Kの思索(付録と補遺)

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オタクは何故最下層に落ちるのか 創作物語にのめり込むことの弊害〜Kの思索(付録と補遺)vol.7〜

 人は小説や漫画、映画という娯楽に救われることがある。時には人生の捉え方が変わるほどの作品に出会う時もある。人生における清涼剤、薬となるのが創作物語の大きな価値だ。

 

 しかし、薬も取りすぎは毒になってしまう。

 

 今回の記事では創作物語を過剰摂取する事のリスクを語りたいと思う。本来であれば人生の救いとなるはずの創作物語が、人生を壊すものにもなりうる事を訴えていきたい。

 

 そして、そのようなものにどっぷりと浸かったいわゆる「オタク」と呼ばれる人達が、何故現実社会のヒエラルキーの中で大部分が最下層に落ちることになるのか、何故そのようなことになってしまうのかを明らかにしていきたい。

 

 そもそも、万人の人生の救いとなるような創作物語とはどのようなものであろうか。僕はこれを「王道」と定義しており、売れる作品は基本的に王道を忠実に守っている。売れる作品を作りたければまず王道を守ることだ。

 

 僕はこの王道というものが以下の重要な3つの要素を持つものだと確信している。
 1.  主人公が何らかの社会的欠点や厳しい過去を持っており、
 2.  その主人公が自分より圧倒的に優位な立場の敵と戦うことになるが、
 3.  最後まで決して諦めず、その強大な敵に立ち向かい続ける

 

 ドラゴンボール、ワンピース、ジョジョ半沢直樹などなど、挙げればキリがないが、これらの爆売れした作品は全て上記の重要な要素を持つことが分かるだろう。皆さんも「王道だなぁ」と感じる売れた作品を思い浮かべて、上記の要素と比較してみてほしい。多くは間違いなく当てはまるはずだ。

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 そして人はこのような王道に救われるのである。なぜなら、これが誰しも願う理想の生き方であり、ある意味宗教的な美談であり、主人公の困難へのくじけなさ、へこたれなさは万人に勇気を与えるからだ。

 

 だがしかし、僕はここに大きな落とし穴があるのだと言いたい。

 

 果たしてこのように、現実世界で王道を貫けるものだろうか。否である。何故なら、創作物語によって救われた万人がみんなこのような王道を貫けていたのなら、現実世界においていわゆる「悪」がここまでのさばるわけがないはずだからだ。

 

 現実では何が起きているかといえば、それらの創作物語が大好きな「オタク」達が、ヒエラルキーの最下層に押しつけられている状況だ。そして「オタク」はみな口々にこの現実世界への不平不満を呟き、あるいは半端に悟ったり、早く死にたいと嘆いたりしている。

 

 創作物語の最大の悪をズバリ述べよう。創作物語の悪は、それが現実世界に適用出来ないということを巧妙に隠した「嘘」である、ということだ。

 

 創作物語は、例えフィクションだろうと、嘘くさくてはいけない。だってそんなことをしたら売れないだろう。誰がお金を払ってまで、嘘くさい作品を買って、感動出来るというのか。

 

 傑作と呼ばれる作品は、いつも矛盾が無いようにみえる。矛盾がないので、まさにこれが現実で起こってもおかしくないとオタクに確信させる。そしてオタクは雄弁に語ることだろう。この傑作にどれだけ深遠な「本質」や「人生の真理」「正しい生き方の姿勢」があるかということを。

 

 だが、その本質は嘘である。非常に腕のいい作家が、王道にするため、社会的弱者に勇気を与えるため、金を稼ぐため・・・作品作りにおいて入念な推敲を重ね、現実世界でいかにも主人公の輝かしい生き方が適用出来るかのように世に送り出しているのだ。

 

 では、実際に王道漫画の生き方のような姿勢を現実で貫くとどうなるか。第一にまず「狡猾な人に利用される」ことになる。

 

 例えば「みんなで一緒にゴールしようね」と呼びかけ、それを守った人が、守らなかった人に一番を奪い取られる。しかも、もっとも損をする確率が高いのは呼びかけた本人だ(ただしこれを悪党にも本人が守らなければ、彼が一番得をするだろう)。

 

 例えばいい人は、どうでもいい仕事や責任を押し付けられ、狡猾な人に一番良いところを奪い取られ、定時で帰られてしまう。

 

 前向きに努力しつづければ何とかなるという思考停止の人間は、いかに楽をするかを必死に考えている狡猾な人間の格好のカモとなる。

 

 武器を持っている人間が、持ってない人間の要求を飲む合理的な理由はない。

 

 要は現実に王道な生き方など成立しえないのである。何故なら王道な生き方をした人は、そうでない人に利用されるだけだからだ。

 

 しかし、それでもなお、創作物語は希望を抱かせる。今は辛いが、自分の生き方は王道であり、この主人公のように、いつか、いつかきっと報われる時が来るのだと願い続ける。

 

 だが創作物語の第2の嘘がここにある。それは、創作物語が何らかのテーマを伝え切った時点で完結する、ということだ。対して、人生は死ぬまで完結しない。実は「完結する」ということが正に嘘であり、理想なのである。例えば理想に燃えて死にゆく主人公の姿に感動しても良いが、それを現実に適用するなら、同じように理想に燃えて死ななければならない。そんなことはキリストでもない我々凡人には不可能なのである。

 

 我々凡人はせいぜい、胸に理想の火を灯しながら、パッピーエンドを願って長い長い死までの人生をくすぶりながら生きていくのだ。その火が消えてしまわないように必死に守りながら。

 

 つまり、創作物語の嘘を、現実に適用出来る本当だと信じるに至った薬中毒のオタクが幸せになる道理は全くないのである。

 

 では現実世界で勝ち組になる人間は、どのような態度かを見てみよう。

 

 彼らは、たいてい創作物語へ逃避することなく、実際に現実世界の問題に日々立ち向かっている。そして、その泥臭く汚い現実で、喧嘩の勝ちパターンを見つけていく。それは取り繕いであったり、表面的なコミュニケーションの重要性だったり、嘘のつき方だったり、女の落とし方だったり、様々であるが、一般的にあまり「美しい」とは呼べないものかもしれない。

 

 要は如何にして相手より優位に立つか、自分をより良く見せるかという事を実際の人生で試行錯誤している。よって王道な「態度」は必要であることをよく理解しつつ、心の底ではいつでも「悪」を使える用意をしている。そんな相手にオタクが勝てるわけがない。現実世界は戦略が支配する戦争であり、喧嘩慣れしていない人間が優位に立てるような甘い場所ではないのだ。

 

 とここまで書いてきたが、勘違いしてほしくないのが、僕は創作物語が大好きだという事だ。小説も映画も漫画も沢山語るオタクだ。ロッキー的な王道物語が大好きだ。王道的な生き方はとても美しいと思う。否定する気には微塵にもなれない。

 

 今回の記事は、そのような創作物語を盲目的に信じたり、取り込み過ぎる事の危険をふと感じたので思索してみたものだ。半沢直樹はあらゆるサラリーマンの心の中に存在するが、現実には決していないのだ。僕はこれからも以上のような視点を持ちつつ思う存分に創作物語を楽しんでいくつもりである。みなさんはどうだろうか。