ホッブズが「リヴァイアサン」に訴えた真意~ Kの思索(付録と補遺)vol.61~
※画像は「リヴァイアサン」を著したトマス・ホッブズ。リヴァイアサンが出版されたのは彼が63歳の時であった。また彼は80歳を超えてからも執筆することをやめなかった。みずからの思想を出来る限り世に残そうと、執念的に執筆しつづけた人物であった。享年91歳。
国家論における最重要古典とされているのがトマス・ホッブズの「リヴァイアサン」である。しかしいまの中学の公民の授業では、ホッブズは取り扱われていないようである。それは何故だろうか?如何に述べていくことにしよう。
トマス・ホッブズは人間の自然状態を「万人の万人に対する闘争状態」と定義した。人間は自己保存のために、頭を使ってあらゆる手段を用いて行動する。そしてその欲望は留まることがない。限られた資源を、どれだけ多く自分のものに出来るか・・・そのような生き物であるから、自然状態のままでは必ず人間同士の軋轢が生じる。そして戦争が起こる。
このような問題を解決し、人間社会に平和をもたらす役目として国家があるとホッブズは言った。国家の役目は、万人の万人に対する闘争状態を解決し、永遠なる平和をもたらすためにあるということだ。そのような国家を実現するためにはどうしたらよいのか?
ホッブズの示した答えは端的に言うとこういうことだ。
「民衆全体が選んだ主権者にその全権を委ねろ。主権者の判断がお前の判断なのだ。主権者が国家の判断の代表なのだ。国家の人格と言っても良い。多数決の原理だ。少数派は、自らが多数派ではないことを自覚しろ。少数派だけどこちらが正論だとか真理だとか間違っていないとかごちゃごちゃ言うな。国家においては多数決のみが真理だ。その多数決で選ばれた主権者は、国家の判断における絶対者である。この規律を遵守することで、平和がもたらされる。そうでなければ、またあの闘争の自然状態に還ることとなる。」
さてこれを読んで読者はどう思っただろうか?過激な思想だと感じる人もいるだろう。「専制主義」を推したものであるようにも見える。支配者が独断的に思うがままに政治を進めるスタイルだ。しかし反対に、単に「民主主義」を推したものにも見える。
ホッブズのリヴァイアサンは、このような微妙な問題をはらんでいる。専制主義推しなのか民主主義推しなのか。どちらを推したものなのか判別しにくいということだ。このような事情のため、中学校では教えることを避けられているらしい。
ただ僕の考えは違う。ホッブズは恐らく、そんなどっちの主義が正しいかなんて問題を議論されるとは思っていなかったはずだ。ホッブズは単に平和のために、国家の理想像を納得させたかったのだ。カテゴライズだったり、0か100かの話ではないのである。僕が考えるホッブズの思いを僕の言葉で綴ろう。
平和のために主権者を定める。少しでも主権者の意志に背くものがいると、それを原因として、万人に対する闘争状態に戻ってしまう。主権者は平和を維持、実行する使命があり、民衆は全員が自らの選んだ主権者に判断を委ねる義務がある。
リヴァイアサンは、人間哲学から積み上げた平和論を起点に国家論を語っている。この国家論を民衆が納得してくれないと、永遠に平和は訪れず、また内戦が起きてしまうし、外部勢力の攻撃にも耐えられない。頼むから民衆は自らの選んだ主権者に権利を委ねてくれ、叛逆しないでくれ、という訴えなのである。
ただ僕はホッブズに対して「お前の言いたいことはわかる。けどそれを完璧に実行するのはどう考えても無理」と思ってしまうのである。
何故なら人間は、自らの確固たる信念・理想のために、自らの平和と命を手放すことができ、国家を相手にしてしまうような「英雄」「革命家」「叛逆者」等々の人物が必ず現れるからだ。
そのような人物は、自分の考える「正しさ」に対して執念的ですらある。間違っていると思う権力者の主義主張に、全員が盲目的に従っている状態に耐えられない。自らの正しさに反する同調圧力に縛られた平和は、本当の平和だとは考えない。偽りの平和を変えるため、闘争状態に還るリスクを取って行動してしまうのである(そして僕も少なからずそのような人間である)。
ゆえにホッブズがリヴァイアサンで本当に訴えたいのは、国家形のカテゴライズの話ではない。むしろ人間個々人の在り方についてである。そしてその不倶戴天の相手は、このような圧倒的な個としての信念を持つ「英雄」「革命家」「叛逆者」なのだ。「お前の個の信念よりも、集団が決めた信念の方が正しいと認めなければ、戦争になるんだよ」と苦渋の表情で訴えている。平和のためには専制政治が正しいとか民主主義が正しいとかいう話は本質ではないのである。
END.