論理とは定義された概念の正しい使用である 他〜Kの思索(付録と補遺)vol.93〜
写真は今週のバーベキューでのハイライト。やはり、かたまりの肉を豪快にいきたい。これだけ厚いと果物を食べたときのような肉汁のあふれ方を体験できる。
2019/8/24(土)
・久々に大学生に戻ったかのような勉強をする。しかし途中で友人にエーペックスレジェンズに誘われ、結局あまり集中できず。
2019/8/25(日)
・友人とバーベキュー。バーベキューは豪快さがいのち。どれだけ塊肉を焼くかだ。
ただし肩ロースの塊肉だとさすがに噛みきれないので、安いサーロインくらいまではランクを上げておきたい。
今回は串焼きにも挑戦したが、一本挿しだと具材がひとつずつバラバラに回転するので、両面をうまく焼くのが困難。
そのため、2本挿しが必要と判明。
また竹串だと根本が焦げて折れる恐れあり。水であらかじめ湿らせると折れにくいと説明に書いてあったが、ふつーに折れた。鉄串が必要だ。
また鶏肉のスモークにも挑戦したが、フタの空気孔を開け忘れたために炭が鎮火するという初心者らしいミス。
そのため、多分最初しかスモークされなかったのだろう、ほんのり薫る程度に完成した。
炭焼きの牛タンもマストだ。
2019/8/26(月)
・風邪気味で朦朧としながら仕事をする。
2019/8/27(火)
・風邪っぽさが治らず。コーヒーで頭痛と喉の痛みと身体のだるさをごまかしながら仕事をする。
2019/8/28(水)
・風邪が治らない中、一日中の立ち仕事をこなす。余剰体力をつけるいい機会なので、夜ランニングを実行する。
2019/8/29(木)
・「空気を読まない人間」と思われがちだが、いつでも空気を読みたいと思っている。しかしながら、気付けばいつも人と違う空気を作っている、そういう感じが滲み出た仕事をする。ようやく風邪が治ってきた。
【論理とは定義された概念の正しい使用である】
論理的であるからといって、それが直感的にわかる現実に一致しているとはかぎらない。
言いかえると、論理的に正しい語りが、現実的に「在りうる」かは別である。私がなにを言おうとしてるかわかるだろうか?
例えばこういうことである。
1という概念がある。1という概念とはなんなのだろうか?我々は原始、そこに石がある、そこに葉っぱがある、そこに木がある、という状態を見つけた。人間の理性は、これらをなにか統一的な概念にできないものかと考えた。そして「何か単体であるもの」全てに、1という数を与えた。
これは天才の所業であった。
我々は普段、数字になじみすぎているために見すごしがちであるが、これは大発明であった(「竜の卵」という大変おもしろいSF小説を読んでいただきたい。数字の発見がどれほどのことだったのかが分かるだろう)。
数字は誰が発見したのか不明であるが、最も古くて高度な数字はおよそ五千年前のエジプトの古代文字で、十進法で「一千万」までの単位の数字が発見されているそうだ。余談。
さて、以上のことを踏まえると、「1は現実的に在りうるもの」だろうか?ここで一呼吸おいて、すこしだけ考えてみてほしい。
そうして人間は、ついに「何も無い」という概念の数字を発見する。
もちろん「0」のことである。
さて何も無いという意味の「0」は現実に在りうるものだろうか?……さらに、人間の思考はとどまることを知らないものだ。ついには「何も無い、よりも小さいようなものがあるか?」ということを考えだした。
マイナスの発明である。
マイナスは現実に在りうるだろうか?さぁ、このあたりになると、だんだんとクラクラしてくる人もいるのではなかろうか。しかしこれでもまだなお、中学生の数学である。
ただし、小学生で算数がなんとかこなせていた子も、中学生になって数学になり、このマイナスの概念が出てくるあたりで途端に苦しみだす。
特にマイナスの掛け算が出てきたあたりからだろうか?
なぜかといえば、直感で思いうかぶ対象が自力で見つけにくいからである。だから先生は、マイナス同士の掛け算がプラスになることを「反対の反対」と教えたり、「後ろを向いて、その状態でさらに後ろに走る」などと教える。
すなわち、いろいろと現実に当てはめながら概念を伝えるのである。
だからこのステップは、現実的で理解しやすいものから、どんどん理解しにくい抽象の領域へと足を踏みいれていることになるのだ。
さぁ次で最後にしよう。少し難易度が上がるが、分かるだろうか。
「おなじ数字同士をかけ合わせて、-1になるような数はあるか?」
いっしょに考えてみよう。たとえば、1×1=1である。ダメだ。2×2=4である。ダメだ。どうも正の整数では駄目らしい。0×0も0なのでダメだ。とはいえ、(-1)×(-1)=1なのでこれもダメだ。負の整数でもダメらしい。
ではそんな数はないのだろうか?
いや、諦めてはいけない、無いのなら、定義して作ってしまえばいいのだ。ということでi × i=-1となるような数「i」を、定義して作ってしまった。
こいつを「虚数」と呼ぶ。
虚数も最初はデカルトにおいて「詭弁的な数字」とか「ただの想像上の数」とかいわれていたが、オイラーがその実用性を発見すると評価は一変し、「神の精神を見事に表現した数字」などと呼ばれたりした。わかりやすいものだ。
とにかく、そういうものが存在すると仮定して、計算に使うと便利すぎたのである。だから現実的な「在る」から一見すると離れていくところに、論理は強固に立つことが出来るのである。
さて、少し数学っぽい話が多くなってしまったので、言語でそういうものがないかを最後に見てみるとしよう。では、次の質問に答えてみてほしい。
「動いているのでもなければ、止まっているのでもないような状態があるだろうか?あるとすれば、それはどのような時間においてか?」
どうだろうか?こんなことを問われたらすぐさま、「そんなものはないし、そんな時間はありえない!」と答えたくなるだろう。
しかしそこで抜け道がないか探してみる、もしくはそういう概念がないかを考えてみる、それでもダメならそういうものを定義してしまっても良いだろう。さて、上記の質問に答えられそうなよい概念を我々は知っているのだ。
それは「忽ち(たちまち)」という時間の概念である。
動から静に、また静から動に移り変わるその瞬間、限りなく時間がなく、また限りなく時間があるその瞬間、その忽ちに、変化が起こるのである。すなわち、変化というのは、ただ動から静へジャンプするように移行するのではなく、必ずこの「忽ち」という概念を経由しなければならないとすれば、いかがだろうか?(A・Eオイラーはこの概念を振り子に例えている。振り子が振り切って止まってから、再び動き出すまでの間の一瞬に「忽ち」を経由する)。
詭弁と思われるかもしれないが、この言語による発想は、そのまま数学の微分・積分という概念に直結していくのである。
以上を踏まえると、最初に私が何を言おうとしていたのかがわかっていただけるだろう。繰り返すが、論理的であるからといって、それが直感的にわかる現実に一致しているとはかぎらない。言いかえると、論理的に正しい語りが、現実的に「在りうる」かは別である。
論理とはただ「あくまでも」、定義された概念の正しい使用にすぎない。
極端に言えば、「ホニャララのフニャフニャ」という言語使用でも、ホニャララとフニャフニャがきちんと定義され、その使用が正しく行われていれば、「ホニャララのフニャフニャ」は論理的でありうるのだ。
しかし何故かそのような、一見すると現実ばなれしたような論理であっても、それが論理的に正しく使用される限りにおいては、この現実でも確かにとても便利であると確かめられることが多いのだ(ただし、受け入れられるまでしばらくはかかるが)。
しかし不思議だ。まさに現実に在るかのようではないか。
「現実に在る」とは何なのか?
2019/8/30(金)
・仕事をする。ほぼ一週間続いた風邪が治る。