Kの思索(付録と補遺)

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セネカ著「人生の短さについて」を思索〜Kの思索(付録と補遺)vol.6〜

今回紹介する本はこちら。

 

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https://www.amazon.co.jp/人生の短さについて-他2篇-古典新訳文庫-セネカ/dp/4334753507/ref=pd_lpo_sbs_14_t_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=8KV98J89Q41DB6AK4B70

 

 セネカは2000年以上前にローマで生まれた哲学者だ。かの有名なネロ・クラウディウス皇帝の教育係、政治的補佐をしていたことで広く知られている。

 

 彼の哲学はいわゆる「ストア派」と呼ばれるもので、財産や地位などの世俗的な概念は苦しみを生む重荷であるとし、人間の理性的な部分をもってそれらを制御すれば、世俗的な苦しみを永遠に乗り越えることができるとする実践哲学だ。

 

 例えば地位について言及するなら、頑張って課長や部長に上り詰めた人が、果たして幸せかどうか。セネカは地位によって幸せは得られないとする。なぜなら、地位は上を目指すほどに責任が重くなり、身動きが取れなくなるからだ。そしてそれは終わりが無いものであり、終わりがあるとすれば上り詰めた地位という名の断崖絶壁からの転落である。

 

 また財産について言及するなら、かつて一度の食事で30億円を費やす晩餐を開催した王の話をしよう。彼はそのような贅沢な生活を続け、ついに自分の貯金残高が20億円になっていた。(それでも庶民には十分すぎる貯金額だ!)そして、これでは飢え死にしてしまうといわんばかりに絶望して、毒をあおり自殺したのだった。

 

 このように、セネカ必要以上の地位や財産は人を不幸にすると説いた。そもそもそれらは人間が作り出した幻想、自然を逸脱した過度の衝動であり、そこに本質的な徳はないと考えた。これらを理性で制御し、正しく生きる方法を説いたのがストア派の実践哲学だ。

 

 さらに分かりやすくするために、この考えと全く同じことを言っている我らが赤木しげるを貼っておきますね。

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 ※ちなみにこれは「天」という福本伸行さんの漫画の最終章である「赤木の最期」に描かれており、ありとあらゆる漫画の中でも僕のベスト、もはやバイブルと言っていいほど読み返している大傑作なので、興味のある方は是非。このような常識をゆさぶされる様々な哲学がソクラテスの対話のごとく3巻に渡って繰り広げられている。

 

 さて、セネカの哲学は、このようにいわゆる人生哲学と言ってよいものだ。2000年以上前の人物の著したそれが、現代人にも納得することのできるものとして伝わり続けてきたことは、セネカの深い人生への洞察の賜物である。

 

 では、この本において印象に残ったセネカの金言を現代人に当てはめる形でからめつつ紹介していこうと思う。

 

 セネカは「人生の短さについて」というタイトルでこの本を記しているわけだが、結論として、「人生は長いものだ」と言っている。ただしそれは正しい生き方をした人のみが得られるものであり、多くの人はそうしてはいないと説く。

 

 では正しく生きるとはどのようなものであろうか。ここでセネカ閑暇な人たれ(ようは暇なひとであれ)と言う。

 

 ここで誤解してほしくないのは、セネカは別に忙しい人を批判しているのではない。人生の本来の価値とは全く関係ないところで忙殺され、自分の時間を失い、人生最後のその時に至って、これまでの苦労は無駄であったと嘆くことのないよう注意しているのだ。

 

 どれだけ多くの人が生きるためだけの労働をしているのか。どれだけ多くの人が銭勘定に必死になっているのか。どれだけ多くの人が権力者のご機嫌伺いをして自分を殺しているのか。どれだけ多くの人が飲み会にでているのか。まるで飲み会が仕事のうちであるとでもいわんばかりではないか。その生活の中に自分がいないではないか。

 

 しかもセネカは閑暇の中にいる時でさえ、多忙な人がいるという。例えば自分の部屋や寝床で一人になったとき、ようやく自由になれたというのに、今度は自分自身が煩わしくなる人だ。このような人は怠惰な多忙とでも呼ぶべきだと痛烈に批判する。

 

 また、いろいろな楽しみに飛びつき、退屈にあえがないためにも閑暇から逃げるようにして多忙に走る人間についても批判する

 

 例えば好きなアーティストのライブがあるとか、旅行の予定をいれたりして、その日が来るまでの日を飛び越えてしまいたいように日々を過ごす人たちのことを批判する。彼らは一生懸命に用事をさがし、空いた時間はいつも退屈にあえぐ。そして、待ち望んでいるものを引き延ばすモノ全てを彼らは長く苦痛として感じる。

 

 彼らは夜を願って昼を失い、朝を恐れて夜を失うのである。

 

 次のような人たちもみな同類であるという。すなわち、何かをやめてしまったあとで、やめなければよかったと後悔する人たち。また、まるで寝付けない人みたいにごろごろとあちらを向いたり、こちらを向いたりしているうちに、ようやく疲れておとなしくなる人たち。

 

 このような人たちは自分の生き方をたえず変化させ続ける。最終的には一つの生き方におちつくとしても、それは変化に嫌気がさすからではなく、歳をとって新しいものに鈍感になってしまうからなのである。

 

 そんな心をもつ人たちは、自分のやりたいだけのことを、実際にやったり、追い求めたりすることができない。彼らはすべて願望することしかできない。実際にやったとしても、苦労の報いが得られないときには、空しい悔恨の情が彼らを責め立てる。願望が満たされないことをひたすら嘆くことになる。

 

 こうして、彼らの精神は、捨てられた沢山の願望に取り囲まれて、活力を失い、無気力になっていくのである。ひとは、次から次に旅を繰り返し、次から次に眺める風景を変えて、つねに自分自身から逃れようとするのである

 

 だが自分自身から逃げることなど決してできはしない。結局、彼らは頻繁に生き方を変えるも、いつも同じところに戻ってくることになる。そして、ついには新しいことをする余地を失う。最終的には、彼らは人生に、そして世界そのものに、うんざりしはじめるのだ。

 

 どうだろうか。およそ、2000年前の人物が言ったとは思えないほど、現代人にも通じる人生哲学だとは思わないだろうか。2000年の時を経てなお、人間は同じ問題で悩み、苦しんでいるのだ。テクノロジーは莫大な変化を遂げたが、人間の本質は変わっていないということがわかる。

 

 ではセネカのいう、正しい閑暇とは何なのであろうか。

 

 答えを書こうかと思ったが、やっぱりやめることにした。このブログでは上記の部分が伝われば十分かもしれない。同じ苦しみをもち、それを解決したいと本当に願う人は上記の説明だけでも実際に本を取るだろうし、下手に結論を書いて、本来のセネカの意図と違う風に捉えられても困る。

 

 僕もセネカの説く閑暇な生活を心がけたいと思う。このブログをセネカが読んだらどう思うだろうか。