FGOとは何か?Fate/stay nightを知らずに語るなかれ!巨大コンテンツ「Fate論」〜Kの思索(付録と補遺)vol.2〜
FGOが人気だ。FGOとはFate/Grand Orderというスマホゲームのことである。1000万ダウンロードを超え、噂によればこのスマホゲーに関して日に「3億」動くとまで言われている。
このゲームが起爆剤となり、Fateの名が広く一般に知られるようになった。このゲームをきっかけに新規Fateファン層が大量に開拓され、様々な方面に展開した。アニメではFate/ApocryphaやFate/UBW、Fate/zero、ゲームではFate/Extraやccc、映画ではFate/HF等である。
FGO以前からFateというコンテンツは広かった。要は売れ続けていた。ただそれまで「一般層」に知られていなかっただけだ。アンダーグラウンドでは、Fateというコンテンツは10年以上確実に評価され続けていた。
今回のブログでは、まずシリーズ原点であるFate/stay nightについて以下の章立で紹介する。
1.Fateシリーズの原点「Fate/stay night」について
2.Fate/stay nightに作者が込めた想い
3.Fate/stay nightは面白いのか
そして最後のまとめとして
4.FGOとは何か?
について自分なりの解釈を示すこととする。
1.Fateシリーズの原点「Fate/stay night」について
2004年1月30日、エロゲの歴史が変わった。「Fate/stay night」が発売されたのだ。
「Fate/stay night」は元々エロゲである。しかし、革命的であった。
それまでのエロゲは、kanon、君が望む永遠、家族計画、クロスチャンネル等の代表作の傾向、つまりベタベタにしろドロドロにしろ「恋愛」を軸にしていた。エロゲなのだから、当人達をセックスさせなければならない。恋愛が軸になるのは当然といえば当然だ。
しかしFate/stay nightは違った。
エロゲであるにもかかわらず「サーヴァント」と呼ばれる過去の英雄(アーサー王等)を召喚し、「マスター」はそれを使役し、めっちゃバトルさせた。
ここにおいて、エロゲ=「恋愛」ではなく、エロゲ=「バトル」という謎のコペルニクス的転回が起きたのである。
もちろん恋愛やセックスはあるものの、それ自体はストーリーの本質ではなかった。ストーリーにおいても「救いとは?」「正義とは?」「悪とは?」「悪として生まれ落ちた者に罪はあるのか?」など、非常に哲学的なテーマを扱っていた。それ故に考察や論争が捗った。みな夢中になった。その世界観は広がり続け、いまなお多くのファンを虜にしている。
これ以降エロゲ界隈はコペルニクス的転回の影響を受け、「マヴラヴオルタネイティブ」「バルドスカイ」「村正」等、バトル燃えの傑作ゲームが次々と評価され、一世を風靡することとなる。これらを評価するときには、みな口々に「もはやエロゲではない」と言ったものだ。※また別の機会にこれらを紹介しよう。
Fate/stay nightが後世に与えた影響はこのように大きい。さらにFate/stay nightが打ち立てたエロゲコンテンツとしての売り上げ記録は今なおトップの座を譲っていない。
2.Fate/stay nightに作者が込めた想い
これを知るためには、主人公の特性から語るのが良いかと思う。
主人公の名前は衛宮士郎。彼は幼い頃に経験した大災害により、皆を救うことのできる正義の味方になりたいと考えていた。
しかし残念ながら彼は様々な点で「偽物」であった。
というのも、まずこのゲームのバトルにおける「マスター」として参戦する資格を得たのはいいが、彼に関しては正式な成り方ではなかった。
またマスターは基本的には「魔術師」の系譜を受け継ぐもの達が強く、このバトルーーー聖杯戦争ーーーの主役となる。聖杯戦争は魔術師を起源として生まれたものだからだ。この点に関しても士郎は魔術師ではなかった。
さらにいえば、魔術師ではないことの不利はそのままサーヴァント(戦いで使役する過去の英雄)に跳ね返る。何故ならサーヴァントは大量の魔力供給を必要とするからだ。しかし士郎には魔力が殆どなかった。召喚したサーヴァントが運よく(いわんや運命よく)最強クラスだったため、何とか戦い抜く事が出来た、という有様だったのだ。
以上の事から、士郎はこの聖杯戦争における例外的なものであり、マスターとしてはある意味最弱であり、その特性としても「偽物」であった。作者はそんな人間を主人公に置いたのだ。
士郎は物語の中で自分の未来の姿を見ることになる。その未来は惨憺たるものだった。それはそうだろう、そんな偽物がみんなを救うなどと大層な「理想」を掲げて無理矢理突き進もうとしたら、待っているのは辛く厳しい「現実」である。未来の自分は絶望していた。
ただし、未来を見たからこそ、出来ることがあった。それは「覚悟」である。
自分の魂に嘘をつかず、 自分が正しいと信じた道を突き進む。その結果が絶望の未来だとしても、一向に構いはしない!士郎はそういう「覚悟」をしたのだ。ここには大きな意味がある。「覚悟」が出来た人間は幸福になるからだ。
プッチ神父も以下のように言っている。
この哲学を疑う人は以下のちょっとした実験を試してみてほしい。
・いま抱えている不安を紙に書き出す
・その結果起こりうる最悪の事態を考えてみる。
・その最悪の事態を(フリでも良いから)覚悟する。
・その最悪の事態を少しでも好転させるために今から何が出来るか考える。
どうだろうか?少しは心が軽くなったのではなかろうか。実はこのやり方、古くから伝わるメンタルヘルス療法であり、その効果が実証されている。
話を戻そう。ここまでくると、主人公に込められた作者の想いが見えてくる。
作者の奈須きのこは今では超有名小説家だが、Fate/stay nightが発売されるまでは、しがない同人作家であった。そしてエロゲの脚本を書くことになった。ここには少なからず、自分が「偽物」の小説家であるというルサンチマンがあったことだろう。またこのまま小説を書き続けることに対して将来の不安もあったことだろう。もしかしたら絶望の未来を見ていたのかもしれない。この状況は、上記してきた主人公の置かれた立場と全く同じではないか。
そして、Fate/stay nightの2章、UBWでにおける主人公の叫びには、偽物小説家としての作者の、溢れんばかりの想いが重なるように思えるのだ。
「偽物が本物に勝てない道理はない!」
余談: この「偽物」に関して作者は「空の境界 中」でも同様にテーマとして扱っている。
さらに「幸福」に関しても「空の境界〜未来福音〜」で扱っている。
どちらもFate/stay nightと同様の結論が出ているため、これらのテーマには確固たる作者の信念があるのだろう。空の境界も傑作ですよ。
さらに余談 : ここまで色々考察したが、実際のところ作者は全然こんな事考えてないかもしれない。
しかし予め宣言しておくが、私は、実際に作者がどう考えていたかなんて「どうでもいい」と思っている。
重要なのは「作者がどう考えたのかを自分でどう考えるか」である。
なぜなら作品が世に放たれた時点で、作者の役割は終わっているからだ。これは以下の思索から結論したことだ。
例えば映画評論家が様々な考察をして、実際のところどうなんですか、と映画監督に聞くと、「そこまで深い狙いじゃなくて、経費の都合上だった」とか「ああ、言われてみると無意識にそう思ってたのかもしれないですね」という肩透かしな返答が返ってくるのを沢山見てきた。
しかし、考えてみるとそれはもっともなのだ。何故なら、作者は「作品を作り上げることに全力」だが、評論者は「作品を読み解くことに全力」なのだから。これにより、作者は自分自身でおよびもつかないかった作品の切り口を、評論者から与えられることになるのだ。
さらにいえば、多くの評論には、自分の人生のバックグラウンドが少なからず乗る。ある作品に感動したとして、自分が何故感動したか、何故この作品が素晴らしいのかを考察する際、どうしてもこれまでの人生における自分の「琴線」を持ち出さずにはいれないからだ。
自分の人生が最も納得するように、人は作品を解釈する。
以上のことから、作品は、作者の手から離れると、その後は個々人の解釈によってオモチャになったり救いになったりする。
その後から作者が実はこうでこうで〜なんて色々言ったところで、もはや何の意味もない。すでに個々人において、作者の知る作品以上のものに変わってしまっているのだから。作者の役割は終わったのだ。
3.Fate/stay nightは面白いのか
さて私自身、このゲームをプレイし終わった当時は怒っていた。というのは、都合が良すぎる点があったり、納得できない点が多々あったからだ。
主人公補正があまりにも強過ぎるし、そもそも狂人であるため、行動原理が理解できず、感情移入もしづらかった。要は手放しで面白いとは言えなかった。
しかし現状見ての通り、どっぷりFate沼にハマってしまった。その理由は、扱った哲学的テーマとその結論が魅力的だった、主人公の置かれた立場や想いに共感したなどなどあるが、やはり際たる要因は「世界観の素晴らしさ」だろう。
聖杯、魔術、魔法、サーヴァント、宝具、令呪……それらの設定がいちいち詳細であり、やりすぎではないかと思う程に深掘りされ、歴史を持っている。そしてそれらが紡がれ「世界とは何か」を神秘的に哲学している。
物語を通して真理を語るという点で、もはやFate/stay nightは宗教だった。
4.FGOとは何か?
ここに至ってはFGOもまた宗教であると言わざるを得ない。それは、原点であるFate/stay nightが宗教であり、そこで生み出された革命的とも言える設定の数々がそのまま踏襲されており、それにより同様に好奇心を揺さぶられ、さらには物語のクライマックスを奈須きのこが実際に脚本を書き、これがFate/stay nightの正当続編だと言っても過言ではない作品であったためだ。
FGOが「売れた理由」などを考察すればキャラクターの魅力だとか、宝具演出の格好良さだとか、適度なエロだとか、そういう話になるだろうが、そんな薄っぺらなことはどうでもいい。
本質的な話をするのが目的だった。FGOとは「何か」と問われれば「宗教である」と結論出来るだろう。
さて随分と長くなった。本当はFate/stay nightの100倍は好きなFate/zeroについても解説するつもりだったが、また別の機会にします。
そもそもFGOの解説ならstay nightの紹介で十分である事に気付いたのです。
(あと書いてる途中に「これzeroまで書いてたらマジ終わらねぇな」と思ったため諦めた)
ここまで全部読んだやつ、まじ凄いと思う。ありがとう。暇なの?
ではまた。