Kの思索(付録と補遺)

日々の思索です。Twitterはこちら。https://mobile.twitter.com/k0sisaku インスタ→https://www.instagram.com/yushak_satuei

伝えたいことを発信する際の注意、人に何かを薦めることにおける利己心の抑制、真の意義ある長文とは何か〜Kの思索(付録と補遺)vol.19〜

 ツイッターなどを見ていると、句読点を廃して自分の言いたいことを詰め込みたいという人がいるようですが、今回はこの件について簡単に自分の意見を述べたいと思います。

 

 これにより、タイトルにあるように「伝えたいことを発信する際の注意、人に何かを薦めることにおける利己心の抑制、真の意義ある長文とは何か」が伝われば幸いです。

f:id:yushak:20180107130553j:plain

 

 

 

 まず、自分の意見を詰め込むために、読み手の事を与せずに発信する、というのは、ひたすら壁とキャッチボールするようなもので、自分に自分の言葉が虚しく反響するだけかと思います。

 

 そもそも他人というのは、そこに利己心の押し付けを察知すれば嫌がってしまうものではないでしょうか。それがたとえ理解さえすれば本質的価値がある事柄であったとしても、同じことです。相手は「ふーん価値はあるんだろうねー」と概念では納得しても、直感的な感情の中で嫌がります。相手のことを与せず発信するというのはまさにこの利己心の押し付けに他ならないからです。

 

 例えば、それがどんなに素晴らしい本、音楽、映画であっても、それをぐいぐい他人から薦められるほどに、何だか嫌な気持ち、億劫な気持ちになってくるのは、彼の利己心を感じてしまうことによる、正にそのせいだからなのです。

 

 故に(これは営業一般の真理でもありますが)他人に何かを薦めたい時、重要なのは2点です。1つは「他人が理解できるように努める事」、そして次いで「そこに薦める側の利己心がみて取られないこと」です。自分にではなく、いかに「貴方にとって」素晴らしいかを客観的に明瞭に伝えなければならないでしょう。

 

 以上のことから、わかる人にだけ分かればいい、といって発信するのは、発信における究極の愚かと思います。そもそも他人が他人をそう簡単に理解できはしません。他人に何かを伝え、他人の理解を促進する為には「この人の言う事を理解してみたい」という積極的な気持ちをわきあがらせる事が必要です。伝えることに対して利己心が強く、伝わる人にだけ伝わればいいと思うような人は、上記の事実を全く分かっていないのではないでしょうか。

 

 だから他人に本当に伝えたいことのある人の文章は「ある程度は」長文にならざるを得ないのです。それは自分の主張をより明確に、適切に伝える上で必要なことだからです。

 

 しかしそれが無駄な長文か、意味のある長文かは読んでいて容易に判断がつくことであり、皆さんにも同様の経験があるかと思います。すなわち他人に伝わるよう書かれた意味のある長文は、それでありながら不要な言葉が廃されていること、ゆえに明瞭完結であり、メッセージの密度がありありと伝わってくるものです。

 

 もともと何かを伝える気のない呟きであれば上記してきたことを考慮する必要は全くありません。よく見られるのがただただ日常における悲鳴「辛さしかない」「死」「この世は無」「甘えたい」「にゃ~ん」等々、同様に自慰行為報告や下ネタ呟きもこれにあたりますが、これは結局、素直に「助けて」と言えなくなってしまった大人の「自分は実はこれだけ辛いんだ」という悲鳴に他なりませんので、それを垂れ流すのは一向に構わないことです。私も良くしますただしこれもある種の利己心の押し付けであることはいい加減自覚しなければ・・・。誰か助けて~

 

 それはともかくとして、今回のように「本当に何か伝えたいことがある人」が、その手段と目的の錯綜によって、せっかくの文章を無駄にしないためにも、今回の記事を書きました。出来る限り意図を簡潔に、明瞭に文章にしたつもりですが、同時に明瞭に簡潔にするほどメッセージが過激になりがちなのは私も気を付けたいところです・・・。

 

ではまた。