盛大に吹きこぼれる缶ビール~ Kの思索(付録と補遺)vol.121~
ミッション達成までにやることが50個くらいあるタスクが降ってきて笑っている。
現工程案でいけば、完了までに複数年かかるタスクである。
もうその時間の長さだけで、達成可能性が落ちている。
タスクの達成可能性は、その難易度と、かかる期間による。
つまりもし難易度が低かったとしても、かかる期間が長ければ、そのタスクは達成されない可能性が高まるということだ。
例えば商品開発とかで、「完成までに4年かけました!」というプロジェクトがあったとする。
そういうのは、完了して発売できただけでも、運が良かったのである。
ふつう開発期間が長ければ長いほど、その間に時代のニーズが変わって、当初の開発の存在意義が失われ、プロジェクトごと消滅するのだ。
しかも開発期間が長いほどお金を投入しているので、結果として完成した商品の値段は高くなりがちである。
それを上回るだけの価値が、時代のニーズとしてあるか?という難しい経営判断を求められるようになるのだ。
だから時代のニーズを未来予測して先取りしようとする開発は、実はあまり上手くいかない。
未来予測ほど当てにならないものはないし、目標を先におくことで、ダラダラと開発期間が設定できる悪しき原因となる。
開発目標は、常に「いま」のニーズにおき、そしてそれを高速で達成しないといけない。
今話題の、ビール缶の泡が勝手に形成される商品も、開発に4年かけたらしい。
YouTuberなどが試して、盛大に吹きこぼしている。冷やしてから開けろという注意書きを守ってないからだ。
あれも本当の理想は、常温でも泡が適度に盛り上がり、吹きこぼれないようにしたかったに違いない。
だがそうするためには更なる開発期間が必要で、値段が上がってしまうので、妥協点として発売に踏み切ったというところであろう。
男は力を発揮するための生き物だが、その力を最大限に引き出すためには、女の助けがいる生き物でもある。
子供の時はそれが母であり、大人になると彼女や妻がその役割を担う。
母性というのは男の力の源泉である。
これは神話から続くほどの普遍的な原理原則といえる。
映画であればバーフバリを見よ。
e-スポーツにランダム性は必要か?~ Kの思索(付録と補遺)vol.120~
eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?という問題について考える。
スマブラで例えるなら、会場は終点じゃなきゃダメだし、アイテムドロップもOFF。
マリカーで例えるならアイテム無し、ステージギミック無しってことだ。
(もちろんこれは極端な例であって、正確にニュアンスを伝えられてないかもしれない。)
それで観客が楽しいか?と聞かれれば、今の時点では良く分からない。それをこれから考えていく。
ランダム性が減れば、混乱が抑えられて予想外が起きにくくなるだろう。問題は、e-スポーツにおいてそのような予想外の混乱が必要かどうか、観客を楽しませる要素に繋がるかどうか、ということである。
この問題を整理するために、分析するべきものは何か?そしてその関係性は何か?ということを捉えなければならない。
いま分析するべきものは、「ゲーム」、そしてゲームに含まれる「スポーツ性」と「ランダム性」との相関関係である。
野球やサッカーというゲーム、すなわち一般的な競技スポーツには、ほとんどランダムな要素がない。
(地面にデコボコがあってイレギュラーバウンドがあったりするくらいか?)
それでも観客はあれだけ熱狂するわけだから、ランダム性の有無は、「スポーツ」的熱狂と相関関係がないことがわかる。
これと反対に、ランダム性が極端に高いゲームは、ギャンブルと呼ばれる。
ギャンブルは、多くの場合個人プレーであり、熱狂しているのは、金額を投じているプレイヤーその人だ。ギャンブルのランダム性の熱狂は、ひとまずプレイヤーに跳ね返る面白さと言える。
では、ギャンブルに熱狂する観客は、つきようがないのか?
いや、それは時に存在するだろう。例えば我々は「カイジ」を読んで熱狂することができる。
誰かが大博打をするというような時に、ギャンブルでも熱狂的な観客は存在しうる。
そのとき観客の熱狂は、プレイヤーの天運力に向いている。
すなわちギャンブルにおいては、天運だけがプレイヤーの「実力」である。
なるほど、ギャンブルにはスポーツ的要素がないのだ。スポーツと呼ばれるためには、何らかの身体活動を伴わなければならない。
すなわちスポーツと呼ばれるものにおいては、プレイヤーの身体性こそ、観客が見たいものなのである。
一方でギャンブルは、金さえかけられれば、あとは天運のみである。我々はカイジに熱狂するが、べつにカイジでなくても、別の誰かが同じ状況ならば、同じように熱狂することができるだろう。
これでひとまずは結論である。
まず第一。熱狂(面白さ)ということに対しては、ゲームとランダム性の間には相関関係がないこと。
言い換えると、ゲームという広い幅で捉えるならランダム性があっても面白いし、無くても面白い。どちらのことも起こりうるということ。
第二。ランダム性の高いゲームはギャンブルと呼ばれ、ギャンブル性の高いものでスポーツと呼ばれるものは見当たらないこと。
すなわちランダム性が高くなるほど、スポーツ性とは相性が悪くなるということ。
第三。上記の理由が、「何によって実力を測るか」という判断基準の違いに基づくこと。
すなわち、スポーツであればその「身体活動性」に実力が基づき、ギャンブルであればその「天運」に実力が基づくこと。
最初の話に戻ろう。
そもそもの問題は、「eスポーツの競技シーンにおいて、ゲーム要素であるランダム性は全て排除されるべきか?」ということであった。
もしこの可否の判断基準を、観客が面白いと感じる方が正義というところに置くのであれば、我々が導いた帰結から判断できる。
すなわち「観客が面白いと感じるためには、e-スポーツの中で、何をプレイヤーの実力として見たいのか?」という問題を考えれば良い。
果たしてe-スポーツで、そのプレイヤーの天運を見たいという人がいるだろうか?
いないであろう。もし天運をみたいのであれば、身体性が関係なく、プレイヤーは誰でも良いことになる。
例えばエーペックスであれば、我々はaceuのキャラコンを見たいのであり、shivの押し引きの判断力を見たいのであり、TSMの連携力の高さを見たいのである。
彼らの身体性の高さを見たいのであり、決して彼らの天運を見たいわけではない。
よって、【観客が楽しいと感じることが正義であると前提した場合、eスポーツの競技シーンにおいては、ゲーム要素であるランダム性を全て排除するべきである】と結論される。
ゆたぼんの炎上を見てると、まず真っ先に思うのは、「自由意志は存在するか」ということである。
それはまぁいい。多くの人の関心はそっちじゃないだろう。
結論から言うと、態度が問題ということに尽きる。
つまり、「なんかムカつく」という感情から発して、そこに理屈をつけて自身を正当化しようとした人達を呼んでしまった。
ではなぜムカついたかというと、ゆたぼんに謙虚さが欠如しているからだ。
異端をやる人間は、その時に「一般」を下げる言い方をしてはいけない。
例えば受験競争において推薦合格した人間が、「一般入試なんてマジだるいっしょ笑」なんて言おうものなら、どういうことになるか容易に想像がつくだろう。
「推薦で合格するなんて入学してからが大変」とか、「本当の実力じゃない」とか言われて、大いに叩かれるだろう。
だがまぁ、YouTubeというコンテンツをやる以上、大衆の目を気にして謙虚にしてたら伸びないだろうから、「YouTuber道」をいく人生は大変だと思うのである。
ゆたぼんの話力、自分の考えを明瞭に伝える力は、中学生のそれではない。
将来は誰かを救うためその力を使う大人になって欲しいと祈っている。
「ほんもの」の思想なら、「ひとこと」になる~ Kの思索(付録と補遺)vol.119~
本物の思想を持った書き物というのは、いつも一本の強烈な主題で貫かれているものだ。そしてその主題は一言で表すことができ、読者を強烈に啓かせるものを持っている。
その他の言葉は全て、その主題への補完に集中する。
すなわち、その主題へ確信を与えたいがために、ただその目的だけのために書き重ねられ、本が厚くなっていく。
プラトンであれば、「この世界で唯一根源的な真なるものはイデアである」という主題。
カントであれば「人間の直観形式では、物自体に至ることは出来ない」という主題。
ショーペンハウアーであれば「物自体は意志である」という主題。
ニーチェであれば「意志を肯定し続け、超人に至る」という主題。
ソシュールであれば、「言語は、世界において価値あるものを区別するために発明される」という主題。
ウィトゲンシュタインであれば、「言語は、その使用活動の中でのみ真に意味づけられる」という主題。
アドラーであれば「人間の心理は全て、本人自身がそうなりたいという目的のもとに、起きている」という主題。
仏教であれば「色即是空」という主題…などなどだ。
料理研究家、土井善晴先生の著作「一汁一菜でよいという提案」が、とても素晴らしかった。
まず、タイトルの「提案」が良い味をだしている。
謙虚さと少しのユーモアが同居しており、思わず手に取ろう、読んでみようかという気持ちになる。
また、「提案」とすることで、ガチガチに守る必要もなく、時には一汁一菜でなくても良いという自由のあることが暗にわかり、軽い気持ちになる。
もしこれが「一汁一菜でよい」というタイトルだったらどうだろうか。
多くの人の脳内に「いや、良くは無い」という拒否反応が真っ先に出るだろう。
さて前回の記事である、「全てを味噌汁にぶち込め」は、実のところこの本の影響を受けて書いたものだった。
老荘的な「自然に身を任せ、自分に身を任せる」思想に、ミニマリズムが同居している。
私もその思想があるので、刺さりに刺さる本であった。
一応、料理メニュー的な内容もあるが、ごく軽い紹介程度に留まっている。
これは料理本ではない。料理に対する…いや、食というものに対する思想書である。それを示すように、殆どが文字である。
なんでもそうだが、その道一流の人の思想は面白い。
そもそもの日本人の食とはなんだったのか、その原点と本質に立ち返らせ、あらためて生活というものに真摯に向き合わせてくれることにより、生きることへの救いを与えてくれる内容であった。
全てを味噌汁にぶちこめ~ Kの思索(付録と補遺)vol.118~
日本人は遥かな昔から、味噌汁と米と漬物を基本の食事の型として生きてきた。
全て自然から与えられたものだ。自然の業から生まれたものだ。だから飽きが来ない。
いっそ昔に戻り、全部を味噌汁にしようと割り切れば、冷蔵庫の中身が全て味噌汁の具に見えてくる。味噌汁に合わない食材なんて、ほとんどないからだ。
味噌汁の具の量は適当だ。
だから冷蔵庫の中にあるものが適当に消費できる。
これを作るために、アレコレをいくら買ってこないと…などと考える必要がない。
適当に買ってきて味噌汁にぶち込めば良い。
ダシ上手くとる必要すらない。具がたくさんあれば、それから十分なダシが出る。
あとは味噌を溶くだけで良い。塩や醤油と違って、味噌の味の調整し易さに驚くだろう。
これを意識することで、自炊革命が起きる。
ふだんは哲学書や学術書、大長編の歴史小説などばかりを読んでる生活なので、たまにそれ以外の本を読むと、読み終わる速度の速さに驚く。
書店にならんでいる自己啓発本などは、もうどれを見ても1分から5分とかで読み終わってしまうから、最近は手にも取らない。
自然に起こる速読がある。それは、理解している部分を読み飛ばすことで起きる。
目次から大意がわかれば、それでもう読まないか、流し読みで何を言いたいか大体分かってしまうので、結果的に速読のようになっている。
たまに、気分でじっくり中身を見てみたりするが、やはり「こういうこと言うだろうな」ということを、そのまま言っている。
結局、自己啓発など、だいたいみんな同じことを言っている。言い方をアレコレと変えているだけなのだ。
故に、このようにして何百冊を読んだところで、なんの意味もない。実際に新しく得られている知識は殆どないからだ。
古典が凄いと思うのは、どれを読んでも上記のようにはならず、常に新鮮な発見が飛び込んでくることだ。
読むのに時間がかかるということは、それだけ自分にとって新しい情報量があることの証である。
時間をかけて読むだけの価値があるのだ。
哲学者のショーペンハウアーは、「良い本は、何度読んでも、読みすぎたということがない。最新の駄本を何百冊と読むよりも、古典的な良本一冊を繰り返し読め」と言っている。
ふとしたときに、自然とアレコレ考えてしまう。
それをただただ、何も考えずに綴っている。
考えていることを、考えずに綴っている。
意味ありげな内容も、ただ自然と書かれているだけ。
私が文字として画面に落ちているだけ。
本当は無意味かもしれない付録と補遺。
自炊したほうが美味い 等~ Kの思索(付録と補遺)vol.117~
親が作る飯が美味しかった、もしくは、基本的に毎日の食事は親が作っていた、という人は、外食にさほどの魅力を感じずに育つ傾向があるとみている。
だが反対に、多くの時間を冷食や出来合いやインスタントな食品で賄って育った人間は「外食より美味い自炊なんてありえない」という固定観念をもって育ちがちである(私がそうだった)。
だが、よくよく考えるとそんなことはない。
自炊でも、とくに基本的な家庭料理であれば、すでに歴史的な型が研究され尽くされてしまって、大きな差が生じる余地がほとんどない。
むしろ店を運営するコストを考えれば、選ぶ食材や調理法に制限をかけなければならないだけ、実は店側の方が不利であることが多い。
だが彼ら料理人はプロなので、そこを技術でカバーしているのである。
高級料理店などは、そこを度外視して「料理」(調理ではない)をするので、自炊では追いつきようがないこともある。
だが、特に安い外食チェーンなどと比べた場合は、自分で作った方が美味いということは、当然のこととして起きうる。
安い居酒屋も、酒を飲ませるために、味ではなく塩分量やうま味調味料を重視したりすることがある。
料理研究家、土井善晴先生の「一汁一菜で良いという提案」という本に係るインタビューで、面白いことが述べられていた。
・客に見せる料理と、自分で食うための調理は違う
・例えば外食では、「うど」を酢につけたあと提供するが、その理由はただ「白くするため」であり、見た目を気にしなければそのままの方が美味しい
・お浸しというのは、本来はただ茹でるという調理法を指す。だがいつのまにか、ダシに浸されたものがお浸しという料理として認識された。
・あれはダシが美味いのである。それ自体は否定しないが、本来の、ただ茹でられただけの野菜が極めて美味しいという自炊感覚が無くなってきた。
・大根や生姜をすりおろす時も、外食ではだいたい見た目の綺麗さのために皮を剥いているが、本来はそのまますりおろす方が美味い。
「素材に委ねる」という料理感覚は、このように不要なものが削がれた禅的なものとして、本来の姿を見つめ直すプロセスに現れるのかもしれない。
「もったいないから、取っておく」ということそのものが「目的」になっている人は、
何がもったいないのか
とか、
何と比べてもったいないのか
とかには、一切関心がないことに注意しなければならない。
それは彼らにとって目的ではない。
繰り返すが、「ただ取っておくこと」そのことこそが目的になっている。
これはつまり、下記のようなことが起こることを意味する。すなわち、
賞味期限が例えば1年半切れてる物でも、それがたとえ食べることへの大きなリスクを孕んでいるとしても、勝手に捨てようとすると、怒りがわいてくる。
整頓してくれてありがとう、とはならないのである。
こういう思想は、私には全く理解できないことだ。
そしてまた、合理的かそうでないかは関係なしに、半ばその人の中での信仰になっているので、議論には決してならない。
お互いの信仰がぶつかり合うだけである。
よって、こういう人が「一定数必ずいる」ということだけを理解し、いかに「往なす」か、それのみに焦点を絞って対処したほうがよい。
言葉というのは本質的に空虚なのだから、せめて人を救うために使われるべきだ。
社会システムにはなぜか、常に社会へのアンチテーゼをいずれは取り込んでしまうという機能がある。
例えばストリートミュージシャンは、アンチテーゼの側面があったが、今では資本主義に取り込まれている。
ファッションデザイナーの山本耀司も似たようなことを述べている。
「ヨウジヤマモトのアンチモードは、それがトレンドになってしまえば、もはやただのモードになってしまう。
しかしやりすぎてしまうと、今度はただの異常になってしまう。
そのギリギリの境界、すなわちアバンギャルドを常に探している。」
社会システムを活用しつつも、常にアンチテーゼの側に立つことを意識しなければ、確固たる自己を希薄にしてしまうだろう。
私はここにいる。社会の中の、誰でも良い誰かではない。
サービスは早く使ったほうが得だよ 等~ Kの思索(付録と補遺)vol.116~
自分が好意を抱く人の容姿にパターンがあるんじゃないかとパーツパーツを分析してみたら、実際にパターンがあって、遺伝子レベルで組み込まれた何かがあるんだろうなぁと思う。
顔は小さい丸顔。
目は猫目。
鼻は小さい。
唇は小さくて薄い。
身長は小さめ(150〜158)。
体型は多少の幼なさがあり、
脂肪と筋肉が適度にある。
肩は、小さいが、幅は広め。
その他各パーツが小さい。
髪型は黒のストレートが一番好ましいが、そこまで強いこだわりではない。
平均的にみんなこんなもんか。
さらにこの中で、特に共通して外せない特徴は、顔の形(丸くて小さい)であった。
首から下の身体的特徴や、顔のパーツがどうこうよりも、「顔の骨格が最優先である」というのは、このように分析しないと自分でも有意に分からなかった事実で面白い。
さらに分析してみる。
好きな人と自分の特徴は似るというので、比べてみる。
顔:×
目:×
鼻:△
唇:×
身長:△
体型:×
脂肪と筋肉:○
肩:△
その他各パーツ:△
髪型:?
似ているとすれば、○が多くなると思ったが、そうでもない。
よって私個人に対して今のところ述べられるのは、
・自分が好意を持つ人の特徴には、傾向が確実に存在している。
・ただしそれは、自分の容姿とは関係ない(似てるとも似てないとも言えない)
ということである。
私はこの結果から真に驚くべき発見をしたが、ここに記すには、カレーを作らなければならなすぎる。
実家に牛肉があったのでカレー作ろうと思って、足りない食材を買ってきて、牛肉の消費期限みたら1ヶ月も切れていた。
ビニール剥がしてよく見るとカビだらけ。
私の家族は「もったいない」という精神から、物をなかなか捨てない。
だが、それは本当に「もったいない」のか?
というわけで必要のない物をさっさと捨てない不利益を書いていく。
「なんか最近胃がゆるいなぁ」となってた原因は、ステーキに使ってたタレの賞味期限が1年半切れてたことだった。
内臓が弱ければ食中毒になって医療費がかかっていただろう。
ブチギレつつ家の中の賞味期限切れてるやつ捨てまくったら9割の食材が無くなった上に、タバスコが3箱の重複、わさびチューブとしょうがチューブが2箱の重複。
しかもサーモスのタンブラーを発見。
「もったいない」で不要な物を抱えていることこそが、もったいない。
そういうことがよくわかる例だ。
アマゾンプライムでお得になった金額は、年額約14000円だと表示された。
こういうのは、上手い。
どういうことか。
例えば一個人で言えば、私はプライムに14000円/年を払ってもお得ということ。
そしてこれを利用者全体平均で取れば、将来的にはいくらまで値段をあげても良いかという指標となる。
そのことを予め消費者全体へ周知し、理解を促している。
ちなみにアメリカのアマプラ年会費は、約12000円である。
逆に、Amazonはそれまで投資を被っているのであり、すなわち消費者へ値段以上のサービスを、将来のために、与えているというわけである。
だから、今のうちにアマゾンプライムを利用している消費者は、いわゆる「先行利益」を受けていることになる。
新しいサービスというのは、この先行利益を受け易い。
このサービスの先行利益は、例えばLINE Payなどの電子マネーにもあったし、格安SIMもその例である。保険だってそうだ。
しかしLINE Payも格安SIMも、今となってはその先行利益がない。保険も、どんどんサービスは低下していく。
ただ、新しいサービスというものは、例えば情報セキュリティ上の整備が不十分だったりする。
何事もそうだが、利益には常に一定のリスクが潜むということも把握しておかなければならない。
日々、雑記したこと~ Kの思索(付録と補遺)vol.115~
焼肉は、油がないものほど、さっと焼いて食べたほうが良い。
厚くて脂の多い肉は、余熱を考慮して中に火を通す。また表面が少し焦げるくらいが、脂の重さに肉の香ばしさが負けない焼き加減になる。
最初から高級な肉を食べると、満足感が出過ぎてしまうから、最後の方で食べた方が良い。
組織のトップオブトップを目指す人、全員に課すべき最高の教育は、「論じず、人を動かしてみよ」という縛りを設けることだと思っている。
そもそも論破は、人の矜持をいたずらにを傷つけ、彼には絶対に従わないと決意させてしまうシロモノである。
また何かを論じ続けるうちは、大衆を行動にうつさせるような、爆発的な感情の動きを呼び起こすことはできない。
コミュニケーションが取れるか取れないかは、その人への興味があるか否かの影響が大きい。
人に興味があれば、それだけ色々と話すことも出てくるだろうが、自分にしか興味がなければ、人から何かを聞こうとは思わない。
止まらない自分語りの原因は、つまりこうである。
彼は他人に興味がなく、聞きたいこともなく、とはいえ他人を側にしながらずっと無言でいるのも居た堪れないので、自分のことを語るしか、場を保つ方法がないのだ。
車の走行距離が、2年で、一日2.7キロ平均であった。
これなら必要がない。自転車でいい。維持費ばかりがかかってしまう。
本当に必要がある時は、タクシーでもカーシェアでも頼めばいい。そちらの方が安上がりである。
こうして物が減っていく。
必要十分の最適化を進めるほど、他人から見るとミニマリストにしか見えなくなる。
歌は、人生をただの舞台とし、自らをただ数ある物語の一部にしてくれる。
歌は、人生の断片に慰めのある虚飾を彩り、現実から一歩引いた視座で自らを俯瞰させることができる。
もし株の保有銘柄を整理しなければならない時は、淡々と、一番うまくいってないものから切るのが良い。
間違っても成果が出ているものから売ってはいけない。
それがたとえ「予想以上の成果が出た」と感じるものでもだ。
更なる予想以上の成果が生まれないと、どうして分かるのか。
睡眠はそもそもフレキシブルなものであるという本能に立ち返って考えた方がよい。
すなわち、動物の睡眠時間は、「暇さ」に比例する。
能動的な作業では、眠気はほとんど襲ってこない。だから、能動的活動時間の長さで、睡眠時間が決まる。
その生理的理由は、逆にもしやることがないのに活動したら、ケガするリスクが高まるだけだからである。
安全確保とムダの低減のため、睡眠する。
逆に活動する必要があるのに睡眠してたら、野生の世界では死んでしまうので、よほどでない限り、眠気は去るように出来ている。
社会学者の宮台教授による講義。
「Aすると、Bという得がある、だからAする」=条件プログラム的行為。
この多くは、人間らしさを失って、入れ替え可能な自動機械=「クズ」となる。
対して「Aしたいから、Aする」=目的プログラム的行為。
これが損得勘定のない行為者=マトモと呼ばれる。
鬼滅の刃ではこのマトモが煉獄さんと紹介している。
では、「悪いことしたいから悪いことする」も、マトモになってしまうのか?もちろんそうではない。
損得勘定を考慮しないとは、基本的に自己犠牲の形を取る。
特に自らの命を他者のために放り投げる自己犠牲が生命体としての極地である。
上弦の鬼である猗窩座と、煉獄さんとのセリフのやりとりが象徴的である。
「鬼にならなければ死ぬ、それでいいのか?」
「価値基準が違う、鬼になるより死ぬほうが良い」
古代ギリシアで広がったこの目的プログラム的行為=倫理による絶対的命令は、その背景に暗黒の時代があったからである。
そこで彼らが学んだのは、「善人ほど早く死ぬ」し、「善行が報われるとは限らない」ということであった。
一方エジプトでは、ヤハウェ信仰が起こっていた。
その信仰では「世界がこのようにデタラメなのは、人間が神の言葉に従わないからだ」とし、聖典を学んだ。
これをギリシャ人は「アホか」と軽蔑した。
ギリシャ人に生まれた信仰は「善人ほど早く死ぬ、だからどうした?」という倫理だった。