Kの思索(付録と補遺)

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Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring songをレビュー~ Kの思索(付録と補遺)vol.108~

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Fate/stay night [Heaven's Feel]III.spring song(以下、HF)を観てきたので、前作に引き続きそのテーマをつらつらと書いていきたい。ネタバレがあるので、鑑賞後に読むことをお勧めする。

 

前作の記事を下に貼っておく。まずこれを読んでもらうと、以降もスムーズに読み進めて頂ける。

yushak.hatenablog.com


Fate/stay night [Heaven's Feel]のテーマは、つまるところ「正義のあり方」である。


それはFate zero(以下、zero)の衛宮切嗣から続くものであるということは、これまで繰り返し述べてきた。


おさらい的に振り返れば、これまで正義の形は以下のように語られてきた。


すなわち「誰も彼も救う」という形の正義は、理想的ではあるが実現困難であるということ。


この理由は、一方の正義が一方の悪になってしまうことによる。


これが、すなわち「どちらの船の客を救うか」というzeroにおける問いに現れた。(ちなみにこれは正義論講義において有名な「トロッコ問題」の置き換えである。)


切嗣や未来士郎(アーチャー)は、この問題を悩み抜き、「少数を犠牲にして大勢を救う」という道を選んだ。(ちなみにこの選択を功利主義と呼ぶ。反対は義務主義である。)


しかしそれは、やればやるほど理想に反していく。なぜなら「犠牲にし続けた少数が、いつしか救ってきた大勢の数を上回る」ことになるからだ。


ここに衛宮切嗣は挫折し、愛する人すべてを切り捨てるという結末に至った。最後に見ず知らずの士郎を救うことで、zeroからやり直すこととなる。


アーチャーである未来士郎においても、切嗣と同様の結末に至る事を知りながら、それでもその道を諦めずに行くことを選んだのであった。


そして本作のHFシリーズでは、どうか。


桜を殺してしまえば母体を消滅させることができ、大聖杯の完成を妨げ、冬木の悪夢の再来を抑えることが出来る。


しかし凛も士郎もそれをしなかった。桜を救って、大聖杯はそのままに取り置いたのだ。


ここにおいて正義の問題は極まる。


すなわち「救いたいたった一人を救うために、その他を犠牲にする」という正義の形がテーマとして描かれる。


繰り返すが、「世界を犠牲にして自分が救いたい人だけを助ける」ということ行き着くのだ。


お分かりだろうが、この考え方は、ともすれば非常に利己的な考えであり、この選択をした人は、この世界から最大悪として認められるだろう。


故に、こうなる。


誰もが認める正義の形を、個人が実現可能な形で目指していくと、それがいつしか、誰もが認める悪の形で決着する。………


もはやここに至っては、正義を成そうとする彼の行動そのものが、その他大勢にとっては悪であることになる。


どうすれば良いのか?


彼がいる限り悪が成るなら、彼はいなくなったほうが良いのではないか。


言峰綺礼が、衛宮士郎のことを、「自分と同一の裏返しである」と言及するのは正にこのことにおいてである。太極図の陰と陽のようなものだ。


「自分の理想を実現したい」という彼らの純粋すぎる「正義」において、それがどちらに向いていたかの違いでしかない。


衛宮士郎はみんなを救いたいという理想を向いていたし、言峰綺礼は大聖杯の完成によって新しい世界の誕生を達成するという理想を向いていただけである。


ただ、衛宮士郎の中にあって、言峰綺礼の中に無いものがある。


それが、「自己犠牲」である。


いわゆる英雄(ヒーロー)と呼ばれるものの多くが、この思想を持っている。自己犠牲を持ちつつ、何かを成そうとする姿に人は心を打たれる。


この思想を持たないままに自分の理想を実現しようとするものは、反英雄と呼ばれる。


さて、この問題を巡る正義と悪の一つの境界らしきものに、「自己犠牲」があることが見えた。


これが太極図における白と黒の区分けーー有るようで無い「空の境界」ーーである。


自己犠牲の究極はどこに至るか?

 

それは当然ながら、自分の死である。自らの理想の実現、使命の達成のために、自分の命を投げ捨てることである。


「どちらも救うために、自分が死ねばいい」という考え方である。


これは武士道そのものである。仁とか義とか誉のために、自らを犠牲にする道である。


ただし士郎のこの考え方は、散々と凛が注意していた。あなたは自分の命を顧みていなすぎて危険だと。もっと自らを大切にして欲しいと。


まずは自らを優先して救った後にしか、他人は救えないのだと。(ちなみにこの問題をさらに深掘りした作品として、化物語シリーズの「終物語」がある)


今作の最後に士郎が選んだのはそういう道である。


彼がイリヤの前で「生きたい!」と叫んだのは、自己犠牲の廃棄に他ならない。


「境界」を捨てて、英雄を捨てたのだ。


彼が救うのではない。彼が救われる道を選んだのだ。


これは彼という存在を構築するコアを捨てたようなものである。故に彼は生まれ変わらざるを得なくなった。


皆を救うという正義も、切嗣の目指した正義も、アーチャーの目指した正義も、全て捨てた。捨てた先にあったのは、英雄たることを捨てることであった。


英雄になることを辞め、一介の人間として、ただ一人に寄り添い、共に歩む。


浮き足立つ非凡であることをやめ、地に足をつけた凡として、一歩一歩進むことを選んだのだった。


この結末に桜が咲く。桜は散っていく。すぐにただの風景と化すだろう。特別なものは何もなくなり、誰も気に留めない。それが彼らの選んだ道である。

 

そうしてこの物語は幕を下ろす。

 

儚い祝福を桜にして、春はゆく。