Kの思索(付録と補遺)

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生の術を為す茶の道における侘と寂~ Kの思索(付録と補遺)vol.57~

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 千利休は「侘び茶」を完成させた。「侘び」とは必要最低限に見出す美、ともすれば一見すると足りなさにすら見えるものに表出する美、しかしだからこそ繊細なまでの十分さを満たしたことによる美。僕はそのように捉えている。

 

 この「侘び」を理解するためのエピソードを一つ紹介しよう。千利休は自らの庭園にアサガオを何本も栽培していた。当時アサガオは珍しかったものだから、その話を聞いた太閤秀吉は、千利休アサガオを見に行くと伝えた。

 

 いざ秀吉が庭園に出向いてみると、アサガオが一本もない。不信と憤りを滲ませながら、秀吉は茶室に入った。すると、簡素で質素な茶室に、たった一輪のアサガオが供えられていた。これを見た秀吉は一転満足して茶室を後にしたのだった。

 

 「侘び」の何たるかはこのエピソードに凝縮されていると思う。不必要な派手さを全て削ぎ落として、ただ一輪のアサガオだけにしたからこそ、むしろその美しさが究極に引き立ったのである。

 

 花は一輪でなければならない。二輪であってはならない。「重複」は「侘び」にとって強烈に避けられる。茶室の作りそのものにおいても、侘びを極めるために「重複」を徹底して排除した。例えば、生花があれば草花の絵は許されない、丸い釜を用いれば水差しは角ばっていなければならない、黒釉薬の茶碗は黒塗りの茶入れと共に用いてはならない………

 

 更に侘びは、茶室を包む時空間へもその拘りを表す。光量を調節出来る窓によって、明る過ぎず暗過ぎず、もっとも美しく茶室を照らす。また茶室に鳴る音も、完全に無音とはしない。湯を沸かす茶釜のチリチリという響きは、まるで清流にきらめく光の反射を見るようだ。茶筅を使って茶を点てる際の音にも、涼やかな竹林に吹く風を感じる。茶器はそれを持って侘びを演出する道具となる。それらを用いて茶を出すまでの作法にも一挙手一投足が定められており、不必要な動作は存在しない。

 

 故に茶室においては、主人と客そのものも侘びとなる。すなわち侘びた環境が精神を高めて凛とし、その高められた精神性とともに行われる作法に応じた動作も侘びを帯びる。だから茶室で行われる一挙手一投足が茶室という環境を形成するフィードバックループなのだ。その点で主人・客と茶室は合一であり、共に侘びそのものなのである。


 そしてこの侘びに、「寂び」の概念を持ちこみ茶室は完全となる。「寂び」とは、全ての物事が時間経過とともに磨耗して衰え廃れて行くこと、しかしその時間経過の廃れ方のランダム性に、ランダムという逆説的な統一性とバランスを感じ入り、世界と自然に合一するプロセスとともに無常を思う美である。そのように僕は捉えている。

 

 寂びを単純に例えるなら、歴史ある古旅館を想像して欲しい。しかしそんな古旅館にあってもなお、掃除が隅々までゆき届き、埃など一片もない。古いということは一目でわかるし、磨耗しているのも伝わってくる。しかし徹底して清潔なのである。そのかたじけなさに美を感じて、思わず涙が溢れる。自然の摩耗プロセスに美しさを感じ入る。これが「寂び」である。

 

 千利休は己の茶室においても清潔を徹底した。「掃き、拭きは術である」とまで言った。要は、茶室完成のための技術の一つに掃除があったのである。

 

 「侘び・寂び」に関して出来る限りの言語化を務めてみた。我々日本人であれば、ここまで言語化しなくてもある程度は理解できるだろう。何故なら、我々はすでに日本的文化としてこのような美の形に馴染んでいるから。日本人であれば、銀閣寺を観ればなんとなく「美しさ」を感じる。水墨画における表面上の簡素さにも、色とりどりの鮮やかな絵画以上の情報量を受け取る事ができる。

 

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長谷川等伯の「松林図屏風」。美術史上、日本の水墨画を自立させたと言われる。

 

 それは、我々が千利休の完全させた侘び茶の文化の上に立っているからである。さらに言えば、侘び寂びのそもそものルーツには、この世を無常だと悟り、諦観を持って解脱する禅の思想がある。

 

 千利休が凄いのは、そのような禅の仏教感と茶を融合させたことである。そしてそこに自分の信じる美を見出し、自らの手で持って文化として完成させてしまったのだ。

 

 千利休は、この一切皆苦の世の中に諦観しつつも、茶を点てることで細やかながら喜びを見出したのだろう。僕も茶を一口飲んだあの微細な至福に、侘びた故の究極が表れることで、人生の幸福の全てが見て取れるような思いがするのだ。我々はその侘びに究極的な満足を見出すことができる。そのような感性は神々しく、救いであり、決定的に美が存在する。千利休もそう確信したに違いない。

 

 武士道が「死の術」と呼ばれるのに対し、茶道が「生の術」と呼ばれるのは上記した理由による。

 

 千利休の最期は、太閤秀吉に反逆を疑われての自害である。しかしその最期は笑っていたという。茶道という生の術を極めた男が、生に相対する死を受け入れ、それを超克した。禅の思想では陰と陽、白と黒という相対する矛盾を超克して太極へと至るという。まさに禅をルーツにした利休の死に様によって、茶道は太極へと通じたのだった。

 

 一杯の茶を飲む際に、太極を感じることが出来る感性の深さ。この記事を読んだ人がそのような世界のあることを理解して貰えれば筆者至上の喜びである。

 

 END.