大学がオワコンなのはもはや常識 名刺になる本当のスキルはあるか 〜Kの思索(付録と補遺)vol.36〜
日本の大学新卒のほとんどは、はっきり言ってしまえば即戦力ではない。大学で勉強してきた専門的な学問を、会社に入って積極的に使うという「幸運な」人はどれだけいるのだろうか?
実態としてはゼロからの叩き直しだ。つまり社会人としてのマナーから始まり、ホウレンソウやPDCAサイクルを学んで、書類の作り方に代表される会社特有の「伝統」を叩き込まれ、お上の言うことは絶対であり、仕事に関しては「保守的な方が長生き出来る」という去勢されたような態度を数年かけて刷り込まれる……。
とまぁここまで酷い例とは言わなくても、日本は年功序列なので、このようなことになりやすいのである。だって何もしなくてもある程度出世するし、何もしなくても給料が上がっていく。むしろ何かすると減給が発生する。つまり年功序列のもとでは加点方ではなく減点法なのだ。だったらわざわざリスクを犯し、チャレンジして失敗して、辛い思いをする必要なんてないのだ。むしろこのような体制下では、何もしないのが賢いと洗脳されてしまうのである。
このような例の代表格はメガバンクだろう。メガバンクでは支店長が絶対であり、伝統に従った、非効率な時代にそぐわないガチガチのマニュアルとルーチンがある。それを改善しようとして万が一失敗しようものなら、支店長から激烈な詰めを喰らってしまう。このような文化の中に何十年もいると、誰だって「去勢」される。ただ言われたことを何も考えずやり、ビクビクとひたすらミスを恐れながら仕事を進める。
しかしながらこの日本的なホワイトカラーの人々はもう用済みになってしまう。「ミスのない正確なルーチン業務」という生産性において、人間はAIに勝てないからだ。では技術職はどうだろうか。技術職に関しては、仕事がなくなる脅威という点ではホワイトカラーよりマシだが、やはり日本的な文化では、おそらく大企業であればあるほど、名刺がわりになるような技術は身につかない。
何故と言って、技術を誇る大企業の正社員は、往々にして現場の「管理監督者」になることが多いからだ。つまり実際に現場の異常を自らの五感で察知し、異常を見つけたら自らの知識と経験で手を動かして整備・改善するという「現場人」ではなく、むしろその現場人を管理監督する立場に置かれる。この点において身につくのは、名刺がわりになる技術ではなく、管理書類の作成や整理の仕方、もしくは下請けを上手いこと使う政治力である。ならばこのような仕事も、ルーチン業務である限りはAIに取って代わることになるだろう。
つまりこれからの大企業は、生産設備においては大規模なものを持つが故に、そこに働く社員は派遣が多数を占めることになるだろう。反対に技術を持った社員は、自らの技術を活かせるフットワークの軽いベンチャー的企業で働き、場合によっては働く企業を掛け持ちもして、大企業よりも高い給料を貰うことになるだろう。これからの時代をすいすい泳いでいく人は、自分の名刺が一つの事に縛られず、グラデーション的になるのだ。
これに対し日本の大学教育は、上記してきたような実践力を鍛える場ではない。特に研究らしい研究を行わない学部の4年間の大学教育で身につく実践力はほぼない。あそこで身につくのはあくまでも「教養」である。歴史をみれば、本来教養を学ぶ必要があったのはヒマで金があって働く必要がなく、しかしながらその実力が「教養量」で判断された「貴族たち」であった。
今の大学のカリキュラムでは何故か貴族達の嗜みを行なっており、学部新卒は何の実践的スキルも身につかないまま、バケーション&就職予備校として大学生を謳歌し、社会人として放り出されるのである。そしてむしろ実践的スキルをもつのは高卒でバリバリ4年間を働いてきた者なのであって、彼ら技術者から「学卒、院卒は何も出来ないくせに給料が高い」と軽蔑の目で見られる事になるのである。
慶應義塾を開いた福沢諭吉が「学問のすすめ」の中で説いていたのは、徹底的にこの実践力のことであった。そして徹底的に自分の頭で思考することを教えていたのである。今の教育システムのように、教養を学んで問題解決力ではなく「パターン認識力」を高め、機械的に物事をこなすことだけが上手くなる大学教育とは正反対の教えなのだ。
高度成長期に工場がバンバン立って、機械的に物事をこなす人間が大量に求められた時代では今の大学教育のやり方が効率的だったのかもしれない。むしろ自分の頭で考える人間なんて、円滑な仕事を阻害する邪魔者だったのだろう。だが機械的ルーチンがAIに置き換わる今、徹底的に自分で思考する人間の方が価値が高いのである。
だから今後の「価値主義社会」の中では、アメリカや中国のように「お前は何が出来るのか」を徹底的に問われる事になるだろう。日本の大学はよく「入るのは難しいが、卒業するのは簡単」と言われる。対してアメリカの大学は「入るのは簡単だが、卒業するのは難しい」と言われる。これの真偽がどれほどかは分からないが、少なくとも日本の大学の卒業が簡単で、アメリカの大学の卒業が難しいことは真実だろうと思う。アメリカの大学は即戦力として通用する実力を身につけない限りは決して卒業させないからだ。中途半端な実力の人間を企業に排出していては大学のブランドが傷つくという危機感もある。だからアメリカの大学生は、自分の学ぶ専門技術が定まった時点で、ある程度自分の就職する業種の方向性も決まるのである。日本のように就活が始まってから自由に業種を選択するというようなことは起こらないのだ。
故にアメリカの博士持ちはその実力が価値として信用されており、平均年収が1000万円を超えるのである。日本ではこれと反対に、高齢化社会がすすむ日本の現状や、企業の需要と供給を無視して博士枠を増やし、ポスドクで貧困に喘ぐ高学歴ワーキングプアを生み出している。
日本の大学教育がオワコンと呼ばれるのは以上のような点によるのである。それにグローバル化が著しい今では、本当に優秀な人間は「日本で1番の東大」とは考えず、「世界で◯番目の東大」と考える。開成高校などの優秀な学生はこれらの点を理解して、既に着々と海外の大学を視野に入れている。
もちろん日本の大学のこのような点に危機感を持った企業や起業家もおり、彼らだってただ黙ってはいない。例えば実践的なビジネススキルを身につける場としての「HIU」や、学習の効率化を目指した「N高」「スタディサプリ」などがある。またトヨタの企業内学校も有名だ。これらは例えるなら、教科書を読んでから色々な問題を解くのではなく、解きたい問題に対して必要十分な教科書を読むというスタンスだと言えるだろう。
これから大学進学を考えている人は、ただ漫然と高偏差値を目指して勉強するのではなく、自分の名刺がわりになるスキルを身につけるにはどのように身を振れば良いかを徹底的に考えなくてはならない。そして今まさに大学で勉強している人は、その勉強が自分の名刺になるのかを考えなくてはならない。名刺にならないのであれば、今からでも名刺がわりになるスキルを身につけてアウトプットしよう。とはいえ、世の中に求められているスキルを知るには徹底して最新の情報を大量に高速に収集するしかない。今を知らなければ未来の大局的な予測もできないからだ。例えるなら、論文を書くためにはまず論文を読みまくって、新規な価値のある場所が見えてくるまで情報を収集するしかないのと同じである。
繰り返しになるが、周りのみんなが受けている「人を画一化するための教育」から排出された人間のやる仕事は、いずれAIに代替されるのだから、自分だけの道を進まなければ市場価値は生まれない。今の時代に求められるのは市場価値、すなわち世に求められているスキルニーズを徹底的に考えて、様々に身につけることの出来る人間なのである。
END.