察したウィトゲンシュタインなどの西洋哲学的知識が必要だろう。しかし、ここは諦めずに、氏が「デジタルネイチャー」という概念で言わんとしていることを可能な限り説明してみたい。
我々は何故ものを区別するのだろう。すこし突拍子もないことを聞いたが、これはこれからの議論に重要な問いなのだ。今ざっと私の目に入ってきたリュック、Tシャツ、腕時計、ブレスレット…それらは究極的に言えば一つの「モノ」だ。だって、世の中の全ての「モノ」は「原子」で出来ている。だから、私がいま目にしたリュック、Tシャツ、腕時計、ブレスレットは、別にひとまとめに「原子」と言ってやれば良い。その方が本質的ではないか。
え?それでは困る?何故困るのか。…実際、その「困る」ということが、我々のモノを区別する起因でありモチベーションとなっている。つまり、モノは出来るだけ細分化して区別した方が、人間にとって「便利」なのである。
だって医者が「メス」と言ったのに、周りの助手が「メスってなに?」って状態だったら患者の命は救えない。医者が「あれ」と言って、助手が医者の求める「あれ」を正確に把握出来ようか。まず無理だろう。
単純な例だが、我々人間が生きる上で一般的にこの例が当てはまる。つまりモノは、人間が 便利に使える概念として区別しておいて、それが一般的に知られているということが、人類の生存戦略として必要なのである。同時にまた、言語の本質もこれに尽きる。言語は世界を区別するツールであるから(故に言語は常に世界を不可逆圧縮する。世界を言語に落とし込む段階で、幾分か情報量が削がれざるを得ないから。4次元時空情報をなんとか文字に落とし込もうとするから。誤謬や齟齬が生じる本質はこれである)。
しかし実際、上記してきた人間の利便性や生存戦略をとっぱらって、本質的に捉えれば、この世界にそのようなモノとしての区別はないのである。この世界にはただただ原子があるだけ。もっと物理的・専門的に言えば、量子的な確率波で場が満たされているだけなのである。
このような概念から捉えると、人間と計算機にどのような区別があるというのだろう。いやむしろ、人間と計算機はこの自然の中で最も近しいモノ同士ではないか。
というのも、人間だってDNAの4進法、ニューロン発火の2進法のような計算を膨大に行うことによって動くという点で計算機であるから。パソコンがケイ素型計算機であるとすれば、人間は炭素型計算機なのだ。
そして我々現代に生きる人間と計算機は、今でさえ自然に溶け合いつつある。我々は夜霧の中を時速50キロで運転していようと、GPSとカーナビによって進むべき道が把握でき、事故を起こすことなく移動することができる。このように計算機は、いつ間にか人間の脆弱な部分を義足のように補完しており、我々はそのことについてかなり無意識的である。もはやそれが自然となっているから。
今後の世の中は、さらにこの傾向が加速するだろう。炭素型計算機の脆弱な部分をケイ素型計算機が補う。自然にこの両者が溶け合う。故に「デジタルネイチャー」、「計算機自然」が決定的に発露する。
もちろんその逆も然りだ。つまりケイ素型計算機(コンピュータ)の脆弱性を炭素型計算機(人間)が補完するということも往々にしてある。いやむしろ現代はまだこのような行為の方が多数派だろう。では、コンピュータ以上の計算機…つまり人工知能(AI)が発展していく未来においても、AIを人間が補完するような行為は残るのであろうか。
答えは「しばらくは残る」だ。しかし量産的でルーチン的な業務、単純な計算に落とし込めてしまうような業務は完全にAIによって自動化されていく。結局人間に残された仕事の大部分は、「リスクを取って未来価値を得るためのアービトラージを創造する」というものになるだろう。
つまりこれからは、大半の量産型人間がAIに取って代わられ、BI(ベーシックインカム)を受けながら生活をするAI+BI型社会が勃興する。そんな彼らを「養ってもあまりある」価値を生み出す人間は、AIを使う側に回るだろう。そこで生まれた余剰資金は、更なる価値を創造するためのVC(ベンチャーキャピタル)へと用いられる。つまりAI+VC型の社会の勃興である。
これからはこのAI+BI型社会を生きる人間と、AI+VC型社会を生きる人間の対比が一層明確になっていくだろう。今でも地方と都市を比較して見れば、おおよそこのことが起こり始めているのが理解できよう。
もちろん、どちらが「勝ち組」なのかは決めようがない。一見するとお金を稼ぎまくり、社会価値としての「信用」を得られるAI+VC型社会を生きる人間が勝ち組のように見える。しかし彼らにはこれからあまりにも熾烈な競争が待っている。
AIが高度に発達すると、UIやUXも発達する。そうなると、リスクと時間を費やして新たに創出したはずの価値が、すぐにコモディティ化するようになる(つまりすぐパクられるようになる。しかも同程度に優秀な形で)。そうなると、次々と新たに価値を創出する必要に迫られる。またリスクと時間を費やして……
このようにAI+VC型社会を生きる人間は、心の底から好きなことでもしていない限りは相当なプレッシャーの中で長時間働いて生きることになる。今現在AI+VC型社会に最も近いシリコンバレーでは、成果主義の中、土日も猛烈に働くので週に100時間労働が当たり前であり、みな鬼のような集中力で競争している。
これに対すれば、AI+ BI型の社会で生きる人間は気楽なものだ。 BIで最低限の生活は保証されている。あとは自分の好きなことを、限界費用ゼロ社会の中で見つけてやれば良い。・・・もちろん、それが気楽というのも洗脳かもしれないし、この記事全体の思索ですら意図せぬ洗脳から生み出されている可能性も大いにある。
どちらの社会で生きるのが良いかなどは人それぞれだ。あなたが自分の頭で考えて選ぶしかないだろう。洗脳には洗脳をぶつけるのだ。ただ重要なのは、今後の社会が上記した方向に向かうことが概ね理解できていること、その肌感を持った上で、将来に対する自分の態度と目標を決め、それを達成するために日々を生きるということだ。
つまり、英語の翻訳が要らなくなる未来が分かっているのに英語の勉強をする必要はないし、学歴が意味を持たなくなる未来が分かっていて大学に入る意味はない。資格が意味を持たなくなる未来が分かっていて資格の勉強をする必要はない。将来への肌感を持って、いまある時間を何に使うのが最善かを考え、行動するのだ。
社会が大局的に向かう方向を肌感として理解している人間とそうでない人間とでは、日々の時間の使い方が決定的に変わってくる。それが本当に将来に価値を生む行動なのか、それとも気付かないうちに無理ゲーに足を踏み入れているのか。その視座の高さを鍛えるという意味でもデジタルネイチャーは必読に値する。
END.