Kの思索(付録と補遺)

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映画「空の青さを知る人よ」解説〜Kの思索(付録と補遺)vol.99〜

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あかね色と、あお色が入り混じった夕景の空である。椅子に座った少女がベースを持っている。そのベースの色にも、あかね色とあお色が入り混じっている。


少女は本作のヒロインであり、名を「あおい」という。

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彼女はベースの音を聴くためにイヤホンをつける。外の雑踏、ノイズは遮断され、彼女だけの世界となる。


そこに鳴らされるベースの重低音。普段あまり音楽を聴かない人であれば「ベースってこんな音がするんだ」と驚くであろう。まさに「ベースが主役」と言わんばかりの音響表現である。


彼女は不幸にも幼い頃に両親を亡くし、姉である「あかね」を母親のようにして育ってきた。

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あおいは姉のあかねのことは好きだが、秩父を舞台にしたこの山に囲まれた地元を好きになれないようである。

 

「山に囲まれてるってのは閉じ込められてるってことなんだよ」と彼女は言う。


彼女はここではないどこかを探している。どこか閉塞感を感じており、この地元を飛び出したいと考えている。その気持ちのモヤモヤを払拭するように攻撃的なベースが重なる。


閉塞感を象徴したイヤホンによる遮断と、空とベースの色に象徴される「あお」色と「あかね」色。さらに本来、バンドにおいてベースは主役ではない。むしろ下支えであり、全体の調整役である。それなのに、彼女のベースはまるで自分の存在を主役であると叫ぶかのように主張している。


これから始まるドラマが、どのような展開を迎えていくのか。このオープニングの数分だけで非常に的確に、巧みなメタファーをもって表現されーーそこに映し出されるタイトルコール「空の青さを知る人よ」。


タイトルコールが素晴らしい映画というのは決まって良い映画である。

 

それは何故かといえば、作り手の技量が最も分かりやすく現れるのがタイトルコールまでの表現だからだ。そこには映画的な様々の要素を盛り込みつつも、観客のテンションを引っ張っていく数分を創らなければならない。それは技量無くして出来ない。


この映画は私にとって傑作であった。しかしその予感はすでにタイトルコールで受け取っていたのである。


さて昨今のアニメの流行りは、現実には起こり得ない「時の変化」を盛り込んだ愛の物語である。


少し古いところからいけば「時をかける少女」、そして「まどかマギカ」や「シュタインズゲート」などがそうである。また「君の名は」の爆発的なヒットによって、そのテーマが「商業的に当たりやすい」ことが配給会社にも決定的に確信されることになったように思う。最近見た「ハローワールド」などもその例であった。


さて本作も同様の流行りに従っている(そもそもプロデューサーが「君の名は」と同じ川村元気である)。


本作では、姉である「あかね」のかつての恋人が、10年前の姿のまま現在に現れてしまうところから物語が動き出す。

 

名を「しんの」という。

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もちろんそうなれば、物語上のフォーマットの必然として、「しんの」に対し、妹である「あおい」が恋をしてしまうのは明らかである。

 

説明するまでもないかもしれないが、かつての姉の恋人に妹が恋をしてしまうから罪なのである。だから物語上の展開としては、何ら予想外のことが起きているわけではない。


しかし「彼女が恋心を確信してしまうシーン」の表現がただ事ではないーー


あおいは「しんの」に対して、自分の罪を吐露する。そしてその罪が、結局は自分の弱さのせいであると吐露し、全てを背負おうとする。


「しんの」は、そのあおいの姿勢を「スゲーよ」と真っ直ぐに褒める。あおいは心を揺さぶられる。それに返すように「しんの」も自分の弱さを吐露する。


あおいは思わず「しんの」の頭を撫でてしまい…直後「しんの」に対して目をつぶって顔を近づける。その距離感や雰囲気は、観客にキスシーンを思わせる。


しかし「しんの」は、「なんだよお前も頭なでて欲しいのか?」と返す。


勿論、あおいの気持ちはそうではない。だが、キスをするわけにもいかない。かといって「頭を撫でて欲しい」というのも、あおいの性格に全くそぐわない。


だからあおいは前髪をあげ、額をさらけ出し、ただ「デコピン!」と叫ぶ。「しんの」から強烈なデコピンを額に食らうと、音楽は決定的な恋の確信を訴えるように、そしてそれは罪を含んだような音調で盛り上がり、額には罰としての痛みが残るーー


この物語は、オープニングから明らかであるように、あおいに対してはある種の「悲愛」に至るしかあり得ない。ベースは本来、主役ではなく、あくまで「調整役」だからだ。それを最初に暗示されているがゆえに、上記のシーンが表現する罪と罰はあまりに叙情的である。


では何を調整するのかといえば、それは勿論、姉である「あかね」が、現在の「しんの」ーーすなわち「慎之介」と結ばれるための調整である。

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それは同時に、あおいの恋人である「しんの」の消失を意味するのだった。


すっかりおじさんになった「しんの」、慎之介は、性格もネガティブになり、すっかり社会の闇に擦れてしまっていた。そのくせ容姿は良いから、女性には囲まれている。


そんな慎之介をみてあおいは「あんなの、しんのじゃない」と言うわけである。


だが慎之介は硬派のままであることが友人の口から明らかになるとともに、偶然にも姉の前でギターを弾く慎之介を目撃することになる。

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それはエレキギターだが、アンプもエフェクターも何も繋いでない「クリーントーン」である。これが何を意味するかはいうまでもあるまい。


そして歌うのは、あかねにリクエストされたかつての自分のソロデビュー曲「空の青さを知る人よ」であるが、慎之介にとっては黒歴史であり、照れ隠しのために様々な人のモノマネで歌いだす。


だがそのモノマネが、同窓の数学の教師であるとか、慎之介とあかねが同じ時代を生きて来たことを明示する。


そして何よりも、慎之介のギターであかねが楽しそうに笑うのを見て、それが決定的に「しんの」であることも確信せざるを得なくなるのだった。


さて「空の青さを知る人よ」というタイトルは、諺である「井の中の蛙 大海を知らず されど空の青さを知る」から来ている。


この物語において、「井の中の蛙大海を知らず、だから大海を知りたい」と願うのが、妹であるあおい、そして「空の青さを知る」のが姉であるあかねだ。


姉が、かつてのしんのと別れるキッカケになったのは、幼いあおいを残してこの街を出て行くことが出来なかったからである。あかねは恋人よりもあおいを優先した。


だから10年経っておばさんになって、あかねは井の中の蛙かもしれないが、空の青さ(ここではもちろんあおいのことだ)を知るというわけだ。


あおいはその逆だ。姉の「空の青さを知る」気持ちにも気付かず、それよりも井の中の蛙であり続けることに焦り、大海を知りたいと願っている。しかもかつての姉の恋人に恋してしまった。それらがある意味では若気の至りとして描かれる。


だが、姉の「あおい攻略ノート」を発見し、それを覗き見すると、自分がいかに幼少の頃から姉から大事に想われて来たか、井の中の蛙を馬鹿にした自分がいかに子供であったかを痛感することになるのであった。


そのうえ、なんでも出来るように思えた姉も、結局は地道に泥臭く汗をかき、努力し続けただけの人であった。これが現実であった。今度は自分が空の青さを知る人にならなければいけない。


「しんの」の存在は地縛霊とも生き霊とも表現されているが、実際のところその正体は謎である。

 

ここでは文脈的なメタファーと解釈する方が良いだろう。


すなわち「しんの」が、現れた山中の小屋から出ることが出来ないというのは、あかねと別れることになってこれからどう歩んでいくか決めかね、一歩先に踏み出すことが出来ないというかつての状況が、霊的なものとして現出した際の性質となった、という解釈である。


「とある場所に縛り付けられた」というものの象徴は、あおいにとっては秩父の山々であるが、「しんの」にとってはギターである。


だから映画のクライマックス、あおいの手を借りて「しんの」が小屋から解放されるという世界の理への叛逆が起きた際には、縛り付けられたギターの弦が弾け切れるのである。


そしてその奇跡は、あおいが「空の青さを知る」ことなしには起こり得なかったのであった。


しんのはあおいの手を引いて空へと飛び出す。


畳み掛けるように流れるあいみょんの「空の青さを知る人よ」の完璧なタイミング、気持ちの表象が物理法則を捻じ曲げるデタラメな奇跡は、カメラを縦横無尽に走り回らせる。それと同時にまた奇跡のような青色の空がある。


彼らは物凄い速度で目的へと向かい、上昇し続ける。ひとたび足を跳ねあげれば、彼らにはまるで重力など無いかのように飛び上がることができる。


対して慎之介は、重々しく泥臭く目的へと向かう。汗をかき、警察に止められつつも、ゆっくりとではあるが確実に目的へと進む。これが現実である。現実にはこれしかないのだ。この対比のなんと尊いことか。


物語の全てに決着がつき、あおいは坂を「下る」ことになる。


先ほどの上昇が嘘のようであるかのように、ゆっくりとしか歩めない。それを否定するかのように、また泣くのを誤魔化すように、走ってジャンプしてみても、もう先ほどのようには飛べない。ここには現実が残った。


「泣いてないし」と強がるあおいに、突風が吹いて前髪をあげる。かつて恋した人は言った。「赤ちゃんは、おでこに息を吹きかけると泣き止むらしい」。


見上げた空は美しい夕景である。あかね色とあお色が入り混じった空である。


「くそ青い」

 

そう吐き捨てて、あおいは現実の空の青さを知るのであった。