「高杉晋作と吉田松陰」前半 吉田松陰がペリーの黒船に乗り込むに至る思想的背景~ Kの思索(付録と補遺)vol.109~
歴史というものには本来、始点や区切りといったものはない。連綿と続いてきたものである。
そういう意味では、歴史の教科書のように、〇〇時代などと、あたかも区切りがあるかのように名付けて呼ぶのは間違っている。
だが、それでも歴史に区切りをつけたくなるほどに、時代が変化した起爆点とも呼べるような出来事がある。
今回紹介するのは明治維新である。これにより徳川家300年政権が崩壊し、大政奉還によって、政権は朝廷へと移った。簡単に言えば、将軍支配から、天皇支配へと変わった。
明治維新を引き起こした決定的な起爆点はなんだったのかと聞かれれば、それが嘉永6年(1853)の「黒船来航」、いわゆるペリーの襲来である。
要は、鎖国している当時の日本にとっては圧倒的過ぎる黒船という武力を見せつけ、開国しろと脅してきたのである。
徳川政府は不平等な条約を無理やり結ばされるなどしたため、当時の民は反乱を示し始めた。
そのために西郷隆盛や坂本龍馬、はたまた近藤勇や土方歳三率いる新選組などが、明治維新を引き起こす舞台装置となったのである。
今回紹介する人物は、高杉晋作と、その師匠である吉田松陰である。
なお先に断っておく。筆者は歴史を書くというよりも、彼らがどのような思想を持って生きたかを書きたくて筆を進めている。
吉田松陰は武士である。当時の武士は戦国時代の武士と比べると、明らかに「純」ではなかった。いわゆる「武士道」は、徳川300年の泰平が濁らせていた。
だが、吉田松陰の叔父であり教育係であった玉木文之進は、生粋の武士であった。
吉田松陰が勉学中、顔にたかる蝿にたまりかね、思わず顔を掻いた。それを見た玉木文之進は、吉田松陰を気絶するまで殴った。
玉木文之進によれば 、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない 、ということが持説であり 、極端に私情を排した 。
顔がかゆいから書く、というのは私情であり、勉学に励んで公に尽くすという行為に優先されるものではない。少なくとも武士にあっては許される事ではない。そういうことであろう。
そんな玉木文之進が開いた塾が「松下村塾」である。ここをのちの吉田松陰が塾頭となって引き継ぎ、久坂玄瑞や伊藤博文、そして高杉晋作などの歴史的人物を大量に送り出すこととなる。
余談であるが、当時のかれら、即ち武士の初等教育の教課内容は 、四書五経であった。
驚嘆すべきは、これらがすべて畑でおこなわれ 、一度も机の上でおこなわれたことがなかったということである。
教育者も百姓仕事のために時間がなかったのである。
話は文之進へ戻る。
彼は、いっさい下僚を叱ったり攻撃したりしたことがなかったという面もあった。
どの藩でもそうであったが 、民政機関には賄賂や供応がつきもので 、とくに下部の腐敗がはなはだしかった 。
当然文之進の性格からすれば 、それを激しく悪みはしたが 、しかしそれらの患部を剔りとるという手荒なことはせず 、みずから清廉を守り 、かれらが自然とその貪婪のわるいことをさとるようにしむけた 。
松陰の文章を借りれば 「自然と貪の恥づべきを悟る如くに教訓するのみ 」 。
文之進は 、子弟を育てるについては苛烈きわまりない教育者であったが 、民政家として民にのぞむや 、別人のように優しい人物であったことを 、松陰はこの師のみごとさとして生涯の誇りにした 。
そんな文之進の教育を受けた松陰は、10歳にしてすでに「よほどの秀才である」という評判が立っていた。
これがために藩主の御前で講義をすることとなったが、およそ10歳とは思えないほどの名講義であったという。
講じたのは 、家学山鹿流の 「武教全書 」のうちの 「戦法篇 」である 。これの「用士」のくだりは特に藩主が感嘆した。
「用士は士を用ふるにて 、此の篇 、上家老よりして下群臣に至るまで 、其の中にて賢才を目きき挙げ用ふるの法を云ふ 。」
と続く。現代にも通用する論と言えよう。
松陰が独立の師範になった十八歳の嘉永元 (一八四八 )年 、藩の学制改革について、ぼう大な意見書を書いている。一部を紹介すると、
「学校をおこすということは 、単に教育機関をつくるということではない 。これを軸に国家 (藩 )の風儀を一変させるという覚悟をもってやらねばならぬ 。」
「文武は一体であるべきである。万世に至るまでこのことは不変であるべきである。」
「勉学に伴うて試法 (試験 )が必要である」
そして
「大器をつくるにはいそぐべからざること 」
すなわち老子出典の大器晩成である。これは松陰の生涯の持説であった。
ただ松陰は若くして処刑されることになる。その弟子の高杉晋作も短命に終わる。大器晩成の持節は喜劇的な皮肉であった。
さらに嘉永二 (一八四九 )年 、松陰十九のとき、再び藩主に召されて、その御前で武教全書の用士篇を講じた 。人材登用法である 。
「人には得手と不得手がある 。英雄にも愚者にもそれがある 。それを見ぬいて人の得手を用いるがよい 。」
「平凡で実直な人間というのはいくらでもいる 。しかし事に臨んで大事を断ずる人物は容易にもとめがたい 。人のわずかな欠陥をあげつらうようでは大才の士はもとめることができない」
まるで、のちの高杉晋作の登場を運命が予期しているかのようである。
松陰が傑物であるのは、ここまで秀才でありながら、ともすれば時に自尊心を肥大させ、酔わせる学問という酒に溺れなかったことである。むしろ、そういうものを否定した。
松陰がおもうに 、「学問ばかりやっているのは腐れ儒者であり 、もしくは専門馬鹿 、または役たたずの物知りにすぎず 、おのれを天下に役だてようとする者は 、よろしく風のあらい世間に出てなまの現実をみなければならない」
そういう思想を持っていた。
「実行のなかにのみ学問がある 。行動しなければ学問ではない 」
と言い放つまでの宗教性を帯びた信念をもっていた。いわば行動教と言って良い。
行動教に大きく影響したのは、吉田松陰が王陽明の 「伝習録 」という書物を読んだことが第一に挙げられる。
また村田清風という老人が松陰を教育にきて、「鉄砲の操法や部隊の進退法に達しない者は戦術を語るな 。つまり実技のやれない者は理論をいうな 。その逆も真である 。孫呉 (孫子 ・呉子 、戦術 )に通ぜぬ者が 、実技を論ずるな 」というようなことを言ったりした。
彼の思想的性格はそういう環境で形成されていった。
人間の運命をきめるものは 、往々にしてその能力であるよりも思想的性格によるものらしい。
吉田松陰が彼の松下村塾によって行動教を叩き込み、世に送り出した傑物のうち、多くが維新の風雲の中で斃れることになる。
ここで読者諸氏は注意されたい。松陰自身、あくまで秩序の重要性は知っていたということを。
というのも、松陰の専門は兵学であり、兵学の原理は秩序であるからにして、自然、松陰自身も秩序の重要性は骨身にしみて知っていたのである。
だが、松陰は 矛盾した。
秩序美を讃美するくせに 、同時にものや事柄の原理を根こそぎに考えてみるたちでもあった 。
原理において正しければ秩序は無視してもかまわない 、むしろ大勇猛心をもって無視すべきであると考えた。
すなわち原理、目指すべき目的が正しいのならば、それを達成するための手段は「浄化」される。
そういう気質は、高杉晋作に引き継がれることになる。
とはいえこのころの松陰は、ものの原理が大事か人間社会の法秩序が大事かという 、その後のかれ自身の運命を決定してゆく重大課題については 、まだかれ自身において解決ができていない 。
さて、嘉永6年(1853)2月のころの松陰である。
すでに先の村田清風老人が「かならず洋夷が日本を侵しにくる」ということを早くから言い 、「そのとき日本を守るべく切りふせぐ者は長州男子である 。」ということを説きに説き 、説くだけでなく兵制改革や士風刷新の重点をそこにおき 、藩内に危機意識をあおりつづけた 。
長州藩が幕末 、過度なばかりの危機感にかられて暴走につぐ暴走をかさねるにいたるみなもとは 、この清風の藩づくりにあったといっていい 。
松陰はこの老人の危機意識の猛々しさに感動し、感動のあまり 、夷敵の軍艦がやってくることをおもうとき 、すぐ小舟を駆って斬り込みするという反射だけがあたまにうかぶようになった 。
とはいえ、西洋ぶねといっても松陰のあたまにあるのは風帆船だけである 。
まさか西洋には蒸気機関を積んで自走できる船があろうとは思いも至らず 、そういう驚天動地の大事実は 、この年の六月 、浦賀にやってくるペリ ーによって知らされるのである。
この時期の松陰は 「どうしてもこれからは洋学をやらねばならぬ。敵の文明を知り 、敵の武器 、戦法を学び 、そのうえで敵に備え 、敵の来るを撃たねば 、日本は洋夷の侵略するところとなる。」と考えていた。
「この上は 、国禁をやぶって外国へ渡る以外にないのではないか 」とまで思い浮かべるようになった。当時においては非常な暴挙である。
鎖国は幕府の祖法であり 、もし国外へ密航するような者があれば 、容赦なく死罪であった。
だが松陰は 、狂がすきであった 。人間の価値の基準を 、狂であるか狂でないか 、そういうところに置くくせが松陰にはあった 。
総括すれば、彼の洋学にたいする熱狂的興味と、目的のためになら手段が浄化される行動教と、観念的理想実現を達成するために現実と真っ向衝突することによって生じる「狂い」への信奉が、彼を黒船に乗り込ませることになる。
その萌芽として、松陰は、彼と志を共にする同士のために命をかけて無断の東北旅行などに出向き、罰として浪人の身に堕ちたりしている。
黒船到来の第一報は 、幕府から諸藩に正式に通達があったわけではなく 、諸藩それぞれが 、手をつくしてその変報を得た 。
ここで少し、ペリーについて触れておこう。
ペリーは、日本政府に対し通商をせまるにあたって 、返答によっては日本を武力制圧するという態度を暗に示した。
この外交態度は、ペリ ー自身が考えぬいたすえのことであり 、そういう態度を示すことが東洋人に対して効果的であることを 、かれは任を帯びた最初から考えていた 。
未開人に対しては 、子供を相手にするようなやりかた 、つまりこわがらせるのがいちばんいいというのがかれの理論であった。事実、これは成功する。
さてこの時期、松陰は、佐久間象山という学者の塾に入っていた。
前述してきたように、松陰の学問成績は優秀であった。その優秀さゆえに、自分はなんらかの専門家的気質があるという考えに囚われていた。
だが、松陰はこの時期 、気づいていなかったが 、かれの無意識の志向やら性格やらは 、専門技術を習得したり 、それに熱中したりすることにはまったくむいていなかったらしい 。
象山塾は 、語学塾でもあった。せっかく通学しているのに 、ことばをおぼえねばならぬと自分を叱りつけてはいるのだが 、どうも気が乗らない 。
(これをおぼえねば 、西洋兵術に達することができないのか )と 、ときに絶望的な思いになったりした。
語学を覚えることが、自分のなすべき方向へ、直線的に結びついてるのかどうか。
要するに、松陰は専門者でなく総合者であるようだった 。
そのするどい総合感覚からあらゆる知識を組織し 、そこから法則 、原理 、もしくは思想 、あるいは自分の行動基準をひきだすことが、彼の天性であった。
十二日に 、ペリ ーの艦隊が去った 。町には活気と安堵が広がった。しかし松陰は、安堵するのは間違っていると思った。思うだけでなく、あちこちで論じて回った。
しかし結局彼の「行動」も、所詮はただの書生風情が 、書生仲間で激論するだけの行為であり、何も変わらないと感じ始めた。
では、何をすれば良いか。
「藩公へ意見書を奉るつもりです。」
この松陰の言葉には象山も驚いた。浪人が 、堂々たる大藩主に意見書を出すなどは 、この当時 、考えられぬほどの 、僭越沙汰であった 。
だか、象山のみるところ、松陰のこの行動は、原理としてきわめて正しい 。
松陰はいま天下はなにをすべきか 、ということを藩主に文書によって説こうとしている 。
それも抽象論ではなく 、具体的に長州藩主毛利慶親という人物が 、きょうからなにをすべきかということを 、一冊の本になるほどの詳細な意見書に仕上げて上呈しようというのである 。
この意見書のタイトルは「将及私言 」である。結局この願いは 、容れられた 。長州藩ではこの書を 、段階をへつつ藩主毛利慶親の手もとにまで達せしめている 。
さて12月、この時期松陰は始めて弟子のようなものをとる。名を金子重之助という。
とはいえ、松陰は師匠と呼ばれることを好まなかった。彼の書いた「師道論」には、
「人間に師や門人という立場があるはずがない、みだりに師と言い 、弟子と言うことは 、第一古聖賢に対して無礼ではないか」
といったことが書かれている。
さらに時を進める。
幕府代表は 、横浜において 、米使と二度にわたって会見し 、二月二十五日 、箱館開港の許可状をあたえ 、同二十七日 、下田と箱館の開港時期についてうちあわせをするという 、松陰の情念からいえばさんたんたる敗北におわった 。
激発する活動体と化していた松陰は「もはや密航しかあるまい」と考えた。かれにとって敵であるはずの米艦に投じ 、密航に協力してもらい、ひろく世界を偵察するのだ。
もちろん、100に一つも成功しないだろう。だが、成功不成功を論ずべきでないというのは 、この時代に普及した儒教的武士道であった。
そしてきたる3月27日、吉田松陰はいよいよ黒船への乗り込みを決行する。共に、弟子である金子重之助を連れて行った。
幸運にも砂浜には舟があった。もちろん松陰のものではない。それを盗んだ。波の上に落とし込み、すぐに乗って漕ぎ出そうとした。
ところが、櫓がはまらない。驚いたことに、櫓杭がなかった 。だがこの若者は失望を知らない。
「褌で櫓をしばればどうだろう…褌ではだめだ。では木綿帯ならば。」
失望を知らないものは、ただまっすぐ「では、どうすれば良いか」ということのみ、怒涛のように考える。この時の松陰はそれであった。
黒船に横付けしたときには、松陰は顔が蒼ざめるほどに疲労していた。
金子は、船上をあおいでどなった。
「お頼み申す 、当方 、ふたりでござる 。」
船上の夷人は、怪人物達の接近に心底驚いたであろう。
松陰は懐紙を取り出して、意思疎通のための漢文を書いて渡した。
「吾等ハ米利堅(メリケン)ニ往カント欲ス 。君幸ヒ 、コレヲ大将 (ペリ ー )ニ請セヨ」
やがて 、この艦隊の正式の通訳官であるウィリアムズという人物が やってきた。
「手紙でものべたように 、我等は世界を見たい 。アメリカへ連れて行ってもらいたい。 」
松陰は頼んだが、ウィリアムズは拒絶した。この拒絶はペリーの意思でもあった 。
ペリーは松陰の手紙もよんだし 、この甲板上のさわぎについても 、提督室にあってすでに報告をうけている 。
「拒絶されれば私どもは殺されましょう 」と金子は重ねて請願したが、通らなかった。
とはいえこの騒ぎを通して、ペリーは日本人というものに大きな衝撃を受けた。正式記録を借りると、
「この事件は 、日本人というものがいかにつよい知識欲をもっているかということの証拠として非常に興味がある 。かれらは知識をひろくしたいというただそれだけのために 、国法を犯し 、死の危険を辞さなかった 。日本人はたしかに物を知りたがる市民である 。」
結局、松陰、金子らは黒船を降ろされた。彼らは自首した。
二人は江戸へ送られた 。国家の大禁をおかした重大犯人ということで 、途中 、その檻送は厳重をきわめた 。
松陰はすでに生を捨ててしまっている。
この時の心境を書いた記録に、
「感きわまりて悲しみ生じ 、悲しみきわまりて大咲 (笑 )呵々」
とある。
感のきわまるところ悲しみが生じ 、その悲しみの底の底まで沈んで 、にわかに笑ってしまった 、というこの心事は 、禅でいうところの悟達人のそれである 。
牢名主という者がいる。もっとも獄中生活の長い者からえらばれた囚人の首長で 、獄内では囚人を殺すこともできるという絶対権力をにぎっている 。
牢名主は、
「おれの慈悲にすがらねばお前の命はないぞ」
と脅し、お仕置き役が松陰の首を掴んで、そのまま顔を板の間にこすりつけた。そのままキメ板をもって背中を打った。儀式であった。
だが、もはや命を捨てている松陰にとって、そんなものは通用しない。
「私は命を惜しむ者ではない 。すでに死を覚悟して渡海を決意した以上 、どこで死んでも悔いはない。」
その口調があまりに穏やかであったため、牢名主は、興味を持ち、なんの罪で捕まったかを質問し始めた。
「日本はいま滅びようとしている。」
そこからは松陰の独壇場であった。
「このときにあたって」と続く。
「攘夷々々と念仏のように国中の志士がとなえているが 、ことごとく観念論である 。」
「空理空論のあげく行動を激発させることほど国を破ることはない 。」
「世の事に処するや 、人はまず物を見るべきである 。」
実物 、実景を見てから事態の真実を見きわめるべきである…この考えは英雄たる気質を持つ者に共通している。高杉晋作はもちろん、勝海舟や坂本龍馬もその類であった。
「ここでいう物とはなにか、夷狄の国のことである。夷狄の国を見なければならない。」
「そのためにはたれかが海を渡らねばならない。海を渡ることは天下の大禁であり 、犯せば死をもってむくいられる 。しかし死をおそれては国家はすくうべからざる危地におちる…さればあえて渡海をこころみた。」
牢の衆はみな感激してしまった。
やがて松陰は長州萩にある野山獄に身柄を移された。
松陰の松下村塾のおこりは 、かれが安政二 (一八五五 )年十二月十五日 、藩命によって野山獄を出され 、実家の杉家で 「禁錮 」ということになったときからはじまる 。
ここにおいて、ようやく高杉晋作を登場させることが出来る。
高杉晋作は長州萩城下の上士の子である 。明倫館という学校に通っていた。
17になる晋作は、学問や学校というものが 、自分の精神を戦慄昂揚せしめるものではないということに気付き始めていた。
余談であるが、本来 、学校というのは平均的な青年にとって十分な意味をもっている 。
もともと教育という公設機関は 、少年や青年というものの平均像を基準とし 、一定の課程を強制することによってかれらの平均的成長を期待しうるものとして 、そのような想定のもとに設置され 、運営されている 。
自然 、平凡な学生の成長にとっては学校ほど有意義な存在はないかもしれないが 、精神と智能の活動の異常に活潑すぎる青年、すなわち天才にとっては 、この平均化された教授内容や教育的ふんい気というものほど 、有害なものはないかもしれない 。
高杉晋作は、まぎれもなく、天才であった。彼は学校がたまらなくつまらなかった。
そんな中、学友であった久坂玄瑞に、松下村塾の吉田松陰という先生を紹介されることになる。
これにより、吉田松陰という、「理念的思想」を実現しようとしてことごとく敗北した人間が、その信念の昇華を託すに相応しい、高杉晋作という天才的大器と出会うことになる。
つづく。