Kの思索(付録と補遺)

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マイノリティ思考をマジョリティに~ Kの思索(付録と補遺)vol.75~

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   大前提から話を始めよう。日本は資本主義国家である。にも関わらず、通常の義務教育の過程では、いわゆる「お金」に関する教育がなされない。だから国民の殆どが、資産運用はおろか、国が設けている制度にすら無頓着なままである。これは不思議な事だとは思わないだろうか?何か裏があるのではないかと?


  この理由は2つあると思われる。一つ目の理由は、日本人が拝金主義的な国民性であることだ。すなわち、お金に関する話をしたり、お金を得ようと努力する行為そのものが卑しいというような考え方をしているということだ。そしてもう一つの理由は、高度成長期における日本の成長戦略として、国民にお金に関する知識力を、むやみやたらにつけて欲しくなかったということだ。例えば、やたらと家や不動産を買わせて、それがさも「当たり前」であるという常識を植え付けることで、成長期の日本は、効率的に、国家として資産を拡大することが出来たのである。


  さて時は2019年。超少子高齢化における圧倒的な人手不足と、成長期どころか成熟期が過ぎ、衰退が始まった日本である。「黙ってみんなと同じことをしていれば、みんなと同じように成長する」なんてことは、少なくともこれから先20年は期待出来ない。これからの時代は「限られたパイをいかに多く自分のものにするか」という競争原理が働くのが現実である。そもそも資本主義社会である時点で、根本原理が競争なのであるが、それは成長する社会においては、皆それなりに裕福になれたため、あまり刺々しく姿を現さなかった。すなわち「上質な普通」を甘受出来ていたのだ。


  拝金主義的な日本人は、このような考え方が嫌いである。しかし「恩を与えればより大きな恩が返ってくる」とか、「出世払い」が成立していたのは、実際にパイが成長し続けてる間は、恩を与えまくる方が、より大きなお返しがくる期待値が高かったためである。しかしパイが縮小する経済においては、基本的に「出世払い」は、利子をつけない限り、そのようなお返しの期待値はマイナスである。そのような社会では、上記したような、限られたパイを互いに奪い合うゲームとなるのである。

 

  だからこそ、ここでの差別化に決定的に重要なのは、「自ら情報収集をして、学ぼうとする姿勢」だと思われる。というのも、黙って口を開けて待っていれば、情報が勝手に入ってくるのが義務教育(もちろんそれすら無視する人もいるが)であり、そしてこの範囲で努力すれば、ある程度の成功は保証されていたのだった。しかしその有利はもはや失われつつある。これに対して「自ら情報収集して学ぼうとする姿勢」は、義務教育では関係ない部分であり、実は殆どの人が持っていないのだ。

 

「受験という行為を有利に進めるためには自らの情報収集が肝要であり、そもそも勉強とはそのようなものではないか?」と反論する人がいるかもしれない。しかし僕が言いたいのはもっと根本的な話であり、そもそもそういう思考回路を持っている時点で、あなたはこれ以上この記事を読む必要がないかもしれない。もう少しじっくり話していこう。


  例えば周りにこんな人はいないだろうか。ちょっと分からないことがあると、すぐ誰かに聞く。ちょっとググれば分かることを、面倒くさがって誰かに任せる。読書や記事を読んでいるときに、分からない単語の意味を、分からないままスルーする。このような姿勢は、つまるところ義務教育の甘々さに慣れすぎたのである。そして義務教育に定められた情報の範囲で、とにかく頑張る事で、ある程度は報われることが出来たのが、これまでの日本でもあったのだ。


  そのようなわけで、「自ら情報収集して学ぶという姿勢」とは、単にお受験や資格勉強の事を言っているのではない。「範囲を限らず、他人との差別化を図りつつ、今必要な情報を、今取りに行く姿勢」だ。もしくは「いつも自分の頭で考え、行動する」姿勢であるとも言えるし「常に最適解を考え、行動する」姿勢ともいえよう。


  具体的には、分からないことがあったら、即ググる。とにかくググりまくる。そして分かるまでググる。まずはこのような簡単な姿勢で良いと思われる。とはいえ馬鹿には出来ない。これだけで国民の上位10パーセントには入れるだろう。これは本気で言っている。周りをみて、これが出来ている人がどれだけいるだろう。


  君の親や、上司や、周りの身近な友人は「普通は〇〇」とか「常識的に考えて〇〇」というような事を言うかもしれないが、そんなことはさらりと受け流してしまおう。嘘だからだ。10年前には、殆どの人がスマートフォンを持っていなかったが、今は国民の二人に一人が持っている。10年とは、それほどの開きなのである。ましてや20年、30年となると尚更である。それが時代の移り変わりの速度感であり、これはどんどん加速していくだろう。


  ある程度の情報収集が行える人は、上記したような考え方は当然だと思うだろう。しかし大多数はそうではないので、その都度変化に対応しようとするマイノリティは、10年前のままの常識を持つマジョリティに弾圧されてしまう。それは優秀かそうでないかに関わらず、単に数の暴力である。「マイノリティにとっては生きにくい社会」という事実、それだけである。


  僕がこのような記事を書いて発信することの理由の一つとして、「普通とか常識とか簡単に言うのは、思考が停止している証拠なので、恥ずかしい」と大多数が思ってくれるような社会にしたいと考えているからだ。常識を疑うマイノリティと、常識を疑わないマジョリティの比率を、逆転させることは出来ないとしても、半々くらいには近づけたいのだ。もちろんこれは困難な道であるので、基本的には「気にしない」というスタンスが大事なのではあるが、気にしないというのは一つの高等技術、いわんや才能でもあるのだ。


  僕の過去記事では、その時その時の僕の中にある「最適解」の考え方、およびその理由を詳しく書いてある。それは義務教育では教わる事の出来ないものであるとともに、僕がさまざまな媒体から、沢山の情報収集した結果のアウトプットである。だからこそ、常識的ではない記事が多くなっているが、それは上記した理由によるのである。


  END.