Kの思索(付録と補遺)

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日々の雑記、大放出~ Kの思索(付録と補遺)vol.128~

寝たきりの人が周りにどんな価値を与えるか。

それは彼の態度によるのである。

もし寝たきりの人が毎日を楽しく生きているとしたら、周りの人間は何か大きな感動を覚えざるを得ないだろう。

生きるということの最終的なものが何たるかを考え、そこに希望めいたものを感じることもあるかも知れない。

 

 

 

意識は無秩序であることは出来ない。意識のある時にランダムなことは出来ない。

無意識である時にのみ無秩序であることが出来る。

また秩序を生み出したら、必ず同じ数だけ無秩序の皺寄せが来る。

我々が寝なければならないのは、それゆえである。

もし意識がある状態だけ続けるならば、人間の脳は壊れてしまう。

覚醒剤の常用で脳が壊れるのはそういうことである。

 

 

 

「場」は一つの用意段階であって、場それそのものは、ただ「在る」という意味しか持ち得ない。

しかしそもそも場がなければ、以下のこともやはり生じ得ない。

つまり、場に引き起こされる諸現象である。

その諸現象のうち、何らかの目的を場に対して施すこと、それは「座」と呼ばれるだろう。

 

 

 

なぜかYouTubeでシラス漁の動画を再生したけど面白かった。

・黒光りした見るからに使える筋肉の漁師のあんちゃんが、半端ない運動量の働きをして、シラスを漁る。

・そのあと、漁れたての半端ない量のシラスを、1.5合くらいの飯にバシャっとぶっかけ、ワサビ醤油でガツガツと掻き込む。

こんなバキバキ体循環の生活してたら、常人とはかけ離れた最強の身体になるわね。

ただ職場に漁師の息子がいて、彼に「漁師ってやっぱめっちゃ健康なの?」って聞いたら、

「いや、体力はあるんですけど、健康かと言ったら、そこは微妙っすね」

との回答。

「え、あんだけの運動して、鮮魚食いまくってんのに?」

と聞いたら、

「それはそうなんすけど、アイツらみんな、酒の量が半端じゃ無いんですよ…」

なるほど、明確な理由だった。

まぁその半端ない量の酒飲めるのも、日頃のバキバキ体循環で鍛え上げられた内臓の強靭さゆえだろうが。

 

 

 

人間関係世界と、自然の世界が断絶している。人間関係で苦労したら、自然の世界を、それも生きている動物を見てみると良い。

彼らは生きる目的とかを考えない。ただ、生きているだけだ。自分の苦労が馬鹿みたいに思えてくるだろう。

猫とか見てると「こいつ、何のために生きてるかとか、絶対考えてねぇなぁ」と思う。

虫とかだと余計にそう思う。

「ただ生きている」、自然世界に従えばそれだけでしかない。そしてそれで良いとか悪いとかもない。

だってそれが自然なんだから。

動物の睡眠を見ていると面白い。

彼らは「寝ようと思って」寝ることをしない。

寝るタイミングなど、考えて寝てはいない。

まぶたが徐々に落ちてくるが、懸命に目覚めていようとする。

しかしついには耐えきれず、眠りに落ちる。

彼らの睡眠は常に「寝落ち」なのだ。

寝ることすらも、頭でなく、身体の本能的な自然の欲求に任せきっているのである。

「いや、犬を飼っていると分かるが、寝たくなったら決まった場所に赴き、寝にいく」

というような疑問もあるだろう。

これは余談になるが、当然、動物には知性の段階がある。

この睡眠の例も、犬より猫を見た方が分かりやすいし、猫よりも爬虫類を見た方が分かりやすい。

知性がある動物ほど、人間に似た行動を取れるようになる。決まったところに排泄するなどがそうだ。

それは、そう言う人間環境を、人間が整え、与え、躾けるから、そうなれる。

知性のレベルにより、人間の作った人工的環境に動物が合わせにいくことが可能になっているだけである。

そういう人間らしい動物の行動が、野生という本来の意味での自然的行為にあたるのかどうか。

余談が長くなった。

自然世界を見ることを忘れて、人間世界だけに傾くと、途端に幸せの基準が人間関係の善悪や利益になる。

頭で考えた幸福になる。

「成功するためには」とかインフルエンサーが良く言うけれど、成功って何だ?

よくよく考えてみると、そんなものに実態なんて無いことがわかる。

散歩をして、風を感じる、風景の移り変わりを感じる、月が綺麗だと感じる、こんなところに花が咲いてるんだと見つける、鳥が朝を知らせるように鳴く。

そういう花鳥風月は、身体で幸福を実感する。頭では無い。

現代人は人間世界ばかりを見つめるために、自然世界があるという当たり前を忘れがちになっている。

 

 

 

自分のやりたい無駄なことを存分にするために、それ以外のあらゆる無駄を削るのだ。

生産性のないことを存分に楽しむ時間を作るために、それ以外のことの生産性を上げるのだ。

生産性を上げることは、生産性をあげることそのものが目的じゃない。

それはただの機械であって、人間を捨てることである。

 

 

 

人は死を経験しない。自分が死んだことは分からないからだ。意識ができなければ、経験もない。死とはそういう性質のものだ。

さて、自分が死んだことが分からないなら、自分は永遠に生き続けているのかもしれない。

たとえば多世界解釈をするなら、自分が死んだ瞬間に自分が生きている世界へと意識が接続され、自分の死は無かったことになる。

たとえ寿命で死んだとしても、次の接続先の世界法則では、平均寿命が300歳の設定かもしれない。

世界のチャンネル切り替えに対して違和感を与えないような世界設定の調整と連続性が神によって完璧に図られているかもしれない。

今の自分は、もう何千、何万、何億回と死んだあとの、別世界に接続された自分の意識かもしれない。

もっと自由度を上げるなら、次のチャンネルの接続先は、自分じゃなくてもいい。

他人の自意識に接続されるかも知れない。それは神の自由であり、その変化に気付くことは決してない。

神の御業のもと、自分はいつまでも同じ自分だと思い続けるしかないのだ。

ニーチェ永劫回帰とも違う、永劫永続とでもいうような死生観である。

 

 

 

「本を読んでも、本当の意味で分かることは無い」ということを分かるために、本を読むんだろうと思う。

つまり、「はやく実践しなきゃ」と、自らをいてもたっても居られなくするために、本を読むのだ。

 

 

 

仕事で分からないことがあるのは、当たり前なのである。

何故なら、我々はそれまでの背景を知らないのだから。

生まれた瞬間、世の中に出るものは全員が遅刻してきている。

先生が偉いというのは、そもそもはそういう意味である。

その遅れを必死に取り戻そうとするのが、仕事なのである。

 

 

 

この人とは価値観があわない、という人は、例えばその人の誕生日知っているだろうか?好きな食べ物はどうだろう。

本人の本人たる部分は、仕事の意見どうこうよりも、まず最初にそういうところを知らずには、分かるわけが無いのではないか。

 

 

 

科学はなぜ意識を説明出来ないのだろう。

それは、そもそも科学が意識の中に包括されていることに起因している。

意識がないと科学は出来ないだろう。意識が無ければ、言語もなく、ニュートンの法則も生まれ得ない。

全ての人間がいなければ、科学的法則にどのような意味があるのか。

意味は、意識がつけるのである。

意識あっての科学であって、逆はあり得ないのだ。

 

 

 

読書をしている間は誰にも追われないのである。

何故なら、こちらが先人を常に追う時間だからだ。

 

 

 

生きているとは何か?ということが分かるには、生き物が作れるようになって初めて分かるだろう。

 

 

 

いつも物を考える人というのは、いつも自分と周囲の折り合いが付いてないから、考えを止めることが出来ないのである。

 

 

 

緊張しやすい人は、自己信頼度が高い人らしい。

というのも、「それが確かに出来るだろうか?いや俺ならやらなければならない」という不安に襲われるからである。その不安が緊張に繋がる。

反対に、60点を取れば良いや、自分そんなに凄くないし、と心から思ってれば、緊張しないことになる。

 

 

 

傷をつけた時の治りは、老人よりも子供の方が早い。

つまり子供は、体験の1サイクルが早いと言えるだろう。

この肉体の体験サイクルは、当人の時間の感覚というクオリアに直結しそうである。

そうなると、一年ということを基準にした時、一年の体験サイクルを子供の方が多くこなすことになる。

子供にとっての一年があれほど長く感じたのは、そういうことかもしれない。

 

 

 

文章を要約して簡潔に伝えることが、本当に全ての場合で良いと言えるだろうか?

例えば、あえて猿にでも分かるように細々と文章を連ねたメールを送ればどうだろう。

相手はそれを要約する必要があるが、あえてそうさせることで、相手は自分の頭の良さを感じ、気持ち良くなりはしないか。

このことによって、最初から自分で要約をしたメールを送るよりも物事が簡単に進むことがあるかもしれない。

 

 

 

プレゼンや起案を通すのに、事前の話をしつこくやって置くことが99%の成果を決めることになる。

反対に、ジャストアイデアの提案をいきなりしても、だいたいエレベータートークになる。

そんな話を初めて聞いて、1発OKなんてことは殆どないだろう。

その上、ケチをつけたい役回りの人もいる。

そういう懸念事項を事前に時間をかけてプチプチ潰す根回しをすることで、いざプレゼンになった時、何事もなかったかのように話が通るのである。