Kの思索(付録と補遺)

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映画「来る」から「ずうのめ人形」をレビュー~ Kの思索(付録と補遺)vol.71~

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  先月、2018年映画ベストの記事を書き、その4位として「来る」という映画を挙げた。原作小説は澤村伊智の「ぼぎわんが、来る」である。比嘉の性を持つ姉妹が、怪異現象を調べ、怪異と戦うという事で「比嘉姉妹シリーズ」として、これ以外にも「ずうのめ人形」「ししりばの家」「などらきの首」が刊行されている。

 


  映画の「来る」が非常に面白かったので、早速2作目にあたる「ずうのめ人形」を読んでみた。その感想をレビューしたいと思う。

 


  呪われた小説が存在した。それを読んだ人は、遠くに日本人形が見えるようになる。そして日が経つごとにその人形が、だんだんと近づいてくる。最後には、人形がすぐそばまで来て、ついには呪い殺されてしまう。

 


  ざっくりしたあらすじは以上のようなものだ。これはもう明らかに「メリーさん」や「リング」のようなホラーの定番からネタを持ってきているし、作中でも言及されるので、いわゆるオマージュという奴である。

 


  同時に、作中では「オマージュ」という概念に対して否定的な、小説書きの少女が出てくる。彼女は「オマージュって言っておけば、オリジナリティがなくても許される」というような風潮が、許せないのだ。しかし、そもそもこの小説がオマージュの塊であり、これは作者のメタ的な視点だと言えるだろう。

 


  この少女は、ホラー映画を見るのが好きで、特に「リング」が好きである。しかし、自分よりも映画が詳しい大人に「リングで満足出来ちゃうなんてイイね。」と馬鹿にされる。さらに「ホラー映画好きを自称しておいて、中川信夫東海道四谷怪談を見てないなんて、あり得ない」と蔑まれる。

 


  馬鹿にされた少女は「映画への愛が、さも知識量で絶対的にカースト的に決まるというような態度が鼻持ちならない」と憤る。知識があることが、そんなに偉いことなのか。これも非常にメタ的であり、物語書きとしての作者の体験や矜恃が根底にあるのだろう。

 


  さらに作中で「小説賞の批評家の偉そうなコメント」に対して激しく不快の念をあらわにする描写もあり、ここまでくると、何やら作者の個人的なルサンチマンが感じられる。

 


  この小説書きの少女が、上記したように、小説や己の作品に対する嗜好に対して、偉そうな奴らから散々な事を言われるのである。そして少女の人生そのものも、親に恵まれず、非常に重い体験をしている。こうして彼女の恨み辛みが積もっていくのだ。

 


  作者は、この少女に色々と思いを寄せており、そんな少女の書いた小説が、読んだ人を呪い殺すものとして、世に出回るのである。その上で、現実の読者も、実際にこの呪いの文面を、小説内で読まされることになる。

 


  だから読者は、自ずから以下のような気持ちに襲われる。この「ずうのめ人形」の小説そのものも、呪いの小説として機能してしまうのではないか。メタ視点があるからこそ、現実の恐怖として迫ってくるホラーなのである。

 


  というのは流石に言い過ぎかもしれないが、例えばリングでも、実際に呪いのビデオの映像を映画内で見せられるのであり、「現実の自分の元にも7日後に貞子が来てしまうのではないか」と恐れた人も、少なからずいるのではなかろうか。呪いのビデオの映像で目をつぶったり、貞子に見られる場面で目をつぶった人は多いだろう。

 


  以下ネタバレ。

 


  小説の呪いそのものは、この少女の恨み辛みを起源としているのだ。しかし重要なのは、この少女自身は「死んでおらず」、大人になって人並みの幸せを手に入れて生きているという事である。

 

  そして散々な目にあっていると描写されていたはずの少女が、実はイジメを行なっており、自分も他人を散々な目に合わせていたということが判明するのである。

 


  「来る」でもそうだったが、呪いの起源が「まだ生きている人間にある」というのが、澤村伊智作品に通じる筋なのかもしれない。そして人が受けた恨み辛みのような悪は、また別の形となって他人へ伝播する。それは親から子であったり、部下だったり、多様な人間に広がっていくのだ。

 


  ぼぎわん、ずうのめに通じるのは「発生源である本人にとっては全く無自覚な、生き霊の呪いの問答無用さと殺戮パワー」にあるが、それは現実でも悪意が無自覚に、しかし殺戮の力をもって確かに伝わることのメタファーなのである。

 


  ぼぎわんでは最強の霊能者である比嘉琴子が、怪異とほぼ対等に戦ってくれるので、ある意味では「安心感」があった。とはいえ、問答無用の呪いに問答無用の最強キャラクターをぶつけるという解決は、上記してきた作者の通したい筋を思うと、かなりアクロバットなやり方だったとも言える。

 


  しかしそんな最強の霊能者である琴子は、ずうのめ人形では出てこない。その代わりに、霊能力としては琴子に比べてかなり劣る、妹の真琴が怪異と戦うが、ずうのめ人形に対しては殆ど無力である。

 


  個人的にはこの展開の方が、作者の通したい筋に近いのだと思った。すなわち、人の悪意による呪いは、本来は個人の力ではどうしようもないほど、絶対的な力を持ったものなのだ、という事である。

 

  このように見ていくと、やはり作者は単に怖いホラー、怪異を描きたいのではない。むしろ描きたいのは人間の闇の方であり、ホラー要素はそれを引き立てるものに過ぎない。次作の「ししりばの家」も読んで、これら上記した考察の正しさを確認したいと思っている。


  END.