Kの思索(付録と補遺)

日々の思索です。Twitterはこちら。https://mobile.twitter.com/k0sisaku インスタ→https://www.instagram.com/yushak_satuei

劇場版Fate/stay night [Heaven's Feel]第2章をレビュー~ Kの思索(付録と補遺)vol.74~

f:id:yushak:20190114102222j:image

  Fate/stay night [Heaven's Feel] の2作目に当たる本作。前作の解説記事は下記に貼っておく。単体で見れないこともないが、おそらく何が何やらさっぱりわからないまま、そのアニメーションとしての表現のすごさに圧倒されて、鑑賞を終えることになるだろう。

yushak.hatenablog.com


  さて多少上記記事の繰り返しになるかもしれないが、やはりFate/stay nightを語る上で、3つのルートで描かれるテーマ性の違いを説明しておかねばなるまい。その違いとは即ち、主人公である衛宮士郎の「正義の味方像」の変遷である。


  第1のルートであるセイバールートでは、士郎の正義の味方像に何ら哲学的なものはない。即ち、もっともピュアな正義の味方像である。つまり「誰も彼も救ってみせる」というものである。これはやはり浅いと言わざるを得ない子供の考えである。もちろんそんな事が出来れば一番良いのだが、現実はそう上手くいかない。正義とは何か?という問題が出てくるからだ。正義に見えて悪かもしれない。悪に見えて正義かもしれない。だが、そんなものをとにかく無視して、圧倒的自己犠牲のもと、全人類の友愛を祈り、正義の味方を実行するのである。

f:id:yushak:20190114102633j:image

セイバールート。まぁいいでしょう。


  第2のルートである凛ルートでは、ここからもう少し正義に関する哲学が進む。即ち、「誰も彼も救う!」と張り切った少年が、将来的にどうなったのかが明らかにされるのである。その姿は、見るも無残な敗北の歴史であった。結局、誰も彼も救うという事がどれほどの無理難題かを突きつけられることで、少年はいつしか選択を迫られることとなったのだ。その選択とは以下のようなものだった。「皆を救えないのであれば、できる限り多くの人を救うしかない。」「そのためには少数を犠牲にして、大勢を救うしかない」。


  しかしながらこの誤った選択は、実は衛宮士郎の育ての親である「衛宮切嗣」という人物が、既に通った道なのであった。彼の選んだ「少数を犠牲にして大勢を救う」という道は、いつしか犠牲にした少数が積み重なって、救った大勢の方よりも、犠牲にした人数の方が圧倒的に上回ることになってしまったのである。考えても見てほしい。これの辿り着く道は、結局のところ、自分が本当に救いたいたった一人の誰かのみを救うという事になるのだ。


  実際、衛宮切嗣が「少数を犠牲にして大勢を救う」という自身の哲学で最後に辿り着いたのは、「自身の子供を殺すか、妻を殺すか」という選択であった。そして衛宮切嗣は、子供も妻も両方を捨て去り、彼の正義の味方像は虚無へと至ったのだった。

f:id:yushak:20190114103218j:image

自己の過ちに対しての罪滅ぼしのため、妻と娘をも殺す切嗣

 

  そして切嗣の「全員を救う」「それが不可能なら、少数を犠牲に大勢を救う」というかつての理想は、もはや遥か彼方へと消え去った。途方にくれる切嗣は、燃え盛る街の中で、縁もゆかりもない少年の士郎を助けたのであった。

f:id:yushak:20190114103740j:image

f:id:yushak:20190114103906j:image

Fateがzeroへと至る瞬間であった。


  そして衛宮士郎も、第2のルートでは衛宮切嗣と同様のルートを辿る事になる。しかし「そうなると分かっていてその道を進むこと」と、「何も分からずにその道を進むこと」では、意味が全く変わってくる。第2のルートでは、これが誤った道だと知りつつも、その結果どんな酷い結末が待っているかを知りつつも、それすらも受け入れて、前に進むのであった。

f:id:yushak:20190114104255j:image

これから色々と頑張らなきゃならない笑顔


  そして第3のルートが、今回のHeaven's Feel、いわゆる「桜ルート」と言われているものである。ここに至っては、いよいよ正義の味方に関する哲学が深みを増してくる。元々、切嗣から「未熟なままに」受け継がれた士郎の正義の味方像は、ここに来て円熟を迎える事となる。


  結局「誰も彼も救う」なんてことは、ガキの青臭い理想に過ぎない。そんなことは出来ないし「少数を犠牲に大勢を救う」なんてのも、一種の選択からの逃げ口上であって、まだまだ甘いのである。円熟を迎えた正義の味方像は「自らが大切にする『たった一人』を救う為に、その他全員を犠牲にする」というものであった。本末転倒にすらみえる結論だが、それしかないのである。


  つまり極まった個人的な正義の味方像は、客観的に見ると圧倒的な社会悪であった。そのテーマを描くためには、士郎自身が救おうとするヒロインが、社会に対する圧倒的な害を及ぼす存在でなければならない。「ヒロインを救うか、世界を救うか」という選択を迫られなければならないのだ。


  桜ルートのヒロインである間桐桜が、およそPG12の映像倫理で収まるのが奇跡だったような酷い目にあわされていたり、何かと闇が深いのは、上記したテーマ性を引き立てる為なのである。そして僕がみた劇場では、士郎が桜の上に包丁を持ち、大きな決断を迫られるシーンで、最も涙する声が聞こえてきていた。それは上記してきたテーマ性がこのシーンで最も現れるからである。


  ただ「世界を犠牲にしてたった一人を救う」という正義の味方像も、なんだか腑に落ちないと思う人もいるのではないか。それが最も円熟した正義の味方像だと宣言されても、そうじゃないだろと言いたくなるだろう。それはつまるところ、究極のエゴイズムでしかないと、反論したくはなるまいか。


  勿論そのような反論は折り込み済みである。ただしそれは、2作目である本作では、まだ描かれることはない。ここではあくまでも、士郎が世界を犠牲にして桜を救うということを決意するまでが描かれる。とはいえ、彼が切嗣から受け継いできた系譜を考えると、ここに至るまでも長い道のりであった。元々の士郎は「誰も彼も救う」という人物だったのだから、本作で彼が下した結論は、殆どアイデンティティの否定なのであり、苦渋そのものなのである。


  そして来年公開される最終章でようやく、士郎の正義の味方像は完成を迎えるのである。既に僕は原作をプレイし、結末を知ってるとはいえ、今回の劇場版を見てしまうと、全く別物なのではないかと期待してしまう。それくらい本作の表現力は凄かった。


  最終章は、桜ルートという名の通り、来年の桜が咲く季節に公開ということだ。それまでに原作をやるでもよし、Fate/zeroをみるでもよし、FGOをやるでもよし、空の境界を見るでもよしだ。TYPE-MOONワールドを予習しておこう。そうすれば、もっともカタルシスを得られる状態で、あのラストを迎えられる事だろう。


  END.