Kの思索(付録と補遺)

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成功者を参考にするな!大衆が陥る無自覚な洗脳 〜Kの思索(付録と補遺)vol.25〜

 「成功者だから言えるんだよ」と言って、成功者が述べ立てる成功論、幸福論、努力論、才能論等々に腹をたてたり反論したり、最悪の場合無気力になって自分に出来る努力すら吐き捨てて、自分を捨てばちな気分で眺める人もいる。全くもってその気持ちがよくわかる話だ。気持ちはよくわかるけどもしかし、僕はそういう話を聞くたびに「そもそもそんな『成功者』とか呼ばれる人の話や、ビジネス本や、自己啓発本を読んでどうこう思うのは、時間と金の浪費でしかない」と思っている。

 

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 というのも、成功者に限らず「全ての他人」が「あなた」とは性格も環境も頭の働き方も何もかも違う個人だからだ。つまり実験屋ならわかると思うが、パラメータは一つ変わるだけでも、結果や、結果が出るまでの過程に多大な影響を及ぼす。それなのに、人生という莫大なパラメータをもつ実験において、どうして自分以外の他人を参考に出来ようか。例えるなら、高いところから落とされる葉っぱはランダムな要素から影響を受けて毎回違う場所に落ちるのと同じように、人が変われば人生への取り組み方もまるきり変わってくるのだ。

 

 ※成果や結果に関係なく、ただ人生の「心の支え」とするなら、むしろ参考にするのは成功者の話ではない。参考にするべきは過去の偉大な、今では賢人と称される、かつての「社会不適合者」が残した思想を読むのがいい。これなら少なくとも慰めにはなる。いずれの時代にも彼らは一般大衆の常識という狂気に弾圧されているという一点で共通し、苦悩し、その結果、時代や他人に揺るがされない非常に普遍的な生き方に対する姿勢を本に遺している。

 

 何か今の日本人は西洋的なパーフェクトな個人(すなわち神)に憧れているが、その「個人力」への絶対的崇拝はたぶん日本文化とそぐわない。いわゆる「成功者」はこの個人力をもつので憧れとしては分かりやすい存在である。よって大衆から目指されたり、嫉妬されたりする。しかし日本文化は空気を読んだり、同調性が重要で、そんな中でもし西洋的な「絶対的個人」を目指そうものなら、圧倒的多数から袋叩きにあって排斥されるだろう。その精神力があるか?そもそもそんな状態の「成功者」は幸せか。断崖絶壁で見る景色は、美しさよりも本能的恐怖がまさるかもしれないのだ。

 

 そもそも日本文化は東洋的な思想、すなわち西洋的な絶対的個人(唯一神)というものではなく、むしろ八百万の神だったり、梵我一如だったりにみられるような、「個」ではなく「1にして全、全にして1」という思想で文化が形成されてきた国だ。数千年もって形成された文化はそう簡単に変わりはしない。

 

 つまりあらゆる一般的日本人が目指すべき、もしくは軸とするべき思想形態が東洋的なものであることは、歴史的・文化的に当然なのだ。例えば老荘思想にあるような「自然との合致」を目指す生き方のほうが、絶対的個人を目指す西洋的な思想よりも向いている。

 

 すなわち絶対的個人への憧れに縛られ、かつ西洋的文化の洗脳に惑わされた結果そういう存在を目指して自分に合わない無理をして心を病むくらいなら、自分にとっての自然な状態を探るほうがよい。つまり自分を見つめ、自分とは何かを考え、自分にできることや向いていることを発見するのがまずもって重要である。同時に出来ないことを明確にした上で、自分のできることを全力でやって活躍し、出来ないことは他人に任せるということだ。これに対し例えば「計算が苦手なのに、社会的に地位が高いからなんとなく会計士に憧れて、漫然と会計士を目指そうとする」なんてのは地獄の道である。

 

 日本人にとって東洋的な「自然な状態」を目指すことはかくも重要である。「自然」という漢字は、自らがそのまま、そのようである状態を指している。自分にとっての自然とは何かを探そう。「成功者が云々カンヌン〜」というのはこの思想から言っても全く時間と金の浪費である。つまるところ他人を目指してはいけないのだ。自分の人生は、ひたすら自分にしか通用しないパラメータをもつのだから、自分で考えて生きるべきだろう。

 

 そして自分で見つけた自分だけの生き方は、もしかしたら世間一般で言われる「常識」のある生き方では全くないかもしれない。というかきちんと自分で必死に考えて答えをだせばそうなるはずなのだ。というのも往々にして常識は大衆からの洗脳であるからだ。今回の記事は正にそういうテーマだった。大衆に洗脳されないためには、いつも常識を疑うこと、他人の考えでなく自分の頭で考えることが肝要だ。