映画「ジョーカー」を観た〜Kの思索(付録と補遺)vol.98〜
ベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲得した「ジョーカー」。特報を見た時から私のテンションはブチ上がりで、本当に待ちに待った公開だったわけだが、結果としてはあまり乗り切れない映画であった。
私が期待していたような、「虐げられたものが、その臨界点を超えて覚醒する」というような話ではなかった事が原因かと思う。
主人公であるアーサーは、最後の最後まで、「悪のカリスマ」としてのジョーカーに「完全な変貌」を遂げることはない。人間である部分がどうしようもなく残されたまま終わる。
不満を持った庶民の英雄として持ち上げられることにはなるが、本人の内面にその状況が祝福をもたらすかといえば、それもまた関係がない。
これは一貫して彼の主観の物語である。それを示すように、カメラは常に主人公を捉え続ける。そして周囲の人間は意図的に焦点が外されている。
さらに彼の主観から見る世界は、もはや何が現実で、何が幻かもわからない。
自分の出時に関する資料も、母親の発言も、トーマスウェインの発言も、調査するほどに混乱が加速するばかりである。自分の脳がおかしくなっているのは分かっている。そのせいで、真実という概念は、彼の主観においてその確度を失う。
もはや「客観的」真実など、どうでもよくなってくる。
そうした描写の中においては、自分の主観的真実だけが全てであり、混乱した病的な世界で生きる自分の存在だけが彼にとっての真実であり、そういう自分をこの世にもたらした存在が「在る」ということだけが真実であった。だからその報復は、その存在を消すことによってしかあり得なかった。
彼は最後まで普通の一人の人間で、ともすれば誰もがなり得る精神病患者であり、ごくごく平凡な、どこにでも発生しうる社会の犠牲者だった。
私が期待した「何もかもに吹っ切れて、ニーチェ的な超人の哲学のもと、苦難なほどに哄笑するジョーカー像」とは全くの逆のものだった。
独特の高い笑いは哄笑ではなく、もともと幼い頃から持っていた精神的な病気であった。彼は緊張が走ると笑いが止まらなくなってしまうのだ。まさに生まれ持ってのJOKERである。
ここでのホアキンフェニックスの演技は圧巻であり、笑いたくないのに笑っている苦悶が、観ている我々まで伝わってきて、まさに息が詰まるような思いがする。(実際にホアキンは同様の症状を持つ患者の様子を何人も見て研究したそうだ)。
ただ転がり落ちるように社会から排斥された結果、人を殺めるしかなかったという形でジョーカーになった彼は、決して「強いジョーカー」ではありえず、最後の最後まで弱くて哀しいジョーカーだったといえば伝わるだろうか。
あまりに人間味あふれる、精神病をもっただけの、「普通の」、「だれでもこうなりうる」ジョーカー像なのだ。
まったくアメコミ感がないのもこのせいだと私は考えている。
政治が腐った故に発生した貧富の格差と治安の悪化、そしてそれに巻き込まれる形で犠牲になる庶民という題材を描くためには、舞台がゴッサムであるのは確かにちょうど良いが、逆に言えば別にゴッサムである必要もないし、もっと言えばジョーカーである必要もない。
ただその要素がなければ、本当にただありふれた、もはや常識的ですらある資本主義の闇を描くだけの、個性のない映画になっていたことだろう。
結果として「そりゃ、こういう人はこういう風に社会に発生するよな」という感想であり、私としては、それは既に分かりきった事であった。
以上のように、非常に普遍的な話ではあるものの、私にとって特別な発見がなかったという点で、興奮する映画ではなかった。
それでもなお最後まで退屈しきることなく観続けられたのは、やはりホアキン演じるジョーカーが圧倒的だったからだと思う。
もし次作があるとすれば、足を組み、タバコを吸い、血でメイクをし、決して病気以外では笑わない、ヒリヒリするようなホアキンのジョーカーを期待したい。