自炊したほうが美味い 等~ Kの思索(付録と補遺)vol.117~
親が作る飯が美味しかった、もしくは、基本的に毎日の食事は親が作っていた、という人は、外食にさほどの魅力を感じずに育つ傾向があるとみている。
だが反対に、多くの時間を冷食や出来合いやインスタントな食品で賄って育った人間は「外食より美味い自炊なんてありえない」という固定観念をもって育ちがちである(私がそうだった)。
だが、よくよく考えるとそんなことはない。
自炊でも、とくに基本的な家庭料理であれば、すでに歴史的な型が研究され尽くされてしまって、大きな差が生じる余地がほとんどない。
むしろ店を運営するコストを考えれば、選ぶ食材や調理法に制限をかけなければならないだけ、実は店側の方が不利であることが多い。
だが彼ら料理人はプロなので、そこを技術でカバーしているのである。
高級料理店などは、そこを度外視して「料理」(調理ではない)をするので、自炊では追いつきようがないこともある。
だが、特に安い外食チェーンなどと比べた場合は、自分で作った方が美味いということは、当然のこととして起きうる。
安い居酒屋も、酒を飲ませるために、味ではなく塩分量やうま味調味料を重視したりすることがある。
料理研究家、土井善晴先生の「一汁一菜で良いという提案」という本に係るインタビューで、面白いことが述べられていた。
・客に見せる料理と、自分で食うための調理は違う
・例えば外食では、「うど」を酢につけたあと提供するが、その理由はただ「白くするため」であり、見た目を気にしなければそのままの方が美味しい
・お浸しというのは、本来はただ茹でるという調理法を指す。だがいつのまにか、ダシに浸されたものがお浸しという料理として認識された。
・あれはダシが美味いのである。それ自体は否定しないが、本来の、ただ茹でられただけの野菜が極めて美味しいという自炊感覚が無くなってきた。
・大根や生姜をすりおろす時も、外食ではだいたい見た目の綺麗さのために皮を剥いているが、本来はそのまますりおろす方が美味い。
「素材に委ねる」という料理感覚は、このように不要なものが削がれた禅的なものとして、本来の姿を見つめ直すプロセスに現れるのかもしれない。
「もったいないから、取っておく」ということそのものが「目的」になっている人は、
何がもったいないのか
とか、
何と比べてもったいないのか
とかには、一切関心がないことに注意しなければならない。
それは彼らにとって目的ではない。
繰り返すが、「ただ取っておくこと」そのことこそが目的になっている。
これはつまり、下記のようなことが起こることを意味する。すなわち、
賞味期限が例えば1年半切れてる物でも、それがたとえ食べることへの大きなリスクを孕んでいるとしても、勝手に捨てようとすると、怒りがわいてくる。
整頓してくれてありがとう、とはならないのである。
こういう思想は、私には全く理解できないことだ。
そしてまた、合理的かそうでないかは関係なしに、半ばその人の中での信仰になっているので、議論には決してならない。
お互いの信仰がぶつかり合うだけである。
よって、こういう人が「一定数必ずいる」ということだけを理解し、いかに「往なす」か、それのみに焦点を絞って対処したほうがよい。
言葉というのは本質的に空虚なのだから、せめて人を救うために使われるべきだ。
社会システムにはなぜか、常に社会へのアンチテーゼをいずれは取り込んでしまうという機能がある。
例えばストリートミュージシャンは、アンチテーゼの側面があったが、今では資本主義に取り込まれている。
ファッションデザイナーの山本耀司も似たようなことを述べている。
「ヨウジヤマモトのアンチモードは、それがトレンドになってしまえば、もはやただのモードになってしまう。
しかしやりすぎてしまうと、今度はただの異常になってしまう。
そのギリギリの境界、すなわちアバンギャルドを常に探している。」
社会システムを活用しつつも、常にアンチテーゼの側に立つことを意識しなければ、確固たる自己を希薄にしてしまうだろう。
私はここにいる。社会の中の、誰でも良い誰かではない。